ケーキやプレゼントを持った家族連れの姿は消え、恋人たちが肩を並べて歩いている時間。聖夜を彩るイルミネーションに照らされて、街を行きかう彼らは皆幸せそうに甘い時に酔いしれているようだった。聖なる夜の恋人たち。響きは美しいがその裏に渦巻いている欲望と本能のことを思うと佐々良は反吐が出そうであった。人間たちがこうして浮かれているならまだいいが、同族たちも同じように過ごしていることが、コベライトにとって堪らなく情けなくなるのである。人間の作った宗教行事に便乗するだけではなくあまつさえそれを自分たちも当然行うことのようにしていることが嫌で仕方ないのだ。その一方、自分たちがこれまで行ってきた祭りは蔑ろにして、さらには忘れ去っている者さえいるのだ。仕方がないといえば仕方がないのだがその現状に憤りを通り越して呆れてものも言えない。
 佐々良は人ごみを避けるように路地に入って行った。人間の臭いが溢れて気分が悪くなるし、その中に同族の臭いが混ざっていてさらに不愉快であるからだ。わざわざそうして遠回りをして、再び大通りに戻る。先ほどまでのショッピングモールやレストランが並び、恋人たちが微笑ましく愛を語り合う通りとは打って変わり、怪しいネオンやいかがわしい看板が溢れた俗の臭いで噎せ返るような通りである。やつらは聖夜をこんな場所で過ごすのか、と佐々良は皮肉っぽく笑った。
 あるホテルの前まで来たとき、派手な金髪の男が出てきたところだった。右耳には、濃い灰色の石が嵌ったピアスがぶら下がっている。佐々良がその男をじろりと睨むように見ると、若い男も気づいたようでこちらへつかつかと歩み寄った。
「ナンだよ、オッサン。オレサマはオトコにゃ興味ないぜ?」
「俺の顔忘れたのか、ボーノ」
 佐々良がぎろりと睨むと、若い男――ボーノナイトは顔を青くしてピンと背筋を伸ばした。
「あっ、これはコベライト様! へへ、失礼しました」
「テメェはコロコロ顔変えっから探すのクソ面倒だったんだぞ。ま、テメェはでっけェピアスしてりゃすぐ分かるけどな」
「まあこれだけは外せませんからね」
「フン。まあそんなこたァどうでもいいんだ。わざわざテメェを探したのは仕事があっからだよ」
「仕事っスか」
 コベライトはスマートフォンを取り出した。画面には、高校生くらいの少年が制服姿でマンションへ入っていく映像が映されていた。これは、トパーズィオの住むマンションの防犯カメラの映像を部下に大至急命じて解析させ、送らせたものである。
「テメェの能力が必要だ」
「はあ、ナルホド。オレサマにしかできねェ仕事っスね」
 ボーノナイトはにっと笑った。画面の中の少年は、麗しい緑色の瞳で防犯カメラを不安げに見上げていた。

* * * *

 慧のクラスメイトの上原理緒はしょぼくれていた。結局何もできずに高校生活最後の冬休みを迎えてしまったのだ。クリスマスである今日は慧を誘う気でいたのに、あっさり断られてしまったのである。考えてもみれば、あれだけの美少年である慧がクリスマスを一人で過ごすはずがない。きっと昨夜は恋人と二人で過ごしたのだろうと上原は思った。そうだとするとどのような女なのだろう。あの慧と釣り合うほどの絶世の美女に違いない。だとすると、クラスの中では可愛いといわれていてもあくまで平凡な女子高生である自分に勝ち目は初めから、ない。
「ちょっとリオ、いつまで落ちこんでんのよ」
 同級生の浜田舞が言った。気晴らしに買い物に来たはいいが、どうしても気分が乗らない。さらに気が滅入ることにショッピングモールにはカップルばかり。それはそうだ今日は、クリスマスなのだから。
「あんたばっかりそうじゃないのよ? あたしだって木佐貫くんにフられたんだから」
「分かってるけど」
 今日一緒にいる彼女もまた、慧に誘いを断られた一人である。お互いにお互いで出し抜いてやろうと思っていたがどちらも振られてしまったのである。
「あーあ。せっかくのクリスマスなんだから、今日も一人なんてヤだなー。ナンパでもなんでもいーから誰かといたいわー」
「ナンパはさすがにアレだけど、わたしも寂しいかも」
 上原はため息をついた。密かに素敵な異性が声をかけてくれたらという期待は確かにある。このままでは女二人でぐだぐだと過ごすだけのクリスマスで終わってしまう。
「あれっ」
 不意に浜田が声を上げた。何かを見つけたようである。
「なになに?」
 と上原が浜田の見ている方を見ようとすると、浜田は慌てて彼女の視線を遮った。
「なんでもないの! あそこのコートがかわいーなーって思って」
「そっかぁ。てっきりかっこいい人でも見つけたかと思った」
「そうそう。あ、あたしちょっとトイレ行ってくるから、リオは向こうで待ってて」
 そう言って浜田は大急ぎで角を曲がって行ってしまった。上原はぽかんとしながらも怪しいなとそっと後を追いかけた。角を抜けると紳士服のコーナーでトイレなどない。やはり怪しい、と浜田の姿を探した。目ざとい彼女のことだから、やはり目ぼしい男を見つけたのだろう。
(抜け駆けなんてズルいよ)
 ぶつくさ言いつつ、紳士服のコーナーを抜けるとエレベーターの前であった。そこにはちょうどエレベーターに乗り込もうとする浜田の姿と、背の高い少年の姿があった。すらりとした後姿、少し癖のある烏羽色の髪、なによりあの制服は七生高校の男子の制服である。
(まさか、木佐貫クン?)
 そう、見間違えるはずもない。少年は、あの木佐貫慧であった。
「ちょっとマイ!」
 上原は怒鳴ってエレベーターに駆け寄った。浜田はこちらに気づいたが、にっと得意げ笑ってドアを閉めてしまった。上原がボタンを押してもすでに遅く、数字は3階から1階へ変わっていった。
(抜け駆けされた! ホントにあり得ないんだけど!)
 女の友情なんて脆いものだと上原は改めて思い知った。しかもここまであっさりと砕かれてしまうものと。悔しくて悔しくて堪らない。
(こうなったら絶対とっちめてやるんだから!)
 業腹の上原は近くのエスカレーターを勢いよく駆け降りた。どこへ行くのか知らないが、急げば捕まえられるかもしれない。カップルの間を割って入り、お喋りをしている女子学生を蹴散らしてエレベーターのある方へ行こうとエスカレーターを降りるなり、ぐるんと曲がった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 曲がった瞬間、出会い頭にぶつかってしまった。上原は後ろへ転びかけたが、相手が手を引いてぐいと助け起こした。
「大丈夫、上原さん?」
「ごめんなさいっ。……あれ?」
 なんと、自分を支えているのは木佐貫慧であった。どうやら自分は間に合ったらしい。心の中でほくそ笑み、自分を出し抜いた友人に「ざまあみろ」と言ってやりたかった。
「木佐貫クンごめんねぇ。ちょっと急いでたから。それにしてもこんなところで会うなんて偶然だねー」
 とわざとらしく言いながらちらりと彼の後ろを覗き込んだ。おそらく浜田は顔を青くしているに違いない。わたしを出し抜けると思ったか、と笑ってやろう。
「大丈夫かよ、慧」
 しかし、聞こえてきたのは男の声だ。おや、おかしいな。もしかしたらエレベーターでは分からなかったが、連れがいたのだろうか。よく見れば、慧の連れている少年はいつしか文化祭で見た顔だ。
「大丈夫だよ。上原さんにも怪我はないみたいだしね」
 慧は安心したように笑った。一方の上原は憧れの相手に手を握られていることも忘れ、友人が一向に姿を見せないことを気がかりに思っていた。彼女は自分に気づいて慌てて隠れたのだろうか。
「あの、木佐貫クン……さっきマイと一緒にいたよね?」
 おずおずと訊ねてみる。慧は目をぱちくりさせた。
「ええと、浜田さんのことだよね? ううん、ぼくは涼介とずっと一緒にいたから。ねえ?」
「ああ。大掃除の買い出し」と涼介と呼ばれた少年が両手に持った買い物袋を見せた。
「ええ?」
 二人の様子を見ても、とぼけていることはなさそうだ。そもそもとぼける理由がないのだから。上原はますます分からなくなった。では、彼女は、慧によく似た美少年を偶然見つけて、そのままついて行ったということなのだろうか。
「あ、あれ? さっき制服だった……よね?」
「制服? さっきクリーニングに出してきたんだ」
 思い起こしてみれば、学校は昨日で終わっていたのだ。クリスマスイヴに終業式だなんて気の遣えない学校だ、陰謀だ、と散々喚いていたことを思い出した。では、あの制服の少年は一体誰なのか。この3年間ほぼ毎日見てきた制服を見間違えることはあり得ない。
「あ、あのね、さっきマイが木佐貫クンにそっくりな人と一緒にいて……」
「他人の空似じゃないか?」
 隣にいた涼介が言った。上原は首をひねった。ならば、やはり彼女は慧によく似た少年とともにいただけなのだろうか。
「じゃあ、マイは誰とどこに行っちゃったんだろ……」
「連絡してみたらどう?」
 慧に言われて、上原は携帯電話を出して、浜田に電話をかけた。しかし、単調なコール音が続くばかりで一向に彼女の声は聞こえてこない。電源を切っているのか、それともあえて無視をしているのか。しばらく待っていたが、やがて留守番電話に切り替わってしまった。
「出ない」
「そっか」
 上原はもやもやしてもう1度かけなおしてみようかと思い、リダイヤルをしようとした。その前に着信があった。浜田舞からだ。
「ちょっとぉ、マイ!」
 上原はすぐに電話を受けるとそう口を尖らせた。
〈ごめんねリオ。あのね……今ね……〉
 聞こえてくる彼女の声は歯切れが悪い。それはそうだろう、友人を出し抜いたのだから。上原は捲し立てるように言った
「もう、心配したんだから! てっきりわたしを置いて木佐貫クンと一緒にどっかに行っちゃったのかと思った。でも、木佐貫クンはわたしといるし。いったい誰といるの?」
〈え? 木佐貫クンがいるの?〉
 浜田は驚いたように言った。そこで突然「キャッ」と短い悲鳴が電話の向こうで上がった。
「ちょっとどうしたの?」と上原が驚いて訊ねた。しばらく間を開けると、先ほどよりトーンの明るい声で浜田が言った。
〈ごめんごめん。ちょっとつまづいちゃって。それで、リオのとこに木佐貫くんがいるのね?〉
 浜田は念を押すように語尾を強めた。先刻までのどこかおどおどしたような調子とは打って変わっている。
「そうだよ。だからマイは誰といるのかなって。いきなりわたしを置いてちゃっかりイケメンと遊びに行くなんてズルいよ!」
〈ねえ、リオ。いまどこ?〉
 浜田は妙なことを訊いた。上原は「え?」と思わず零した。
「どこって……一階だけど?」
〈どこの一階?〉
「だから、さっきまで一緒にいたとこの」
〈そこに木佐貫くんもいるのね?〉
 さっきからおかしいな。そこでやっと上原は気づいた。どうして執拗に慧のことを訊くのだろう? もちろん彼女も慧のことを好きだから恋敵が一緒にいるのが気に食わないのもあるだろう。しかし、先に上原を置いて男のもとへ走ったのも彼女なのだ。そのくせ慧といることを非難するのだとしたら理不尽だ、と上原は思った。
〈ねえ、リオ。木佐貫くんに代わってくれる?〉
 浜田はこう言った。
「なんで? ていうか、マイ、あんた誰といるの?」
〈いいから、木佐貫くんに話したいことがあるの。お願い。別にあんたを出し抜こうっていうわけでもないんだからいいでしょ?〉
 と浜田は頑なに譲らない。何が何だかわからないが、癪なのもあって意地でも代わってやりたくはない。
「じゃあ、あんたが誰といるのか教えたら代わってあげてもいいよ?」
 上原がこう聞くと浜田はしばし黙った。言えないような相手なのかだろうか。一体どんな相手なのだと言ってやりたかった。多少の間を開けて、向こうは静かに、低くこう言った。
〈シグルズを知っている人〉
「はあ? なにそれ、シグルズって?」
 上原は呆れや苛立ちを含んだ声を出した。涼介と慧は突然その言葉が飛び出したものだから驚いてお互いに顔を見合わせた。
「ちょっと、上原さん。浜田さんがシグルズって言ったの?」
「ウン。ワケわかんないけど」
〈リオ、あたし言ったよ? 早く木佐貫くんに代わって!〉
 急き立てるように「浜田」が怒鳴った。やはり、おかしい。上原は不安げな眼差しで慧を仰いだ。
「あ、あのね、マイが木佐貫クンに代われって……」
「ぼくに?」
 慧と涼介は再び目配せし合った。涼介は頷き、慧は上原から携帯電話を受け取るとスピーカーモードに切り替えてから電話を受けた。
「もしもし、浜田さん?」
〈お前が木佐貫慧だな?〉
 少女の声が一変、男の声へと変わっていた。びっくりしたように口を覆う上原。
「おまえは誰だ」
 慧は低い声で訊ねた。男は高く笑ってこう続けた。
〈オレサマ、シグルズ知ってんだ。このイミ、分かるよな〉
「なるほど。どうやってぼくのことを突き止めたのかは知らないけれど、そんなことはどうでもいい。……目的は何だ」
〈今日はシグルズなんてどーでもイイんだ。お前に会いたいヒトがいんのさ〉
「へえ、ぼくにね」声音こそ軽めだが表情は変わらず固い。
〈このオンナを返して欲しかったら、お前1人で森林公園のフクロウ像の前に来い〉
「ありがちな要求ではあるね。なぜぼくなのかは知らないけれど。……いいだろう、行こう」
 電話はそれぎり切れてしまった。おどおどしている上原に携帯電話を返すと、慧は涼介に言った。
「なぜだか知らないけれど、向こうはぼくをご指名みたいだよ」
「ああは言われたけど、オレも後ろからついてくぞ」
 慧は頷くと、上原にふわりと微笑みかけた。
「上原さん、ごめんね。多分ぼくのせいで巻き込んでしまったのだと思う。絶対に浜田さんを連れ戻すから、少し待っていて」
 上原はただ頷くしかなかった。いきなり友人がいなくなった上に、この脅迫電話。突然襲ってきた非日常に思考回路が停止してしまうのは当然だろう。
「じゃあ、行くよ」
「ああ」
 二人は頷き合うと、ショッピングモールを飛び出して行った。上原は崩れるように、木のベンチに座り込んだ。
 一体自分の周りで何が起こっているのだろう。そして、一体彼らは何者なのだろう。いつしか蛇の怪人が襲ってきたことがあったが、そのときも慧が守ってくれた。高校で蜘蛛の怪人が暴れたときは「仮面ライダー」が現れて戦ってくれた。
(そういえば、あの仮面ライダーとかいうの……シグルズって木佐貫クン呼んでた……)
 慧とは一年間同じクラスで過ごしたのに、彼のことはよく知らない。評判は高校一年生のときから聞いていたから、いざ同じクラスになると嬉しくて。アピールするために話したりしていたが、彼は大して自分のことを話そうとしなかった。その秘密の多さも魅力の一つではあったのは確かだが。
(いったいなにをしているんだろう)
 行き交う人の渦の中、上原は急に一人ぼっちになった気分だった。踏み込んではいけない世界がまた目の前に迫ってきたようで、ここから動くことが怖かった。

* * * *

「いやあ、意外と上手くいくもんスね」
 金髪の男――ボーノナイトが言った。隣には体を固くしている少女、浜田舞。運転席には佐々良忠信こと、コベライトである。窓を開けずに煙草を吸うものだから、煙が車内に充満して視界が白い。
「コベライト様の特定力はすごいッスよ。あの映像だけでどこの高校の何年生で何組だか分かるなんて」
「ハッ、朝飯前だ。むしろ今までシグルズの周りにいるヤツを調べようとしなかったほうがオカシイんだよ。あの事件の関係者の情報はシャットアウトされていても、その他モロモロのヤツなんかカンタンに特定できんだよ。制服で高校なんざ一発だし、学年ごとに校章の色が違うから学年も特定可能。ヨユーだっつの」
 コベライトは得意げに笑った。彼の財力と権力を持ってすれば、これくらいのことは容易いのだ。慧の身元を特定し、クラスメイトもリストアップ。高校周辺の防犯カメラを部下たちに調べさせ、上原と浜田を発見したのであった。その上、お誂え向きに慧たちもいたのでこれは好機と作戦を決行したのである。当初はまどろっこしいことをせず、慧のみを拉致する予定であったが、近くにシグルズの変身者がいたためこのような作戦に変わったのである。
「そういや、トパーズィオ様のマンションでシグルズの変身者の画像入手したなら、ヤツの身元も特定できそうなモンなんスけどねぇ」
「〝ヤツら〟のセキュリティが厳重なのさ。そんなに仮面ライダーを守りたいのか、ヤツに関する情報はことごとくシャットアウトされちまってる。ハッキングも不可能なくらいにな。だが、そんなコトをする必要はもうねェ。あの木佐貫慧とかいうガキさえいりゃな」
「なるほどぉ。にしても、あのガキいったいなんなんスかねぇ。仮面ライダーの親友、なんスよねぇ」
「さあな。とりあえず、利用価値のあるヤツは使うだけさ。ホラ、行きな。アイツらが来ちまうぞ」
「アイサー。ほら、立ちな」
 ボーノナイトは浜田の腕を掴んで車から出た。残ったコベライトはエンジンをかけて、ぐっと背凭れにもたれ掛った。茶色の髪を搔き上げ、はあっと大仰な溜息を吐いた。
(にしても、木佐貫……どっかで聞いたことがある苗字だな)
 ドアを開けて寒空の下へ。面倒だが行くしかない。

* * * *

 森林公園には慧や涼介が幼いころよく訪れたことがある。古い洋館がそのままになっていて、まるでお化け屋敷のようだということで近所でも評判であった。聞けば大正時代の建物で、それなりの華族の屋敷であったらしく記念に保存をしてあり、中に入ることはできない。それでも薄暗い林のなかにぼんやりと建てられたあの建物は不気味であった。
 慧はXRから降りると、ヘルメットを手渡しながら言った。
「じゃあ、行ってくるよ。周りに見張りがいるかもしれないから涼介はここで」
「ああ。相手が何考えてんのか知らねーけど、気をつけろよ。危なくなったらすぐ呼べよ」
「ウン」
 薄暗く、昼下がりの日差しも届かない。木枯らしに乗って、茶色の葉が舞う。末枯れた草を踏みしめ、慧は進む。涼介のバイクに乗って買い物に来ていたからそれなりに厚着だが、それでも彼にとっては冬の空気は堪える。体温調節がうまく出来ない体質のため、寒さには取り分け弱い。どんな用事だか知らないが、早めに終わらせてしまいたい。慧は息を吐いた。吐息はそのまま空気に溶けた。
 それにしても、なぜ自分なのか。慧は思った。名指しで指定されたということは、向こうは自分のことを調べたのだろう。いったいどの範囲まで知っているのか分からないが、場合によっては非常にまずいかもしれない。いや、むしろ知っていたらこのような真似はしないであろうから、自分が「仮面ライダーシグルズとともにいる少年」という認識でしかないのだろう。なるほど、シグルズに手を出してむやみに部下を倒されるよりはすぐ近くにいる自分を利用しようとしたのかもしれない。そうだとしたら、何てまどろっこしいのだろう。それだけ向こうが用心しているということなのか、馬鹿なのか。危機感を覚えるより呆れた。同時に同情したくもなった。もっと他にやり方があるだろうに。自分のほうがよっぽどいい案を考えられそうだ。
(そう。まずは人質だなんて面倒なことはしないで……)
 縁起でもないようなことを想像しつつ、気が付けば梟の像の前に来ていた。ぎょろりとした金色の目が特徴的で、涼介が見るたび怖がっていたなと思い出し笑い。森の中でも多少開けた場所にあるといっても、不気味な像である。
「来たぞ。浜田さんを返してもらおうか」
 慧は暗然とした森の奥に向かって呼びかけた。ざああと枯れ柳が揺れた。木の葉の掠れる音に混じって、ざくざくと足音も聞こえて来た。複数人のものだ。罠であるのは初めから分かっていたから特別驚いたりはしない。外套のポケットの中で携帯電話を開く。あらかじめ涼介の名前を選択してあるため、いつでも呼び出すことができる。
「ヨォ、ホントに一人で来たんだな」
 木の幹の裏から、派手な金髪の男が出てきた。男の腕の中にはぐったりとした浜田舞。慧は右手でお守りをぎゅっと抑えた。
「それで、どうしたら浜田さんを解放してくれるんだ?」
 翠の目を眇めてボーノナイトを睨んだ。ボーノナイトは浜田の首筋にナイフを突きつけながら言った。
「そのままこっちに来な。おっと、両手は上に挙げな」
「分かっているよ」
 慧は言われた通り両手を挙げる。その前にポケットに入れた手で携帯電話の発信ボタンを押そうとした。ほぼそれと同時に、背後からスーツ姿の男が飛び出して慧の腕を掴んだ。
「おっと、そうはいかねェぜ」
「用意周到だな」
 慧は動じず、笑った。すうっと息を吸うと今度はスーツの男――コベライトの腕を掴み、足を払った。
「んなっ!?」
 コベライトは地面にうつ伏せに倒れこんだ。そこへ間髪を容れず、慧が背中を踏みしめ腕を捩じり上げた。
「コベライト様!」
「ぐっ……」
「丸腰と思って油断したな。シグルズがいなくても、おまえたちくらいならぼく一人で十分だ」
 慧は右足でコベライトの頭を蹴った。コベライトは屈辱に顔を歪ませていた。
「さあ、こちらにも人質が出来たぞ。上司の頭を潰されたくなかったらその子を放してもらおうか」
 シグルズが出るまでもない、このくらいの相手なら。慧の目は油断なくボーノナイトを見据えていた。ところがボーノナイトはコベライトとは対照的に余裕な笑みを湛えていた。
「何がおかしい」
 見れば、足下のコベライトもくつくつと笑っていた。
「テメェ、俺を足蹴にしたこと後悔するゼ」
「なんだと? ――ッ!」
 慧の後頭部に鈍い衝撃が走った。揺らぐ視界の端に、もう一人の男の姿があった。