傾いた太陽が辺りを橙に染めた。冬の冷たい風に殴られて乱れた髪も気にせず、浮かない顔の慧は手に持った花束を握り締めた。自分にはこんなことをする資格などない。彼から父を奪った自分には。一体、どんな顔をして彼に会えばいいのだろう。何を言えばいいのだろう。重い足取りで丘へ続く小道をとぼとぼ歩きながら嘆息した。いい機会だからとすべてを明かすつもりか。図々しい。結局は自分本位だ。ああ、なんて愚かなのだろう。そうこう思いながら、とうとう辿り着いていた。
「あ……」
 慧は足を止めた。躊躇いのためではない。ぽつりと佇む墓石の前に、ひとつの人影があったのだ。誰だろう、というのは愚問だ。
(どうしよう)
 二の足を踏んでいたってなにも始まらないのは重々承知の上である。ここでいつまでも立ち去るのを待っていていいはずがない。逃げ帰るのはもっと愚かである。それではここへ来た意味がない。
 慧はやっと決意すると、静かな足取りで墓標へ。開かれたこの場所は、貢の故郷たるこの美しい田舎の景色を一望することが出来る。一つだけぽつりとあって寂しげだといつも思うけれど、あの人らしい場所を選んだものだと思う。ふわりと少し暖かい風が吹いた。
 慧の足音に気付いたのか、ずっと墓石に向かって俯いていた人物が、顔を上げた。大きな黒い瞳が慧の華奢なシルエットを映した。
「りょう……すけ?」
 夕日に輝く焦げ茶の髪を繊細な指先で直しながら、少し驚いた様子で慧を見上げている。慧も、見慣れたその顔、をじっと見返した。ああ、よく似ているが、この人は。あまりに意外な人物であったからしばし呆けて顔を見ていると、少し潤んだ黒目からぽろりと涙が一筋零れ、やがてその小さな口を開いた。
「もしかして、慧くん?」
「静子、さん……?」
 15年前から少しも老いを感じさせない涼介の母親。変わったとしたら、髪を伸ばすなりしてかつての悪戯好きな少年らしさは影をひそめて大人の女性らしく落ち着いた雰囲気を醸し出すようになったことだろうか。息子と同じ大きな目は、寂しさを湛えて慧を見ていた。
「お久しぶり、です」
 慧がぎこちなく頭を下げると静子は手を、彼の頬に添えた。彼女とは、貢の離婚以来会っていない。だから親友の母親とは言っても記憶にはかすかにしか残ってはいない。ほとんど他人と言っていいくらいの交流しかない。けれども静子のほうは懐かしそうに、まるで自分の息子を慈しむような母の眼差しで彼を見て、微笑んだ。
「大きくなったね。ほんとに」
「……涼介も、立派になりましたよ」
 慧がそう言うと、静子の目にまた涙が浮かんだ。こんなに悲しげな人だっただろうか。慧の遠い記憶にある彼女はいつだってきらきら太陽のように輝くひとであった。少ない記憶の中の彼女は。にこにこと笑って息子よりも元気に広い草原を駆け回っているようなひとであった。涙なんかは……彼女が涼介たちと離れるときにしか見たことがなかった。
 静子は涙を隠すように拭うと慧から少し離れた。変わらぬ寂しげな目を自分の良人の墓に向けながら。
「慧くんも、みっちゃんの誕生日を祝いに来てくれたんだね」
「……はい」
「ありがと。みっちゃんも喜んでるね」
 声変わり前の涼介によく似た声。最愛のひとに語り掛けるその声が悲しく慧の耳に響いた。心を貫かれる思いがした。ああ、あのひとは何も涼介だけのひとではない。このひとにとっても、大事なひとだった。それを自分が奪ってしまったのだ。その事実を認識させられた。慧は花を手向けると、手を合わせた。
(許してください、とは言いません。でも、ごめんなさい。ごめんなさい。ぼくは、あなたを……)
 ぎりりと奥歯を噛み締めた。この思いは2年前のあの夏の日にも噛み締めた思い。抜け殻になった彼を支えられなかった悔しさ。そして自分勝手な恐怖。
 慧が顔を上げると、彼女は冷たい風に吹かれたまま変わらず墓碑を眺めていた。そんな彼女に、慧はほとんど無意識のうちに言っていた。
「ごめんなさい」
「え?」
 急に頭を深く下げた慧に驚いた顔の静子。慧は、深く深く頭を下げたまま言葉を続けた。
「貢さんが亡くなったのは、殺されたのは、ぼくの……せいなんです……」
 ずっと言えなかった言葉がびっくりするほどすんなりと出てきた。静子はそれに対して何も言わずに変わらない顔で続きを聞いた。
「あの日……涼介の誕生日の、前……ぼくは大きな失敗をしでかしました。涼介のために、よかれと思って……その結果、敵を、引き寄せてしまったんです……自分の力を、過信して」
 慧は一旦息を呑むと、また続けた。
「誕生日の日、ぼくと貢さんは買出しに出かけていました。それがいけなかったんだ。……貢さんは、ワンダラーに攻撃されそうになったぼくを庇って、致命傷を負って……そうでなかったら、貢さんが負けるはずがありません。ぼくなんかを、庇ったせいで……ぼくのせいで……!」
「慧くん」
「貢さんは、ぼくなんかのために死んでいい人じゃないのに! ぼくなんかの……!」
 ずっと喉に詰まっていた言葉を吐き出して、慧は崩れるように蹲った。ぼろぼろと涙が零れ出す。止め処なく。
「ぼくが死ねばよかったんだ! ぼくが死んでたら涼介は悲しまなかった! 貢さんがいなくなることもなかった! ぼくが、刺し違えてでもあいつを、殺していたら……!」
「慧くん!」
 慧の体を温かい静子がぎゅっと、強く強く抱き締めた。遠い昔と同じ手つきで彼を宥めるように背中を撫で、2年前の涼介と同じ声で
「きみのせいじゃない」
 と言った。その瞬間、慧はまるで何もかも赦された気がした。ふわりと気持ちが軽くなった気がした。体に伸し掛かっていたあらゆる重荷が、体を縛り付けていた鎖が、なくなった。心の底にずっと存在していた不安も恐怖も何もかもから解き放たれた、そう錯覚したのだ。
「きみのせいじゃない。だって、みっちゃんはきみのことも守りたかったんだと思うよ。みっちゃんにとって慧くんはもうひとりの子供みたいなものだから」
 ああ、同じ声。同じ匂い。同じ鼓動。同じ体温。細く優しい同じ手。背丈だって、2年前の彼と同じ。けれども、彼ではない。彼では、ないのだ。慧は懸命にそう思おうとした。そうやって、自分はすぐに楽になりたがる。何一つとして彼に話せていないではないか。なぜ勝手に赦された気でいるのだ。都合のよい男だ、本当に。
 慧が面を上げると、彼に瓜二つの顔が泣いていた。ほら何度だって泣かせてしまう。
「どうして、あなたは」
 慧が零すと、彼女は慧の涙を温かい指で拭ってやった。
「わたしには、慧くんを責める気はないよ。それに、そんな権利ないから……」
 微笑みに影が差した。このひとは、こんなひとだっただろうか。こんな暗い顔をするひとだっただろうか。ああ、自分がこんな顔をさせるようにしてしまったのだ。
 静子は搾り出すように、小さく言った。
「わたしは、あのひとから逃げたんだから……」
「静子さん」
 慧は思い出した。最後に彼女を見た日のことを。なぜ、彼女が父子の前から姿を消したのか。
「わたし、わたしね、みっちゃんがどんなことをしてたのか知ってたし、理解していたよ。それでもみっちゃんの傍にいて、みっちゃんを支えようって思ってた。だからどんなにお父様に反対されてもみっちゃんと結婚したんだ。でも……わたし」
 今度は慧が彼女を抱いていた。彼女を抱いたのか、それとも彼女に重なる彼を抱いたのか、おそらくどちらもだろう。心細げに儚げに肩を揺らす、彼女を、彼を。しばらく腕の中の彼女の嗚咽を聞きながら彼は自分の無力さを改めて噛み締めた。〝この顔〟をいつも傷付けて、悲しませて、泣かせて、それでいて自分はのうのうと生きている。これでいいのか。これでいいはずがない。
 ぼくは涼介のために生きている。涼介のために、涼介を守るために生まれたのに。それなのにぼくはいつだって彼を傷付け、悲しませるような真似しかしていない。それどころかぼくは自分が赦されることばかり、逃げることばかり。結局は自分が一番大事なんだ。
 心のうちで吐き出したつもりだったのに、口をついて出ていたらしい。赤い目のままの静子が小さく首を振った。
「違うよ。慧くんは涼介のためだけに生きているわけじゃないよ。きっと涼介だって、そう言うよ」
「でも、そうでなかったら、お父さんたちがぼくを作るはずないじゃないですか。だって、お父さんとお母さんは」
「ううん。きみは、光江ちゃんがずっとずっと欲しがって、やっと授かった大切な命だよ。結婚はわたしたちに合わせてしたけど、でもねきみを涼介と同じ年に授かったのはほんとに偶然なんだよ」
「そうでしょうか」
「うん。だって、光江ちゃんね、きみがおなかのなかにいるって知ったときわたしのとこに飛び込んできたんだもん。赤ちゃんが来てくれたって。目をきらきらさせて、ほんとに嬉しそうに。惣ちゃんもいつもよりずっとにこにこしてたもの。早く生まれないかなって、いつも言ってたもの」
 慧ははっとした。涼介が生まれたことは誰からも望まれたこととは思っていたが、自分も望まれた命と思ったことがなかったのだ。怒ると怖いが思いやり深い母、いつでも優しい父を持ちながら二人を意識することも最近では稀薄であった。無論慧が両親を大事にしていないわけではなく同級生たちの誰よりも自分の親を思いやってはいる。だがこう改めて考えてみることはなかったのである。いつでも自分は自分の両親が、やがて生まれてくるであろう加瀬夫妻の子を守るために用意した存在であると思っていたのだ。なぜそう思うようになったかは分からない。言いつけられていたことはたしかにある。彼を守ってあげるようにと。けれどもその意味合いは自分がずっと思ってきたことと違ったのかもしれない。単純に兄として面倒を見てやれという意味だったのかも知れない。
「涼介を授かったのは、それからちょっと後だったかな。それを光江ちゃんと二人で話して、兄弟みたいに育ってくれたらいいねって話してたんだ」
 慧は静かに俯いた。たとえ、両親に言いつけられていた意味を取り違えていたとしても、自分は涼介を守っている。守りたいと思う。自分よりもずっと大切な存在だからだ。それは兄弟のように過ごしてきたから? 一番身近な存在だから? それだけではない。もっとずっと昔から彼を大切に思ってきた。それがいつからかは分からない。
「でも、ぼくは涼介を守りたいんです。涼介のためならなんだって。死んでも構わない。……守れなかったから、傷付けてきたから、今度こそ……今度こそは……涼介を……あの子を……」
 今自分がどんな顔をしているのかは分からないが、静子がじっと不思議な顔をして見ているのに気付いて慧は我に返り恥ずかしそうに笑った。
「そういえば、涼介は来ていませんでしたか」
「ううん、来てなかったよ。いつも来てないみたい」
「そう、ですか」
 父の墓参り。こんな大事なことを彼がしないはずがない。ならばいったいどこへ? 慧は知る由もない。
「みっちゃんも、ここにいないみたいだし」
 静子が言った意味を解することも慧には、できない。
「静子さん、せっかくですから涼介に会いに行きませんか。きっとお店で待っていれば帰ってくるでしょうし」
「でも……」
 静子はそっと丘の下に目線を投げた。憂いを帯びた視線を。その先には青い軽自動車が止まっている。
「わたしには、あの子に会うことはできないよ」
「涼介はきっとあなたを恋しがっています。普段はそんな素振りを見せないけれど、絶対に」
 涼介が年上の、親子ほども年齢の離れた女を好むのはいつだって心の底で母のぬくもりを求めているからだ。自分でも気付かぬうちに、いつも恋しがって、抱き締めてもらいたくてたまらないのだ。しかし静子は首を振る。
「だめだよ。わたしは……だめだよ……」
「母さん」
 慧は、静子はその声で顔を上げた。振り向くと、そこにいたのは一人の少年であった。未完成ながらがっしりとした体躯、意志の強そうな眉、厚い瞼、武骨そうだがどこか愛嬌のある顔。貢の面影を漂わせる、少年。慧よりは3つ4つ下に見える。
「待たせてごめんね」
 待ちくたびれて退屈そうな顔をした少年に言って、慧に軽く手を振ると静子は逃げるように去って行った。残された慧は斜陽に照らされた丘の上からその母子が車に乗ってどこかに行くのを見届けると再び墓石の前に跪き、頭を垂れた。

* * * *

 冬は日が落ちるのが早い。夏ならまだ西の太陽が落ち切っていないだろうに、今はもうとっくに沈んで金の月が天を照らしていた。木佐貫惣次郎は旧加瀬家の木造家屋を見上げると、フレームのない眼鏡を直した。息子と同様に寒さに弱い彼は吹き荒ぶ冬の風に、まるで亀のように身を縮めるとさくさくと砂利を踏み締めながらガレージに足を向けた。住民の居なくなった家屋は大抵すぐに寂れて廃墟となってしまうのだがこの家は、取り分けガレージは未だに活き活きとしていてまるでいつも誰かがいるようである。惣次郎はその前で立ち止まると、こんこん、と閉ざされたシャッターを叩いた。返事は無いが彼はがらがらと開けて中へ立ち入った。奥に、誰かがいる。寝転んでいる細いシルエット。
「涼介くん」
 惣次郎がそう声を掛けると眩しげに目を細めながら、涼介が体を起こした。腕の中には陶器の筒が収まっている。
「惣次郎さん」
「貢も、そこにいますね」
 鉄とオイルの臭いに混じってつんと匂う、酒の香り。それから何か甘い匂い。ケーキだろうか。
 惣次郎はいつもよりもずっと優しい笑みを投げると涼介の隣に腰を下ろした。涼介はいまだにぼんやりとした目で手の中の骨壺を抱いている。
「どうして、ここが?」
「きっとここだと思ったんです。2年前のあの日、きみをここで見つけたときのように」

 2年前。涼介がいなくなってから4日過ぎた夕刻。惣次郎はまだ諦めもせずに彼を探していた。もしかしたらとっくにどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。彼の住んでいた家にも学校にもいない。友人や親戚に連絡を取っても来ていないという。それなら彼はいったいどこへ。身寄りがないわけではないが親戚のもとへ行っていないならほかにどこに行く当てがあるのだろうか。慧がもう血眼になって朝も夜も構わず探し回っているのに見つからないのはよほどのことだ。
 惣次郎は無駄と知りながら再び涼介の家を訪れていた。探し漏らしている場所が必ずあるはずだ。縁の下でも、屋根裏でも、どこでも。きっと。
 涼介が姿を消したとき、貢の骨の入った壺も一緒に無くなっていたことが気がかりだった。まさか心中紛いのことでもしでかしたのではないか。あり得ないことではない。涼介になら十二分にあり得ることだからだ。だからこそ惣次郎は焦っているのである。
(どこへ?)
 いつも言われていた。自分にもしものことがあればあの子を頼むと。貢が――仮面ライダーが唯一信頼する無二の親友として、託された大事な子。あの子に何かあったら貢に申し訳ない。巻き込んだのは自分だ。それを請け負ってくれたのは彼だ。彼には大きな恩がある。無論それだけではない。親友の子だからだけでなく、自分自身も彼を息子同様に思っているからこそ惣次郎は駆け回っているのだ。
(いない。やはり、どこにもいない)
 惣次郎はとうとう膝をついた。これだけ虱潰しに捜しているのに、どうしても見付からない。
(貢……申し訳ありません。僕はあなたとの約束を、破ってばかりだ)
 どうかどこかで無事で生きていてほしい。それを願うしかないのだろうか。貢が死んだからと言って、シグムントのベルトは奪われていない。涼介が持っている。つまりまだ彼は狙われ続けるのだ。組織からも、そしてあの存在からも。
 不甲斐ない。ああ、なぜいつもあの親子ばかりが苦しまなければならないというのだろう。誰よりも幸せになるべき家族であるのに、どうして不幸ばかり降り注ぐのだろう。
「   」
 不意に頬を撫でる風があった。それは夏のあの焼けるような熱い風ではなく、春の風のように優しくけれども強い風であった。惣次郎は顔を上げた。あの風がもう一度吹いて、ガレージのシャッターをがたがたと打ち鳴らした。
「貢?」
 そういえばガレージはまだ探していなかった。シャッターが下がっていたのでてっきり鍵が掛かっているものだと思っていたのだ。なんという盲点。惣次郎は駆け寄ってシャッターを開けた。途端に、鉄臭さや油とはまた違う生臭い臭気が鼻を突いた。ずいぶん空気が籠って呼吸も苦しいほど。壁に貼られた幼い涼介と笑顔の貢。放置されたままの工具。バイクの雑誌。新品のバイク。そして、その奥に、倒れている、人影。
「涼介くん!」
 惣次郎は灰に塗れた細い体を抱き起こした。微かに上下する胸。息はある。ただし痩せ細り、元から細かったその腕は、体は木の枝のよう。この暑いのに水も飲んでいなかったのだろう、かさかさに唇が干からびていた。
「涼介くん、涼介くん、しっかり!」
 こうしては居られない。早く病院に連れて行かないと死んでしまう。軽くなった体を抱き上げようとしたら、閉じられていた瞼がのろのろと開かれた。
「涼介くん、分かりますか」
 けれども、その目はあの日と同じように虚ろで何も映そうとはしない。けれども蓋の外れた骨壺を抱く腕だけは力強い。
「おじ……さ……ん……」
 乾き切り灰色の粉がこびり付いた唇を開いて、呼気のような声を漏らした。
「涼介くん」
 彼の声を聞き逃さぬようにと彼の顔を引き寄せる。涼介は震える腕で骨壺を掲げると、あの日以来見せなかった涙を急にぼろぼろと流してこう言うのだ。
「とうさん、こんなに……ちっちゃく、なっちゃったよ……」
 その言葉に、惣次郎は何も返せなかった。代わりにただ強く、その細い体が軋むほど抱き締めてやることしかできなかった。
「とうさんね、いっしょに……バイクにのろって……いっしょに……いこって……でも、とうさん、こんなちっちゃいから……バイク……のれない……よね……こんな……」
 ああ、かける言葉なんてあるだろうか。慰める言葉などあるだろうか。どんな言葉も無意味だ。だからその代わり惣次郎はその体を抱いた。
「とうさん、やだ。やだよ、どうして。どうして。とうさん。いっしょに、いてよ。どうして、いなくなっちゃったの。どうして、オレのそばにいてくれないの。どうして。やだ。まだいっしょにいたいよ。まだバイクものってないよ。まだ、とうさんをみてたいよ。まだ、とうさんの、とうさんの、とうさんの」
 涼介は貢が死んでから初めて泣いた。大声で叫んだ。惣次郎の胸に顔を埋めて。喚いた。
「とうさん、あいたいよ。とうさん。あいたい。あいたい。あいたい。あいたいよ……!」
 写真の彼らはこうなることを知らないで幸せそうに笑っている。そのままの用具も、バイクも何もかもが彼らに起こった不幸を嘘のように見せているが、もうここの主は帰ってくることはないのだ。
 しばらく惣次郎の胸の中で泣いていた涼介は次第に静かになった。嗚咽に震える背中を撫でてやりながら彼は声をかけた。
「帰りましょう。みんな待っていますよ」
 けれども涼介は首を振るのみ。
「ここに、いたい」
「ですが」
「おねがい。だれにも、いわないで」
 掠れた声でそう懇願する涼介。医者の立場からしてこのまま放置するのはあまりにも危険である。だから病院に連れて行こうとしても涼介は首を振るのだ。
「おねがい。ここに、いたいから……。だいじょぶ、だから……」
「じゃあ、水と食べ物を持ってきますね」
 頑なに動こうとしない彼を無理に連れていくのは、体のためにはなっても精神的には良くないだろうと判断して惣次郎は一先ず彼を置いて、自宅に帰った。慧は相変わらず涼介を探していて家にはおらず、光江だけが残っていた。光江に涼介を見つけたことを報告すると、もちろん「なんで連れて帰ってこないんだ」と怒られはしたがとりあえず簡単に食べやすいものを作ってもらって、刺激するといけないからということでまた自分ひとりで彼の元に戻った。涼介は消えずにまだそこに横たわっていたので、水を飲ませてやった。そのおかげかいくらか血色が戻り、少しだが食べ物も食べた。
「本当に、ここにいるんですか」
 再度そう問うと、彼は頷いた。
「うん。慧には言わないでね」
 そう約束して惣次郎はその日は帰ってしまった。次の日に涼介の様子を見ようと再びガレージを訪れると、彼の姿はなかった。それだけではなく、あの誕生日プレゼントの赤いバイクもなかった。不思議とその時は、涼介が最初にいなくなった時ほど心配はしなかったし、そういった気持ちもまったく起こらなかった。

「あの時、けっこうびっくりしたんだ。まさか惣次郎さんが来てくれるなんて、思わなかったから」
 2年前と少しも変わらぬガレージ。ただ少し埃を被ったことと新品だったXRが少しばかり傷ついたことくらい。
「貢が教えてくれたんですよ。ここにいると」
「そうだったんですか」
 涼介の頬が綻んだ。惣次郎も笑った。2年前と違うのは、涼介の顔に笑顔が戻りつつあることもだ。
「あの時、オレ、慧に言わないでって、言ったじゃないですか」
「はい」
「なんでそう言ったか正直覚えてないんだけど、たぶん慧に情けないとこ見せたくなかったんだと思う。あと、慧がなんだかオレに会いたくなさそうだったから」
「涼介くん……」
 涼介は言った後にごまかすようにまた笑った。たしかに、慧は彼を探していた。けれども反面自分の犯してしまった罪の意識に苛まれどこかで彼に会うことを恐れていたのだ。それは父親の惣次郎も感じていたことである。
「あのあと、きみはどこに行ったんです?」
「間庭のおっさんのとこで手伝いしてたんだ。1か月くらい。そしたらユミ姉がオレを探しに来てくれたみたいで、ユミ姉のとこに行ったんだ」
「そうだったんですか」
 涼介は、貢の好物だった酒の瓶を惣次郎に見せた。
「飲む? 父さんと、一緒に」
「ええ、いただきます」
 惣次郎は誰よりも穏やかに見える笑みで涼介からグラスを受け取って酒を呷った。
「それにしても、未成年飲酒は感心しませんね」
「ちがうよ。オレは飲んでないよ。父さんのために持ってきただけだからさ」
「そうですか。ならいいんですが」
「オレ、そういうのはちゃんと守るもん。父さんとの約束だし」
 惣次郎は涼介の肩を抱いた。涼介も素直に身を寄せた。貢とは正反対の、慧の父親。貢は背が高くて逞しいけれど、惣次郎は背が低く細身。けれども二人は本当に仲の良い親友であった。まるで、そう、自分と慧のように。そして自分も彼をもう一人の父と慕っている。
「今日は父さんをここに帰しに来たんだ」
 グラスを空にした惣次郎に涼介が言った。少し寂しそうだが、大人らしい顔になった彼が。
「そうですか」
 惣次郎はもう1杯頂きながらうなずいた。
「いつまでも家にいてほしいんだけど、それだといつまでも父さん、心配するでしょ。だからオレひとりでもだいじょぶだよって、言わないと。それに、父さんはここが1番合うし」
 涼介はそういうと、親子の幸せそうな笑顔が写された写真のそばに骨壺を置いて、撫でた。吹っ切れたようにはもちろん見えないが、それでも。
「惣次郎さん、たまには父さんに会いに来てね。オレも来るからさ。ね」
「ええ、もちろん。毎日でも」
 2人は笑顔を交わすとまた会話を始めた。それは、過去を懐かしむものであったが、ただ恋しむだけではなく、涼介の声は明るいものであった。
第14話 完