Pt1はこちらです。

 

4月

 

日本では4月と言えば、新年度、新卒、新生活。

「新」が付く表現の数々。

 

僕がニューヨークを去って、

日本に人生のやり直しを求めたのも

2002年の4月だった。

 

大学院以来、3年ぶりの日本だ。

 

最初に留学で日本に来たときは、

はじめて行く場所が故郷のように感じた

「ただいま」というか、いるべき場所に

辿り着いた感覚だった。

 

しかし、今回は新卒が、知らない街に新生活を

始めるときに感じる不安という気持ちが強かった。

 

仕事を辞め、国と家族を離れ、

勤め先が決まっていない中での再来日。

 

フリーになることを選んだ自分だが、

ゼロからスタートをすることは、

想像以上の重みを感じさせられる。

 

しかし、人生のレールを自ら脱線し、

ノープランで海を渡る決断は、後悔していなかった。

 

ニューヨークでの3年のスパルタ生活、

その間に得た業界のノーハウとコネを強みに、

フリーの翻訳家という道を選んでいた。

 

フリーとしての自立

 

選んだというか、これから築く。

そういう状況だった。

 

前の会社からの依頼に頼りながら、

少しずつ、日本での客づくりに必死だった。

 

頼りになったのは、前職で得た様々な経験だった。

 

一からお客さんを開拓する経験はなかったが、

とったお客さんは何を求めているが、

どんな仕事を納品すれば喜んでもらえるか。

 

会社員時代のそういったノーハウは、非常に役に立った。

 

翻訳という職業は、言葉がわかっているだけでは、

仕事にならないからだ。

 

案件を受注から納品やアフターサービスを管理するプロジェクトマネジメント。

クライエントとのやり取りの中でどのような情報を提供すればよいか、

逆に、どのような質問をすればよいのか。

 

ある意味、専門知識以上に、ビジネスセンスが必要ともいえる。

 

また、お客様の組織が大きくなればなるほど、ニーズや条件が増える。

その接客や対応の知識やセンスなしでは、

せっかくチャンスをくれたクライエントか二度と戻ってきてくれることはない。

 

そういう意味で、ニューヨークでの3年間は厳しかったが、

そのスパルタがあっての今の自分だと、今でも思う。

 

 

日本に戻ってきたのは、2002の4月だったが、

しばらくはほぼ貯金暮らしだった。

 

お客さんがついてくれない数か月。

この時期のストレスは身体に毒だ。

 

自分の選択は間違いだったのか。

夢をあきらめなければならないのか。

 

選んだ道を捨てて、とりあえずお金になる仕事を選ぶか悩んだ。

どこかの会社に就職するか、英会話教師になるか。

自立と持続にはたまにプライドを捨てないといけないのか。

 

そう悩んでいるうちに、半年が経とうとしていた。

 

もう限界だと感じ始めたころに、

ポツンポツンと国内の案件が入るようになった。

 

そして、2003年の春ごろには、複数の会社の安定した関係ができ、

フリーの翻訳者としての自立できると確信した。

 

むしろ、当時はグローバル化が加速していて、

知らないうちに仕事が選べるようにまでなった。

 

 

フリーとしての道を選ぶことは、

組織に縛られない、自らの意思で事業を営む自由は得られるが、

同時に組織力に頼らずに、

営業・生産・管理・経理の全ての責任を背負う意味でもある。

 

注文が入る時の処理

納品が遅れたら時の対応

ミスをしてしまってお客様と向き合わないといけない時。

 

組織力無しでは、うまくいった時こそ、

こういった処理に起こりうるトラブルに、

つぶれてしまうしまうことがある。

 

トラブルを回避する方法は様々だ。

ミスをしないこと。

納期余裕を持つこと。

失敗も自信を持って謝ること。

 

僕が思う一番の回避策は、選択と集中だ。

 

2003年から軌道になり始めた、

フリーの翻訳家としての道。

僕はこの選択と集中の概念は、

理解していなかった実施できていなかった。

 

ひたすら安定と安心を求めて、

ありとあらゆる仕事を受けていた。

 

しかし、数年続いたこの状態に起爆剤となったのは、

2008年の4月に入ってきた一本の電話だった。

 

 

(続く)