松の丸京極龍の晩年と誓願寺 | 茶々姫をたどる汐路にて

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○龍の供養と誓願寺

「大閤北御方佐々木京極女御」こと龍が再興に尽力し、帰依した誓願寺の過去帳。

一日の頁、「寿芳院殿月晃盛久禅定尼 寛永十一年甲戌九月」
大坂落城から時がたち、表の世界からは身をひそめた彼女が亡くなった日付が記されています。

墓所はかつて誓願寺内の塔頭竹林院にありました。
そこには東向きに並んだ三基の碑石があったそうで、南から茶々、龍、国松と並んでいたようです。
三基のうち、茶々のものは残らず、龍・国松の墓は明治三十一年の秀吉三百回忌の際、かつて豊国神社の広大な社域であった現豊国坦に改葬されて現在に伝わります。

龍の墓には表面に「寿芳院殿月晃盛久/佐々木京極女二世安楽」、左側に「元和元年□月十五日」と刻まれていたそうです。
この日付は龍の没年月日とはあわず、また龍(「佐々木京極女」)が「二世安楽」(現世と来世の安楽)を願った作ったとされていることから、逆修(生前に自ら作ったもの)であったと思われます。

○龍による国松・茶々の供養

誓願寺の過去帳の二十三日の項には「漏世院殿雲山智西大童子/秀頼公ノ息 元和元乙年五月 寿七歳(八歳の誤りか)」とあります。これは大坂落城後に捕らえられ斬られた秀頼の庶長子国松です。
六条河原で無残にも、しかし堂々と亡くなった幼い若公の幼い遺体に手を差し伸べたのが龍でした。龍は誓願寺で懇ろに国松を供養し、国松が自分の死後も弔われるように、国松の墓の隣に自身の墓を造営したその日がおそらく元和元年某(七~十二)月十五日だったのでしょう。

竹林院にあったという茶々の墓については詳細が不明です。供養塔であったのか、茶々の勧めなどで龍のもとへ逃れた侍女たちが形見や遺髪を届けたものを納めた塚であったのか、想像はつきません。おそらく同時期に龍によって造営されたものでしょう。ここからも茶々と龍、二人の関係も偲ばれるようです。
さすがに茶々の墓碑が江戸時代を無事やり過ごし現代に残らなかったのは無念としか言いようがありません。

○龍の晩年の呼称

さて、龍といえば、吉田社へ参詣した寛永六年の記録が(『舜旧記』)私見ではもっとも晩年の記録のようですが、こちらでも「松丸殿」と記されています。
亡くなる五年前のことで、龍が伏見城松の丸に住していた時代からかなり下っていますが、生涯龍が「松の丸」の号で呼ばれ続けていたことが分かります。

○龍の晩年の活躍

ただ、龍が晩年まで表の世界でも健在だったかというと、私はそう思いません。
『大猷院殿御実紀』では寛永三年正月六日の項に『東武実録』をひいて、「松の丸(京極宰相高次内室。大御台所御姉)方より歳首を賀して。小袖二襲ささげらる。」という記録が見えます。
また、寛永五年二月三日の項には、同じく『東武実録』をひいて、「京極宰相の後室松丸の方より。歳首の賀として時服を献ぜられれば。御内書をつかはさる。」とも見えます。

二つの記録に誤りがあることは言うまでもありません。
「松の丸」ならば京極高次の妹で豊臣秀吉の後室です。「京極宰相高次内室。大御台所御姉」ならば常高院のことです。両者ともに、この二人が混同した記事というわけです。

であれば、この歳首を賀した人物は誰か。私は、これは常高院の事蹟だと考えます。わざわざ「京極宰相高次内室。大御台所御姉」、「京極宰相後室」とその身分を明かしてくれているからには、間違いないでしょう。
江の生前から大奥に出入りし、甥の家光に何くれとなく世話を焼いたりしたであろう常高院が、マメに歳首を賀すことはとても自然なことです。むしろ、これを龍の行跡としてしまい、初が家光に行った歳首の賀がなかったとされるほうが不自然です。

重大なことに、寛永五年の件は大日本史料稿文でもひかれていて、データベースで検索すれば、この年に「家光、豊臣秀吉側室松の丸殿の年始の祝儀物を進めしを謝す」と出てきます。

これでは、まさに徳川は豊臣の茶々と秀頼だけを滅ぼし、あとはよろしくやっていたと思われても仕方ありません。
寧は御台所江の養母として厚遇されていましたが、基本的に豊臣系の寺社(豊国神社、祥雲禅寺、瑞龍寺など)や人々は不遇な扱いを受けたことが少なくなかったわけです。
そのときも、龍はひっそりと西洞院の屋敷と誓願寺を通いながら、亡き人たちの菩提を弔いながら生きていたことでしょう。

○落飾

「北政所」と号されてい寧は、落飾を境に「高台院様」と呼ばれるようになります(「北政所様」「政所様」も根強いですが)
龍は生涯「松の丸」と呼ばれ続け、墓碑が完成した時期には「寿芳院月晃盛久」という戒名を頂いていたようにもおもうのですが、「寿芳院」と呼ばれることはありませんでした。誓願寺に伝わる龍の肖像画は出家の姿ですが、これが寿像であったのか、いつの時代の龍を描いたものなのかがはっきりしません。

私は、寧や茶々、龍は同時期に飾をおとしたのではないかと考えています。
寧は院号を勅許されたこともあり、「高台院」の名で呼ばれる機会が多く、出家の有無は明らかです。
茶々や龍は晩年まで落飾したことが分かる号で呼ばれることはありませんでした。
一方龍は誓願寺に出家姿の肖像があります。茶々にはこれはありません。肖像とされるものはいくつかありますが、どれも伝承の域を出るものではなく、当時の茶々の衣裳に対する配慮とは全く違った肖像ばかりです。
晩年まで「松の丸」と呼ばれても、出てくる記事は秀吉の供養など。家内の後家の仕事です。

若くして夫を失い、方や「御上様」「御袋様」と呼ばれていることから、落飾が許されなかったとか、家康への再婚がすすめられようとしていたとか、大野治長と駆け落ちしようとしていたとか、とんでもないうわさに振り回されてしまい、方や同じく「松の丸殿」と呼ばれ続ているのに身辺がされることもなく出家したのだろうと受け入れられ…

そんな龍のことをぼんやり考えていた一日でした。

○蛇足:誓願寺の寄進記録

誓願寺ついでに、三姉妹が誓願寺に寄進をしたという件ですが「岐阜宰相御簾中」が江という点は大丈夫だと思われます。しかし、「御茶様」が茶々、「大津様御局」が初とされるのは正しくありません。
この時期の茶々は「若公御袋様」「淀の上様」「大坂二の丸様」などと呼ばれるべきで、名指しで記されたものは夫である秀吉からの音信以外にありません。「茶々」を「御茶」と略称している例もほかにありません。
この「御茶様」は茶々ではない別の女性です。ちなみに、豊臣家には「茶阿」という女房名の女性がいます。不躾な名指しは、女房名を疑うと良いかもしれません。
そして、「大津様御局」についてですが、この寄進が行われた天正十九年の時点で京極高次は大津城主ではありません。ですので、「大津様御局」が初であるはずがないのです。
この三名を三姉妹と比定し、寄進の順番に気を配っていらっしゃった本を拝読したことがありますが、そもそもが江以外別人ですので、成り立たないわけです。