完子と子どもたち | 茶々姫をたどる汐路にて

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完子の子どもたち(主に娘を追いかけていた時のツイート。
フォロワーさんにかなりいろいろと教えてていただきました。改めてありがとうございました。
出典が判然としなかった情報、新しい知見など勉強になりました。

大坂の陣の後、完子に及んだ影響もすこし伺うことができました。

完子の娘長女、次女の名前が「通君」「序君」というのは何が出典なんだろう…。三男道基(道昭)の幼名は千代鶴というらしい。長男康道は松鶴。跡継ぎの次男道房と四男増孝の幼名がわからない。道房はどこかに残ってそうなんだけど…。

posted at 00:59:11

福田先生曰く、多産の場合は生母を疑えとのことだったけれど、完子の四男三女はみんな完子の子っぽい…。末娘三女は瑞龍院日秀の請いでその弟子となって瑞龍寺を継いでいる経歴から完子の実子なんだろう。長男も間違いなく完子の子(写経が出てきたし)。

posted at 01:02:37

生年のわかっている長男康道と四男増孝でも十五歳離れている。三女も含めるとそれ以上ということに。でも、私と弟も十五歳離れているから問題ない。むしろ立て続けに産んでいるより信憑性があるかな。

posted at 01:05:15

長女の通子、道子は弟道房の妻長子(鶴)の混同のように思えなくも無い…「威公家伝」では鶴は「通子」になっていたからなあ…こだわりだすときりがありません。

posted at 01:49:01

長女が1613年生まれだとすると忠象より年下なんですね…

posted at 22:54:49

図書館で完子の娘たちについて史料を見てきました。両本願寺さんの系図に長女「通」、次女「序」の名前が確かにありました。西本願寺の跡継ぎが長女の所生ではないことが気になっていたのですが、娘三人を産んだ後二十歳で早世したようです。なるほど、納得。

posted at 17:45:09

嫁がせた時期から見ると、次女だと思っていた序のほうが長女…?系図によると、序が元和九(1623)年輿入れ、通は寛永二(1625)年輿入れとのこと。あ、「九条家譜」も序が長女になってる。

posted at 18:19:33

三女については、「瑞龍寺歴譜」が出典っぽいかな…。見てみたいけれど、日本古典籍総合目録のデータベースに引っかからず。序が長女とすると、三男松殿道基(道昭)と四男栄厳の間が七年ほどあいています。道基は慶長二十年生まれ。大坂の陣とかが関係しているのかしら…。茶々姫の娘だし…。

posted at 18:26:35

フォロワーさんに教えていただいたおかげで、完子の娘についていろいろとすっきりしました。この場を借りて御礼申し上げます!

posted at 18:27:36

冬の陣のとき、完子は千代鶴(道昭)がおなかにいたんですね。鐘銘事件が起こったときにはちょうどおめでたがわかってつわりに苦しんでいた頃でしょうか。いろいろと不安だったんだろうなあ。

posted at 18:32:26

従来の説、文禄元年完子誕生説に従っても、末子の三女日怡が生まれたときに完子は三十四歳。多少遡るかも、と言われていますが、あまり遡らないかもしれません。日怡の経歴から考えて、完子の娘だと思うし、三年年長の四男栄厳ははっきり母が完子だとかかれてあります。疑えばきりないけど。

posted at 18:36:58

この四男の誕生時期を考えると、完子が秀忠の養女待遇を受けるようになった時期がわかる…?明智玉さんとまではいかないけれど、やっぱり徳川家に憚るところがあったのかな…。そんなするっと豊臣の縁者が徳川の縁者になれたわけではないのかもしれませんね。

posted at 18:46:20

完子の娘たちについて、『真宗史料集成』の七巻にどちらも掲載してありました。九条家譜は、史料編纂所のデータベースの大日本史料稿本から調べました。

posted at 01:28:15

康道はさすがにあれだけ写経をおさめているところを見ると、完子の息子に違いないと考えています。通説の文禄元年でも数え十六歳ですから、私もそんなに早すぎるとは思わないんですよねえ…。

posted at 01:30:42

次女らしい通が数え十三歳で輿入れして十七歳で第一子を産んでますから、通説では数え十二歳で輿入れして十六歳で長男松鶴を産んだ完子とひとつしか変わらないんですよね。

posted at 01:36:11

「本願寺家系」に「光円(中略)室九条大閤幸家公女 通君 寛永二乙丑年御入輿 同九年十二月廿三日卒廿歳 号貞梁院(後略)」、「女子 勘姫寛永六己巳年二月十五日誕生 慶安元年播州亀山本徳寺/母九条太閤幸家公女」、

posted at 01:58:37

「同 寛永八年七月廿日生同九年十月丗日卒 母同上」、「同 同九年十月廿一日生同年十二月十一日卒 母同上」とあります。

posted at 01:58:51

三人の姫については「大谷嫡流実記」琢如上人の項に「御母関白幸家公御女成等院御方」とあり、朱書で「字序君」、「御母成等院尼 元和九年亥年八月卅日御入輿アリ」とあります。他の子どもたちの母についてはありませんでした。

posted at 02:02:06

そうですよねえ。例の母「高倉永家女」については、出典史料がわかりません。これが書かれてある事典にも結構誤りがあるらしいので、史料的にもやはり完子が母なのだろうと思います。異母という情報があってもこういうことがあるんですね。

posted at 02:07:08

なるほど、系図纂要という手がありましたね。確認してくればよかった…

posted at 02:07:42

「大谷嫡流実記」には見当たりませんでした。一応流し読みしたのですが、他の箇所にあったらごめんなさい。

posted at 02:09:21

子女はあります。母が載っている人と載っていない人がいました。「大谷~」のほうが裏方さんの情報が少なかった印象です。『公家事典』の情報、参考になります。ありがとうございます。

posted at 02:21:40

「通」は「みち」、「序」は「つぐ」って読んで良いのだろうか…

補記:「通」は「つう」だそうです。本願寺の図録より)

posted at 09:51:26


まだまだ調査続行中です。
『系図纂要』に長女序の産んだ末子宣政が、浅井左兵衛を名のったこともかかれており、大変興味深いです。