1ニーファイ11:17 望みをもって耕す | 「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ11:17
それでわたしは、「わたしは、神がその子供たちを愛しておられることは知っていますが、すべてのことの意味を知っているわけではありません」と言った。


「望みをもって耕す」2001年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
しかし、わたしたちを取り巻く環境は一筋縄ではいきません。さじを投げてしまった親、ますます増える崩壊した夫婦関係、そして正常に機能しない家族が存在します。麻薬や暴力、ポルノグラフィーが、着実に壊滅的な結果を生んでいます。確かに、「絶望は罪悪のために生じ」ます(モロナイ10:22)。悪魔は「すべての人が自分のように惨めになることを求めて」いますから、悪魔の計画は惨めさの計画です(2ニーファイ2:2718節も参照)

それでもわたしたちの中の雄々しい人々は前進します。たとえ「すべてのことの意味を知っているわけでは」なくても、主が彼らを愛しておられることを知っているからです(1ニーファイ11:17)。雄々しい人々が厳しく容赦のない試練に見事に立ち向かうのを見るとき、わたしたちはその現れ出た強さと徳に拍手を送り、ほめたたえるのです。しかし残されたわたしたちは、自己を磨いてそのように秀でた人格を養うのに必要な授業料を支払うことに震えおののき、同じような状況に遭遇したときにつまずくことがないように願うだけなのです。

ある社会は改善が手遅れかもしれませんが、自らを進んで改善しようとする個人や家族を助けることはできます。家庭やそれぞれが置かれた場で開拓者らしい弟子になることや、平和の取り去られた世の中の身近なところで平和を作り出す人になることにも、遅すぎることはありません(教義と聖約1:35参照)。模範となる人が十分にいないのであれば、自らが模範となることができます。

ヨシュアは「ただし、わたしとわたしの家とは……」と言いましたが、それでも、今家族のきずなを失っている人は「ただし、わたしは……」と言うことができます。そして、主が用意してくださっているすべてのことにふさわしくなれるように生活するのです(ヨシュア24:15参照)。こうして、弟子たちは「しっかりと立ち」(教義と聖約9:14)、「最後まで患実であり続け」(教義と聖約6:13)、苦難に満ちた世の中でも「道に踏みとどまり」ます(教義と聖約122:9)

しかし、堪え忍ぶことや従順であることは、決して消極的な行動ではありません。かえって、過去の戦いで受けた傷を謙虚にしかも誇り高く背負いながら、さらに困難な任務に向けて十分に準備を整えているようなものなのです。

 

 

 

1847年7月,ウィリアム・カーター長老がソルトレーク・バレーで最初の半エーカーの土地を耕すのに使用した鋤

(教会歴史博物館にて)