五月一日は夫の命日だった。大学時代の山岳旅の会のお仲間からお花を頂いた。夫のことを偲んでくださるのがとても嬉しい。私ときたら、いつもこの時期、夫を苦しめた守銭奴への怒りが制御不能になる。。毎年、自制していたが、今年はお礼状に、赤裸々な事実を、とんでもない乱筆乱文で書いてしまった。引いてしまうような内容だ。ご迷惑をおかけしています。

激痛は変わらず。医師には「異常無し」と言われた。奇病。このまま一生治らないのだろうか。椅子にも座れないので、作業も調査もできない。不安や怒りなど精神的苦痛で脳が誤作動を起こすことがあるそうだ。重篤の耳鳴り・脳鳴りも脳に原因がある。立ったまま作業をするので、集中できず、断念しては自分を鼓舞して再開するが、すぐまた挫折する。投げやりになる。生きる意味がない。辛く耐えがたい。

「鈍感力」という言葉があったが、「無頓着」になりたい。

無理して記事を一つアップ致します。前回の書き残しです。

 

「石楠花」

 
 
 
「木陰のオオデマリ」
 
「花水木」
 
「露草の一種?」
 
「箱根卯木」
 
 
「昼咲き月見草」
 
「躑躅の咲く曲がり角」
 
 
お題
「入り日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる」(源氏物語・薄雲)

 

「霞の衣」という語は用いていないが、前回載せた『紫式部集』の諒闇の記事を踏まえたと思われる記述が『源氏物語』の中にある。しかも、源氏にとって最も大事な、永遠の理想的女性である「藤壺」崩御の場面である。『紫式部集』に記されたこの日の記憶が、いかに鮮明なものであったかが推察される。そしてそれは、夫の宣孝死去という個人的体験が背景にあってこそ鮮やかに刻印されたものではなかったか。今回は、「藤壺」崩御の場面を取り上げる。

 

◎都合上、該当の『紫式部集』を再掲しておく。

 

『紫式部集』より

「   去年(こぞ)の夏より薄鈍(うすにび)着たる人に、女院かくれたまへるまたの春、いたう霞    

    みたる夕暮れに、人のさしおかせたる    

40 雲の上の もの思ふ春は 墨染(すみぞめ)に 霞む空さへ あはれなるかな

    返しに

41 なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に」

・・・  去年の夏から薄鈍色の喪服を着ている人に、女院が崩御された翌春、たいそう霞のたちこめて

     いる夕暮に、人が置かせた歌      

40 帝が悲しみに沈まれているこの春は、墨染の色に霞む空まで悲しく感じられることです。旦那様を亡くされて悲しんでおられる貴女はどのようなお気持ちでしょうか。

    返事に

41 どうして私ごときつまらぬ者が、夫の死などという個人的なことで袖を濡らしているのでしょう。諒闇

   の悲しみで霞色の喪服を国中の方が着ておられる時ですのに。・・・

 

女院とは一条天皇の母の東三条院詮子。長保三年(1001)閏十二月二十二日に崩御。その翌春の贈答歌であるが、一条天皇は母の喪に服され、天下諒闇の時であった。紫式部は長保三年の夏・四月二十五日に夫の宣孝と死別している。よって「去年(こぞ)の夏より薄鈍(うすにび)着たる人」は紫式部自身を指す。『紫式部集』では自身のことを「世を常なしなど思ふ人」(54詞書)などと第三者的に記すことがある。(詳細は前回の記事)

 

 

 

◎『源氏物語』「薄雲」の巻より


「をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人などなべて一つ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴のをりなど思し出づ。

☆『 今年ばかりは』

と、独りごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂にこもりゐたまひて日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。   

☆『入り日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる』

人聞かぬ所なれば、かひなし。

・・・ ご葬送申しあげる時にも、世をあげて泣き悲しいと思わない人はいない。殿上人など、みな一様に黒一色の喪服で、何の華やぎもない春の暮れである。二条院の庭前の桜を御覧になるにつけても、花の宴の折などを思い出しなさる。

「今年ばかりは」

と独り口ずさみなさって、人が見咎めるに違いないので、御念誦堂に籠もりなさって、一日中泣き暮らしなさる。夕日がはなやかに射して、山際の桜の木々の梢がくっきりと見えるところに、雲が薄くたなびいているのが、鈍色なのを、何ごともお目に止まらないころだが、たいそう悲しく思いなさらずにはいられない。  

「入り日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる」

誰も聞いていない所なので、折角の歌も甲斐のないことである。

 

 

                         士農力氏

 

 

◇源氏32歳、藤壺37歳。藤壺が崩御した。

 

源氏は自邸・二条院の桜を眺め、12年前の「花宴」を思い出す。南殿で催された桜の花の宴で、源氏は藤壺の御前で「春鶯囀」を舞った。東宮から下賜された挿頭の花をつけ、「春の鶯囀る」舞の「袖かへすところ」を「一をれ気色ばかり」舞った姿は、「似るべきものなく」見え、感涙を誘った。源氏の詩作も見事で、専門の博士たちも感服するしかなかった。藤壺は

☆「おほかたに 花の姿を 見ましかば 露も心のおかれましやは」

・・・世間の人と同じように源氏の君の花のようなお姿を見るのであったなら、何の気兼ねもなかったでしょうに。・・・

と心に思った。源氏に対し秘めたる思いがあるため、その舞の見事さに没入できないと詠んだのである。この藤壺の気持ちを源氏も感じ取っていたはずだ。危うさの中にも幸せを噛みしめた時であった。

 

 

                              源氏物語六百仙

 

 

今、その方はいない。お亡くなりになられたのだ。

 

◇源氏は、『古今集』の歌をひとりごつ。

☆「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」

・・・深草の地の野辺の桜よ、お前に情(じょう)というものがあるのなら、せめて今年だけは薄墨色に咲いてくれ。・・・

寛平三年(891)一月十三日に死去した藤原基経を哀悼して、上野岑雄(かむつけのみねお)が詠んだ歌。深草は埋葬の地。大切な人の命が消え、悲しみの闇の中にある時、今、命を謳歌しているような華やかな満開の桜は美しすぎて眩しすぎて、悲しみを増幅させたりするものだ。だから、深草の野辺の桜よ、もし、御前に悲しみの心が分かるなら、今年だけでよいから、死を悼む喪服の色に咲いてくれないかと願った哀傷歌。

 

 

                             加藤修氏

 

 

◇そして、源氏は誰にも見られないように、自邸の御念誦堂にひとり籠る。そこで、32歳の源氏は、まるで子どものように一日中、泣き暮らすのだ。

 

全くの私見だが、この悲しみかたは、『伊勢物語』で恋人の高子を失った時の業平を思わせる。業平は、梅の花盛りに西の対に行き、高子のいた去年のことを思い出して、「立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず」、そして「うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて」、

☆「月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」

・・・月は昔の月だろうか、春は昔の春だろうか、いや、あの方がおられた時とは月も春も全く違うものと思える。我が身ひとつだけはもとの身のままなのに・・・

という絶唱を詠んだ。

業平も源氏も春の花の盛りに、もうここにいない恋しい人を思い出し、誰にも見られず一人、ただひたすらにいつまでも泣き続けた。源氏の方が死別であるだけに悲しみは深いかもしれない。

 

 

伊勢物語図 西の対 伝俵屋宗達筆

 

 

◇夕方まで泣き暮らした源氏の目に映ったのは、「日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色(にびいろ)なる」という景だった。心が悲しみに占められた源氏には何も目に入らなかったが、夕日の中の「鈍色」の薄雲はしみじみとした感情を喚起し、源氏は目を止めたのだった。

これは『紫式部集』の「またの春、いたう霞みたる夕暮れ」「墨染(すみぞめ)に霞む空」と共通し、『紫式部集』と同じく喪服を意味する「霞の衣」の語を用いた『源氏物語』「柏木」の巻の「夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢ども・・・」と同様だ。

桜咲く春の夕暮れ、来迎の光のように夕日が射し、薄くたなびいていた雲や霞が薄墨色に見え、喪服を連想させるのだ。

 

源氏の詠んだ歌

☆「入り日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる」

・・・入日が射す峰にたなびいている薄雲は、悲しい思いに沈む私の喪服の袖と色が似ているのではないだろうか。・・・

薄雲が死別の悲しみに沈む喪服の袖の色と似ている。もしや薄雲も悲しんで喪の色を帯びているのではと想像させる歌。

小学館・全集では「夕日の射している峰にたなびいている薄雲は、悲嘆にくれている私の喪服の袖に色を似せているのだろうか」と訳し、「雲にも心あるかのように擬人化したもの」とするが、正確には、「まがへる」の「まがふ」は四段活用なので自動詞であり、「似ている」と訳すのが正しく、「似せている」と訳して、「似せている」主語である「薄雲」を擬人化したとするのは、疑問。しかし、「薄雲」に死別の悲しみに共感するこころがあって、喪服の鈍色をしているという発想はあろう。

 

 

 

 

桜咲く春、この華やぎの中でも人は死ぬ。

古人は、桜に、悲しみに慟哭する人をあわれみ薄墨色に咲くことを望んだが、

紫式部には、夕日を浴びた霞が死別の悲痛に共感したかのように喪の色に染まって見え、この景は「

霞の衣」の語とともに、忘れ得ぬものとなった、なぜなら、その光景と言葉は夫と死別した悲しみの心で捉えたものからである。そして、それは『源氏物語』の中で再生されたのだった。

 

 

なお、季節は秋だが、霧を喪服に見立てた歌が『敦忠集』にある。醍醐天皇崩御の哀悼の歌である。

☆「君なくて 立つ朝霧は 藤衣 池さへきるぞ 悲しかりける」

・・・帝がお隠れになった今、立つ朝霧は、藤衣を池までが着ているように見えて、悲しいことです。・・

「きる」は「着る」「霧る」の掛詞。「裁つ」「着る」は「藤衣」の縁語。

池に立ち込める霧を、藤衣(喪服)に見立てている。

 

また、雲を喪服に見立てるのではなく、喪服を雲に見立てる発想の歌がある。

『古今集』 壬生忠岑

☆「墨染の きみがたもとは 雲なれや たえず涙の 雨とのみふる」

・・・薄墨色のあなたの袖は雲であるからでしょうか、私までも絶えず涙を雨のように降ることです。・・・

 

 

余談

母の葬儀の時、桜が満開だった。突風が吹いて、お寺の庭の桜の花びらが会場に舞った。

「野辺の桜よ 墨染に咲け」と思った。

 

 

おまけ

 

医大プロジェクトチームの研究に参加して下さった被験者の皆様のご尽力と、

ネンタ医師の困っている患者様を何とかして救いたいという熱意と、

被験者様に集まっていただこうとして開設したこの拙ブログの存在も少しばかり貢献して実現した、

 

国際科学雑誌 「PLOS ONE 」の論文

「Brain Regions Responsible for Tinnitus Distress and Loudness: A Resting-State fMRI Study」

https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0067778

 

二報目

https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0137291

 

 

  sofashiroihana