エリートの、知られざる葛藤(菊地 賢一シェフ: パティスリー・レザネフォール) | Cercle des Chefs セルクル・デ・シェフ

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Vol.4 エリートの、知られざる葛藤

 



東京都渋谷区恵比寿-

誰もが知るその都心の一等地に彗星のごとくにあらわれたパティシエがいる。

「レザネ・フォール」オーナーシェフ 菊地賢一。 確立された自身のスタイルの裏側には、壮絶な悩みと葛藤があった。

数々のコンクールで入賞・優勝の経験を持ち、華やかなキャリアを歩んできた菊地シェフとは。 その素顔に迫る。



- 夕方17時を過ぎても暑いですね。 お忙しいところ、ありがとうございます。JR恵比寿駅から歩いてきたんですが、仕事中なのに思わずショーケースにあった「グラス&ソルベ」オーダーしたくなりました。


ははは、その前にまずこの取材をね(笑



- (笑) セルクル・デ・シェフ第二回集会を9月2日(火)に控えてますが、その企画連載「クローズアップ」第4回、今日はよろしくお願いします。



よろしくお願いします。



- わたしが菊地さんに始めてお会いしたのは、2009年2月のリヨンで行われたSHIRA、クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリーの会場だったと思います。 西原裕勝くん(京都グルニエドール)に紹介してもらったのを覚えています。


あのときは、パリでの仕事をいったん終えて日本に帰国したあと、旅行でフランスを訪れていたときだね。 


- そうだったんですか。 あらためてですが、今日は経歴から現在のご活躍に至るまでのいろいろを詳しく(笑)お伺いしたいと思います。





崩さない、その徹底した学びの姿勢



「自分がそこへ行くには、”今からやっておかないと”」いけないと思った



専門学校を卒業したあと、最初に世田谷の棟田社長のもと 「ヴォアラ」「アルパジョン」「季の葩」を展開するル・サントノーレ グループで4年半ほど働きました。ヴォアラが一番長かったかな。


- どうしてこのサントノーレグループになったんですか?


当時食べ歩きをしていて、ここが一番美味しいと思ったから。

あとは面接に行ったときに 棟田社長とお会いして、「この人のもと、働きたい」って思ったんだ。そのとき僕が抱えていた まあ就職についての悩みや考えに対して とにかく真摯に、誠実に対応してくれた。それにとにかく感激して、だって終わって外まで出て見送ってくれたりもして。


-お人柄ですねぇ・・。

  それで棟田社長のもと、ここでは基礎を学んだということでしょうか。



そうだね。 ここでは基礎をしっかりと教わって、技術的なことはもちろん、たとえば接客や販売のこともね。この業界でやってく上でベースとなる土台を築かせてくれたお店だった。

あとこのとき、入って2年目ごろから、サントスさんのところへ月1~2回ほど、休みの日に飴細工を習いに通っていたりもした。 棟田社長もGoサインを出してくれた。


-飴細工の練習・・ それはコンクールを見据えてですか?


そうだね。それでそのとき、内海会のジュニアコンクールに出場して、金賞をもらった。金だから、実際の2位になるのかな。


-入って2年目、というとまだ22、3歳でしょうか。 日々の仕事だけでも精一杯でしょうに、その中でのお休みを返上して飴細工の勉強にコンクール出場・・ ものすごくモチベーションが高いですよね

憧れのシェフだったり、また当時 ひとつ上の世代の先輩パティシエたちが、どんどんみんなコンクールに出て、ハイレベルな世界を相手に賞を取って・・そんな風に脚光を浴びていた。やっぱり、かっこよかったよね。そんな風に自分もなりたいと純粋に思った。でも、自分がそこに行くには、”今からやっておかないと”そう思ってただひたすら修業に励む日々だったね。



- それで、パークアハイアットへ。


24歳のころから、フランスへ行くかホテルで仕事を極めるかの二択で悩んだ結果、後者を選択した。でも、ここでの仕事はものすごく大変でね、まるで部活状態で(笑)



- 大変そう(笑) その、やはり「町場」と「ホテル」の違いですか?


そうだね。 仕事の仕方がまったく違った。 ホテルは、レストラン、パークハイアットだからあの52階のビュッフェ、宴会、婚礼、そしてブティックのパティスリー、そのすべてをひとつのチームで作りあげるんだ。


- ホテルの中のその”お菓子”もさまざまですよね。たとえばレストランデセールはそれはそれはラグジュアリーに仕上がってくるし、でもビュッフェに並ぶケーキはやっぱりカジュアルなムースものがおおかったり、宴会となればその何百という人数分のデセールをタイミングよく作らきゃいけないし、ブティックはブティックでねぇ、、


そう。それに加えて、ホテルは町場に比べてメニューチェンジが早い。2週間に1回のメニューチェンジが基本だったから、それを、そのレストラン、ビュッフェ、宴会に、、



- 婚礼、ブティックと、つまり5か所分のメニューが2週間に1回チェンジ(笑) うわわ、聞いただけで頭がやられそう。



でしょ?ルセット覚えたり、仕事の工程を把握したり、もうこれは頭脳勝負ですよ(笑) それに調理方法も保存方法も町場とはまったく違ったりもする。とにかく気力と体力と精神力で乗り切った。

でも、だからこそ学ぶことが本当に多かった。





パティシエ菊地、パリ、ハイアット時代 





-パリを代表するパラス、ヴァンドームのランドマークとして各国のエグゼクティブやセレブリティに長年愛されてきたパークハイアットです。わたしも憧れのホテル、大好きです。


パリ・ヴァンドームのハイアット行きは、ハイアット東京時代、フランスから来日中のシェフに自ら「行きたい!」と志願した。当時セバスチャン・ゴダールへコンタクトを取るかどうか悩んだんだけど、結果こうなった。



-言ってみるもんですね。 どんなお菓子を作ってたんですか?


僕がいたのは2008年。このころはいわゆる「モダンなお菓子」が流行ってたから、それこそ化学実験みたいなことを厨房で繰り返してた(笑) たとえばジュレをパスタにしたり


- (笑)


だから、液体窒素とかだよね、あとはガムをクリームに変えたり。そういった化学的調理法のおかげで、枠にとらわれない柔軟さ、みたいなものは身についたかな。あとは当時のシェフがすごい人で(笑) その下で働くからね、柔軟にならざるをえない。


- ああ、いわゆる fou てやつですね(笑)


そう(笑) どうやったらそんなタルト・シトロン思い浮かぶの?みたいなのも作ってたし。 でも面白いし、良い人だった。 そもそもフランス人と働くって、日本人にはすごく刺激的だよね。まったく国民性が違うから、視野も広がるし考え方も変わる。パティシエとしてだけでなく、人間の幅が広がると思う。




父の菓子と、自分の菓子と




自身も父の営む洋菓子店の二代目に生まれ、幼いころから父の作るケーキを食べて育ってきた菊地シェフ。求められる菓子と作りたい菓子、父の菓子と自分の菓子。自身のスタイルを確立する上で、一番悩み頭を抱えたこととは-



いわゆる、焼ドーナツとか、プリン・アラモードとか、モカケーキでしょ、あとミュゲの乗ったケーキとかかな。オヤジの菓子は。


-いわゆる、昭和の洋菓子屋さんですね。好きですけど。


そう、ぼくも好きなんだ。美味しいと思うしね。でも、自分がこういう経歴で身に着けた技術とそのお菓子のビジョンとは方向性が全然違った。だからフランスから帰って来て一度父の店に入ったんだけどね、すぐに出たんだ。


-それで、自由が丘のパティスリーシュウのシェフ・パティシエに?


そう。 とにかく自分で自由に扱える、要するに自分が先頭切れる環境で菓子作りをしたかったんだ。 自由が丘のあの店はそういった意味で非常にいい経験をさせてもらえた。

近い将来の独立を見据えていたから、店づくりのイチから携われたことはとても貴重なことだった。



- いい場所にありましたよね。都心のケーキ屋では珍しく喫茶のスペースもすごく広くて。わたしも菊地さんがシェフをしているときに何度か伺いました。


でもね、それでも上からは「ファミリー向けをもっとやってほしい」とのお達しが来たよ。いわゆるショートケーキとかだよね。でも当時の自分はとにかく「モダン」をやりたかったから、そこでも悩んだ。大いに悩んだ。


- あ、そこで繋がってきたんですけど、、もしかして、だからそのあとセバスチャン・コダールのところへ?



そう。まさしくそうなんだ。






二度目の渡仏:自身のスタイルを探しに-



- 菊地さんが自由が丘のシュウを上がって、パリへいったん戻られたときその行先が「セバスチャン・ゴダール」と聞いて、お?と思ったんです。 セバスチャンも二代目ですよね、お父さんはものすごい偉大なシェフです。



当時ボンマルシェのデリカバーでものすごくモダンなお菓子を作ってたセバスチャンが、お父さんとは別にモンマルトルで自身のブティックをオープンさせたときだった。 ちょうど何かの記事で読んだんだ。それまでのお菓子を一新させてルネッサンスに、つまり「レトロ」や「クラシック」に、自身の菓子のスタイルを変えた、と。



- その当時の菊地さんには、ものすごく興味深い内容ですね。



だから自らセバスチャンにコンタクトを取って、一緒に働けることになって。とにかく質問攻めした。なぜスタイルを変えたのか、なぜそれまで「モダン」だったスタイルを「クラシック」や「レトロ」にしたのか。 僕自身の想いを、セバスチャンに重ねていたのかもしれないね。



- やはり、わたしもこの何年か 「クラシコ ルヴィズィテ = classique et revisité」 つまりクラシックの再解釈・再評価をフランスのお菓子を見ていても、友人のフランス人シェフを見ていても感じることがありました。





そう。 セバスチャンと話をしていて、そして一緒に仕事をしていて思ったのは、ファミリー向けはファミリー向けで売れた。親父のお菓子は親父のお菓子で売れた。

たとえば真っ赤な唇の形をしたムースケーキなんかは、買ってはもらえるけど一元さんの一回ぽっきりで終わってしまうことが多い。リピートしてきてくれるお客さんがいつも手に取ってくれるお菓子は、やっぱりクラシックなんだ。 クラシックな菓子って、なぜだかいつも「また食べたい」って思える。不思議とね。




- たしかに、わたしもふとしたときに「食べたいな」って思うお菓子はクラシックは多いです。ピュイダムール、シブスト、シュクセ、サントノレにパリブレスト・・ 考えてみればそのすべてはすべからく「レトロ」なお菓子です。でも、じゃあ セバスチャン・ゴダールにとっても菊地さんは特別な存在になったのでは?



自国の文化、それもお菓子というカテゴリーで、外国人の僕が心底悩んでいて、そこに彼はとても真摯に取り合ってくれた。 父親との関係、自分のやりたいお菓子、、本当にたくさんの話をした。

この店にもわざわざ遊びにきてくれたり、いまでも気にかけてくれたり、すごくうれしいことだよね。





菊地流「レトロ・モダン」とは



第一次世界大戦が終了した1900年代初頭、パリにはようやく平和と活気が戻る。

1920年代、パリの女性たちはそれまでの腰まであった長い髪をばっさり耳元までカットし、唇には真っ赤なルージュを光らせ、コルセットをはずしパンツスタイルやビーズドレススタイルで自転車にまたがり、カフェでシガレット片手に政治を語るその様は男性さながらであった。 

しかし1929年の世界恐慌とともに、その華やかな狂気の時代は儚くも終焉を迎える。

まさしくパリが花開き、そしてパリが華やかに浮かれた黄金時代、それがLes année folles:レザネ・フォール-



-わたしも、もっともパリが花開き浮かれていたこの短かく太い時代が好きだったので「レザネ・フォール」という言葉は、そういえば聞いたことがありましたが、まさかそれがお店の名前になるとは、と衝撃でした。


自分の中では「再構築」がキーワードだった。 日本には「温故知新」という言葉があるよね。 これも、自分のやりたかったそのスタイルにはぴったりの言葉だったけど、フランス語にすると、やたら長い文章になっちゃうんだ。そんなとき、ブルゴーニュのメゾンを見学しに行ったとき、現地にいたジャーナリストの方と話をしていてヒントを得たんだ。クラシックから近代化するときに、「レザネ・フォール」が存在したんだよ、と。



- レザネ・フォールとは狂乱の時代、なんて直訳できますが、まさにあのレトロからモダンに移り変わるパリの、あのほんの数年のことをこの言葉でまとめるわけで 「レザネ・フォール」この名前は、話を聞けば聞くほど、菊池さんのブティックにぴったりなネーミングだと思いました。



いまレザネ・フォールに並んでいる菓子は、全うなジャーナリズムからすると「レトロモダン」ではないはずなんだ。



-つまり?


ピュイダムールも、最初はノーマルなクレームシブストを使っていたけど、そのあとブランボワーズが入るようになった。今日、いま並んでいるそれには、バナナが入っているんだ。


- へえ!これ、バナナ入ってるんですか。面白いですね。


そう。モンブランも、オープン当時と実はルセットも見た目も変わっている。つまり、どのお菓子も「チェンジ」させてる。


-まさに、このブティックの中でその「レザネ・フォール」が細かく細かく、完結している感じですね。



ロックバンドでいうなら、名前が売れないときはコピー曲でお客さんを集めて、そのあとオリジナル曲で勝負するでしょう(笑) いまのこの店は、まさにその段階。まるで時代が移り変わるかのようなその表現方法、スタイルが「レザネ・フォール」でまとまると思っている。



- それが、悩んで悩んで、やっと見つけ出した答えなんですね。ちょっと感動しています。


でも、それもこれも、「悩んだからこそ、今がある」と言える。考えて考えて、答えが見つけられずに苦しんだあの頃があったからこそ、いまの自分がある。 何事も、経験とはまさにこういうことを言うんだということを身を持って実感した。






恵比寿で、勝負すること



- あらためてですが、このお店、すごく「恵比寿」が似合う。


開業にむけて、他にも目黒や麻布十番なんかの物件も見たんだ。でも、ここだったね。そのやりたいお菓子、やりたいお店を実現するには「恵比寿」だと思った。


-この恵比寿という都心の一等地、駅からも近くそれも大通りに面していて最高の立地で、自身がオーナーシェフとしてのご商売、あらためて凄いなって思います。大変なことはありますか?


大変といえば大変。でもそれはオーナーシェフじゃなくても、ホテルにいたときも町場にいたときも、いつもチームの一員として全力で力を注ぐから、独立する前も今も、大変の度合いは一緒かな。強いて言うなら、「経営」と「やりたいこと」と「世間からのニーズ」を擦り合わせることが大変。この3つはズレることがよくあるからね。



-「やりたいこと」と「ニーズ」ですが、恵比寿のお客さんはどうですか?想定通りでしたか?



フランボワーズのシブストとか、ミュールのお菓子、ピスタチオだったりあまり日本人の味覚に馴染みのない素材を使ったときに、「買ってくれる人」が多くいるのは、こいう都心の特徴かもしれないね。そういった意味で、そのピスタチオを使った鮮やかな緑のムースケーキがすごく回転が良かったりするのを見ると、「自分のやりたいお菓子」が受け入れられているんだなって思う。


-スタッフの方たちも皆すごく感じが良くて、それに人数もしっかり揃ってますよね。パティスリー全盛期の今、どこも人がいないとよく耳にする中で、人が揃っていることって素晴らしいことだと思います。しっかり菊地さんのブランドが伝わっているんだなって。


スタッフには常に自分の考えを伝えている。そうするとちゃんと受け取って協力してくれる。有り難いことだね。



-菊地さんを見ていると、職人として経営者として類まれなる「センス」を感じます。細かいところをあげるなら、包材ひとつひとつはもちろん、PRの仕方やお店のブランディングの仕方。そのあたりについては是非また別枠の企画でじっくりお話を聞きたいところです。




はは、恐縮だね(笑)





誰もが羨むようなキャリアの裏には、華やかな表舞台からはまったくもって想像できないような、苦悩、そして人一倍の努力があった。


「店は、まだ完成していない。これからどんどん成長していくその過程を、一緒にたのしんで、そして見守ってほしい。」 そう話す菊地シェフ、オーナーシェフとなった今でも、その志の高さと、どんなときも謙虚でありつづける姿勢が、特に印象的でした。



- 最後に、今後の目標を教えてください。



そうだね。フランス菓子とその素材の探求は常に続けていきたい。そこから派生して、食に関わる文化の向上のお手伝いもしていきたいかな。あと、コンクールもまだまだ挑戦していいと思ってる。




-やっぱりものすごく志が高い。頭が下がります (笑)

今後とも、セルクルともども どうぞよろしくお願いします。菊地さん、今日は本当にどうもありがとうございました!





Patisserie Les années folles

パティスリー・レザネフォール



渋谷区恵比寿西1-21-3

JR「恵比寿駅」西口徒歩5分

日比谷線「恵比寿駅」4番出口徒歩2分


不定休







写真・取材: 藤森もも子  / セルクル・デ・シェフ












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