カラーの違うさまざまな名店で腕を磨き見聞を広め、いまは父河田 勝彦シェフの店「オーボンヴュータン」で働く河田薫さん。
職人として、経営者として確固たる信念を貫きながら 「自分のフランス菓子」を後世にも伝えていきたいと話す。
―今日はよろしくお願いします。薫さん、前回(第一回セルクル・デ・シェフ集会)にもご参加いただいてありがとうございました。
いえいえこちらこそ。よろしくお願いします。
―それで、まずは薫さんの経歴からあらためてお伺いしたいです。
まずこの業界に入ったのは25歳のとき。25歳の5月、だったかな。考古学を研究しようと思って大学院へ行ったのに、1か月で辞めたから。そうだね、5月だ。
― え、1か月?(笑) 随分早いですね。
そう、「あ、違うな」って思って(笑)すっぱりとね。
それで、最初の修業先はご存知のとおりビゴ東京でした。 ビゴの店のパティシエ部門に2年半くらいだったかな。
― 覚えてますよ。わたしがまだ中学生でした。父(藤森二郎)とスタッフ何人かで、よくサッカー観に行きましたね~。わたしは部活を休んで、ゴール裏のサポータ―席を席取りしてました。
そうそう、懐かしいね。マリノス戦とか行ったよね。中学生だったんだ。笑
― (笑) ビゴで一番印象に残っていることは、なんですか?
( 一同、にんまり。)
それはやっぱり藤森さんかな(笑) とにかく印象的だね。 それと、ビゴはシンプルなお菓子が多いからね、最初の修業先としても良かったと思う。
あと当時はヨーロッパから帰ってきたばかりの鎧塚シェフもいらっしゃったね。
― そうだ、そのころか。懐かしいですね。でも、薫さん大学卒業して大学院出て、それまではお菓子を作ったりはしなかったんですか?
していたよ。でもクリスマスの忙しい時期に父を手伝うくらいだったかな。
つまり、ビゴははじめての業界だった。だから先輩たちから製菓の基本はもちろん、色々なことを教えて色々なことを教えてもらったね。仕事のオーガナイズの仕方とか。
たとえば先輩が作業しているコールドテーブルの下から「失礼します。」って言いながら道具を取ろうとしたら、「失礼って思うなら、来るなよ。」とピシャリと言われたこともあったりね。笑
― え(笑)誰ですかちなみにその先輩って。 ・・・・・・・・。 わ~~~意外(笑
(笑) だから自分の動きだけでなくて、周囲・全体を見渡しながら頭を使って仕事をオーガナイズすることも学んだよね。笑 簡単なことだけど、大事なことだよね。
― そうか~そうだったんですね。でもなるほど、じゃあそのビゴ時代に製菓はもちろん、あらゆることの基礎を学んだんですね。
それで、いったんオーボンヴュータンに戻られましたよね?ここでは4年間?
そうだね。4年かな。
「フランス修業」は誰に強制されることもなく、自分の中では自然なことだった
2年半のビゴ東京での修業後、いったんはオーボンヴュータンに戻る薫さんだが、その後の渡仏のビジョンは誰から強制されることもなく、自分の中では自然な流れだったという。
約4年オーボンヴュータンで、渡仏の準備をしながら自分のベースを築き上げていく。ワーキングホリデーを取得して、1年間フランスを回ったのも、このときだとか。
フランス修業は最初から2~3年と終わりを見据えて渡仏した。その中でできることを最大限にやろうと、修業先もある程度選んでCV(履歴書)を送った。
最初はニースから少しいったところにあるMOFのCharles CEVA(シャルル・セヴァ)さんのお店「ル・パレ・デュ・シュクル」で1年くらい。いわゆるコード・ダジュールのお菓子をいっぱい作ったな。あと、サンドイッチもね(笑)
午前中は仕事して、仕事を終えると語学学校に行く。そういう生活でした。
いまは息子のジャン・ジャックが継いでいるけど、お父さんのセヴァさんは、やっぱりグランパパだから何でもよく知っていたね。
―セヴァさんは、よく日本にもいらっしゃってましたよね。 わたしもよく、「ニースのセヴァさん、ニースのセヴァさん」というワードは小さいころから父やビゴさんから聞いていました。 鵠沼でフランス語学校の校長をしているミシェル・ボンジさんに中学生のころ自由が丘でフランス語を習ってたんですけど、彼もセヴァさんと超仲良しだったりして。世間は狭いなって思いました。
そう、ドーバーで講習会したんじゃなかったかな。とにかくセヴァさんは親日だったね。
「まかないのフォアグラが最高に美味かったんだよね。」そう話してくれたのは、パリへ移り最初の半年を過ごした 現2つ星のTaillevent(タイユヴァン)。ロブションも在籍していた歴史あるグランメンゾンだ。
そして2か月間 働いた Relais Louis13(ルレ・ルイ・トレーズ)ではオーナー・シェフであるマニュエル・マルティネーズ氏の持つ独特のカラーの濃さに困惑しつつも、今ではやはり良い経験であったと当時を振り返る。
そしてその後は 当時話題をさらった話題のレストランで同じく2ツ星のSur Mesure Par Thierry Marx(スュ ムズュ パー ティエリー・マルクス)で8か月、そのスーパーモダンなガストロノミーを習得した薫さん。
― すごい豪華なメゾンばかりですね。 タイユヴァンのまかないは、フォアグラだったんですね。笑
そう、“これ、お店では出せないから”と言って出てきたんだけど、そのレベルが、もうものすごく高くて。あとは鶏、鶏、鶏、イモ、イモ、イモって感じだったけど。フォアグラのまかないについては流石だなと思ったね。ここのデセールは比較的ノーマルで、たしか4人で回していたんだけど。それでルレ・ルイ13へ。 ここのマニュエルシェフは元トゥール・ダルジャンだったんだよ。
― あ、じゃあ鴨料理とかもあったんですか?
鴨もあったね。ここのデセールはミル・フォイユがスペシャリテで。とにかく毎日フィユタージュを折った。
次のティエリー・マルクスでは遠心分離機を使って作るデセールも、面白かったな。
ここではとにかく新しいことを習得しようと思って。自分がやったことのないことだよね。液体窒素を使った超科学的なデセールも、刺激的だった。
そんな薫さんに、フランスで印象に残っている食事を聞くと、答えは「ラモットブヴロンにあるホテル・タタンで食べた、Asperge blanche(白アスパラ)」だった。
ワーホリでフランスを回っているとき、春先一人で訪れたんだ、ホテルタタンに。
―ホテルタタンはわたしも行きました。確かジャンヌ・ダルクのお祭りのころ。
あそこ、何もないですよね。ラモット・ブヴロン駅も本当に小さい駅で、売店すらなかったような。そこに佇むホテルタタンはなかなかアットホームでいい感じのホテルでした。
でも、 印象に残っているのは、「タルト・タタン」ではなく、そこは「アスペルジュ・ブランシュ」なんですね?
そう。タルト・タタンは、言うほどのものではなく、まあフランスらしいよね。笑 でも、アスペルジュ・ブランシュは最高に美味しかった。
-薫さん昔からいわゆるグラン・メゾンのフルコースなんかもきっと沢山食べてこられたでしょうに、意外な答えです。
本当にただ茹でただけのアスパラに、ソース・オランデーズをかけただけのアシエットだったよ。
ラモットブヴロンというあの何もない町の小さなホテルの、中庭で食べたんだけどね。
その土地の、その土地で採れたばかりの、その旬のものを食べる。 あれは、あの時、あの瞬間にしか食べられない料理だったと思う。
「まさにこれがフランス」だなって肌で感じた気がする。
-でも、この話を聞いて思うのは、やっぱり薫さんも そのものの「本質」を大切にするんだなって。余計なことはいらなくて、シンプルに、その物の本質的なところと向き合う。 オーボンヴュータンに並ぶお菓子を見ていると、このアスペルジュ・ブランシュの話と繋がってくる気がします。
「歴史」と「意味」をとにかく重んじるということ
-カラーの違うそれぞれの名店で修業を積み、その中で築き上げてきた薫さんのアイデンティティとは何でしょうか。お菓子をつくるときに、大事にしていることは何ですか。
とにかく、「歴史」と「意味」を大事にしたい。 わかりやすい話、「ババ」とは、ラムを打ってレザンが入ったもの。たとえばラムを打っていなかったり、レザンが入っていなかったりしたら、それは「サバラン」でしょ?
ベル・エレーヌは洋ナシを使うからベル・エレーヌであって、使う果物はリンゴではいけない。 「新しいことをする」ことを否定はしませんし、尊重します。けれど、それなら新しい名前をつけて、新しいモノとして、世に発表したらいいと思うんだよね。それだって、個人のアイディアなんだから。
-なるほど、それならシャンティのサントノレは、薫さん的に言うならば、サントノレではない?
サントノレではないね。サントノレは、シューがしっかりキャラメリゼしてあって、クリームはクレーム・サントノレであって、はじめてサントノレになる。 ディプロマットでもだめ。
-でも、いまフランスでも厳密にクレームサントノレを使うサントノレを作るパティシエは殆どいないですよね。それが流行であって、それは人々の味覚の変化に起因した傾向だと思うんですけど、じゃあ究極の質問していいですか。
はい。
― 経営者でもある薫さんですが、世の中の風潮が120%、薫さんの意図しないお菓子を求めるようになったら、どうしますか。
そうだね、お菓子を作るって売るということを辞めるかな。だって、どうしようもないでしょ?
― やめちゃいますか?
でもね、自分の「美味しい」が「美味しくない」にはならないという確固たる自信がある。
でないと職人として経営者として店はできないと思うんだよね。だから、そんなときは来ないでしょう。
― それくらいの強い意志を持てる人は、なかなかいないと思います。 でも、これまでの話を聞いていると、職人として、お父上勝彦シェフとはあまり対立はなさそうに思えますが。
そうだね。あまりないね。父親も同じことを考えていて、僕も修業を重ねていくうちに、その考えは確立されていったから。
お菓子も、「甘すぎなくて」美味しい。とか、料理だって「重すぎない」から美味しいとかそういう傾向があるけど、それは本来の「美味しさ」からはだんだん離れていくことを意味していると思っている。
フツウをフツウにやるのがいちばん美味しいと思っていて、新しいものは補助的な立場ととらえる。
これは、お菓子の歴史や意味を尊重するということにダイレクトに繋がると思う。
特別なことは、正直いらないんだよね。
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インタビューをしている間にも、お店にはお客様がどんどん見えられ、ショーケースはあっという間に空っぽになっていきました。
偉大な父を持ち、自身も同じ道を歩む薫さん。
職人として経営者として揺るがないその信念は、店内に所せましと並ぶコンフィズリー、ショコラ、ヴィエノワズリー、パティスリーを見れば一目瞭然なのかもしれません。
お客様は遠方から買いにくる方、また地元の方と 様々で、まさに「誰からも愛される店」であるということを感じました。
― 最後に、これだけは!ということをお願いします。
今日はたくさん話したけど、あ、そうだそうだ。
オーボンビュータンは、2015年4月に移転拡大し、グランドオープンします。
場所は、ここからすぐの環八沿い。新しいその店では、パティスリー、グラス、アントルメグラッセ、ショコラ、シャルキュトリー、ヴィエノワズリー、シャルキュトリー、トゥレトゥールをやります。
昼はビストロのようにランチを提供して、通常時はサロン・ド・テの営業をしようと思っています。
是非、楽しみにしていてください。
―本場仕込のシャルキュトリーに、渾身の生ハム、ますますお忙しくなりそうですが、最高です!今日は、本当にありがとうございました。
AU BON VIEUX TEMPS オーボンヴュータン
世田谷区等々力2-1-14
東急大井町線「尾山台駅」徒歩5分
火曜・水曜定休
写真・取材: 藤森もも子 / セルクル・デ・シェフ