JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、写真家・星野道夫のエッセイ『ゴンベの森へ アフリカ旅日記』を、一部編集してお送りしています。
今夜はその最終夜。
「ジェーンの滝」の、3日目。
チンパンジーの観察・保護の世界的研究者、ジェーン・グドールの招きで、タンザニア・ゴンベ動物保護区への10日間の旅。
毎日のように夕立が来て稲妻が光り、また嘘のように晴れ渡る。
あるリラックスした午後、昆虫の動きをじっと見つめるジェーンの姿に、星野道夫は自分の住むアラスカの体験を思い出す。
そして、ジェーンが著書の中に書いた、彼女の原点に思い至るのだった。
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雨上がりのある午後の事だった。
私たちは森の木陰で休みながら、とりとめのない時間を過ごしていた。
ふとジェーンを見ると、目の前の草むらをじっと見つめている。
1匹の蜘蛛が、雨露に濡れた草むらで、糸を張っているのだった。
蜘蛛もまた夕立に濡れたのか、雲間から差し込む日を受けて、光っている。
そしてゆっくりと確実に、どれだけ美しい糸を織っているかも知らずに、自分の仕事を果たしている。
そんな、何でもない風景に、僕もいつも惹きつけられた。
その土地に特別にあるものではなく、どこにでも共通する世界を発見する事が、不思議で面白かった。
いつか、アラスカ北極圏のツンドラで、カリブーの大群を待っていた日があった。
じっとしていても、Tシャツが汗で濡れてくる。
暑い暑い北極圏の、夏の午後だった。
見晴らしのきくベースキャンプ近くの丘に登り、双眼鏡で見渡しても、気の遠くなるようなツンドラの広がりに、1頭のカリブーさえ見当たらない。
ザックを下ろし、土の上に寝転んだ。
24時間の太陽エネルギーを浴びた地表は、温かかった。
ふと気がつくと、10センチメートルほどの目の前を、名も知らぬ小さな虫たちが、動き回っている。
しばらくして、川向こうのツンドラの彼方に砂埃が見え、津波のようにカリブーの大群が向かってきた。
やがて、辺りはカリブーの海となり、全ての群れが通り過ぎるのに、4〜5時間はかかっただろうか?
気がつくと視界には、1頭のカリブーもいなくなり、アラスカの自然が見せてくれる、この動と静の世界に、ただ圧倒されていた。
そして、あの日の記憶の中に、目の前で動き回っていた名も知らぬ虫たちの風景が、不思議に生き生きと残っているのである。
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蜘蛛の巣にじっと見入るジェーンを見つめながら、まだ彼女が5歳の子供だった頃の初めての自然との出会いを、思い出していた。
「まだとても小さかったのですが、その時の事はとてもよく覚えています。
実は、卵の事で頭を悩ませていたのです。
一体、メンドリのどこに、卵が出てこられるような大きさの穴が空いているのかしら?
自分で確かめる事にした私は、じっとしゃがんでいました。
風の通らない、とても暑い所でした。
でも、藁で作った巣の上に座っているメンドリは見えました。
メンドリは鶏小屋の向こう端、私から1メートル半ほどの所にいて、私がいる事に気付いていませんでした。
ちょっとでも動いたりしたら、全てを台無しにしてしまうでしょう。
だから、じっと静かにしていました。
巣の上のメンドリみたいに。
やがて、実にゆっくりと、メンドリは巣から体を持ち上げました。
そして、私の方にお尻を向けると、前屈みになりました。
メンドリの両足の間の羽根の中から、丸くて白いものが、少しずつ押し出されてくるのが見えます。
それは、だんだん大きくなってきました。
突然メンドリは、軽く体を振るわせ、ぼとっ!
それは、藁の上に落ちました。
卵が産まれるところを、私はこの目で見たのです」
彼女をずっと支えてきたものは、卵を産むメンドリをじっと見つめていた、5歳の頃の自然への思いではないだろうか?