JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、料理界のカリスマ・三國清三の自伝『三流シェフ』より、一部編集してお送りしています。
今夜は、その最終夜。
帝国ホテルの皿洗いから、大使公邸の料理人に抜擢された三國は、フランス料理など作った事が無いまま、ジュネーブに着いた。
しかし1週間後には、アメリカの大使を招いた正式な晩餐会が、迫っていた。
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僕、三國清三は、大使公邸の料理人でありながら、正式なフランス料理など、作った事も無ければ食べた事も無い。
そこで、アメリカの大使が贔屓にしている料理店、オーベルジュ・ドゥ・リオン・ドールに、1週間毎日通って、前菜からデザートまで、料理を完全にコピーした。
フランス料理には、無数のテクニックがある。
全て習得しようとしたら、何年もかかるだろう。
けれど、一皿の料理を作るのに必要な技術は、それほど多くない。
フルコースを構成する、個々の料理を作るための情報を、全部こと細かに教えてもらいながら、その場で僕が作ってみる。
公邸の厨房に戻って、同じ料理をまた作る。
それだけを1週間続けて、分かった事が1つある。
フランス料理だろうが何だろうが、料理は料理なのだ。
切る、火を入れる、味を付ける。
基本は、それだけだ。
その切り方、火の入れ方、味の付け方には、細かな違いがある。
食材に火を入れるのでも、カリッと焼くポワレにするのか、網焼きのグリルなのか、ロティール、つまりロースト、オーブンで焼くのか、はたまたポシェ(茹でる)のか。
技法が色々あって、それぞれを表すフランス語が細かく決まっているから、知らないうちは混乱する。
けれど、逆に覚えてしまえば、間違いが少ない。
日本にいた時、フランス料理は遠い外国の、特別な料理だった。
ここでは、ただの料理だった。
そして、ただの料理である以上、大切な事も同じだった。
まあ、そんな冷静な事を言えるのは、40年以上も経った今だからだ。
あの時は、思索に耽る暇なんて、1秒も無かった。
ただ、必死だった。
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ジュネーブに着いて1週間。
寝る間を惜しんで、アメリカの大使を招く晩餐会の準備をして、あっという間にその日の朝を迎えた。
朝から下ごしらえを始め、無我夢中で12名分の料理を作り続けた。
12人分の前菜、12人分のサラダ、12人分のスープ、12人分の・・・。
お客さん方のお口に召すかどうかなんて、もう考えていられなかった。
口に合うも何も、料理がテーブルに乗らなければ、話にならない。
1人あたりの皿数は、前菜からデザートまで6皿。
12人分だから、全部で72皿。
とにかく72皿の料理を、1人で仕上げなきゃいけない。
教わった通りの手順と、味を間違えないように。
それだけは気をつけながら、目の前の皿を次から次に、仕上げていった。
最後のデザートまで、全ての料理を何とか出し終えた。
奇跡だ。
放心状態で、戦場みたいに散らかった調理台を片付けていると、厨房の入り口に小木曽大使が姿を見せた。
何かやらかしてしまったのかと、一瞬焦ったが、大使は笑顔だった。
「ありがとう、三國君。
上出来だったよ。
皆さんも、満足してお帰りになった。
ただね、アメリカの大使が、どうしても分からないと首を傾げていた。
『あなたの料理人は、先週あなたと一緒に日本から来たんだろう?』
って言うんだ」
小木曽大使の口調は、どこか愉快そうだった。
僕が、リオン・ドールに通っていた話を、誰かから聞いたのかもしれない。
「『それなのに、どうして私の好きな料理を知っているんだろう?』
とね」
その晩のメインディッシュは、マスタードソースを添えた、うさぎ料理。
[うさぎ料理]
リオン・ドールの料理長が、内緒で教えてくれた、アメリカ大使の大好物だった。
【画像出典】

