2025/3/5 三流シェフ③ | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。


今週は、料理界のカリスマ・三國清三の自伝『三流シェフ』より、一部編集してお送りしています。


今夜は、その第3夜。


「故郷の増毛は、留萌線の終着駅です。


後ろには何にも無い。


僕も同じです。


僕には、後ろが無い。


僕は、前に進むしかないんです」


崖っぷちに立たされた三國のその言葉は、札幌から東京、そしてジュネーブへと、三國を大きく前進させた。


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帝国ホテルで皿洗いをして、2年あまりが経った頃。


その年の10月の終わりに、僕は20歳で在外日本大使の料理人に、採用された。


年が明け、ジュネーブに赴任する小木曽大使の一行として、羽田空港から飛行機に乗った。


アラスカのアンカレッジ空港で給油して、ヨーロッパまで、30時間の空の旅だ。


海外渡航の自由化から10年。


誰かが外国に行くとなれば、一族郎党友人知人が羽田空港に集まり、水盃を交わして、別れを惜しんだ時代だ。


空港のロビーには、大使夫妻を見送る人が大勢いたが、僕の見送りは誰もいない。


お袋にだけは、電話をかけた。


東京に出てから、一度も家に帰っていない。


ホテルで働いている事も、知らせなかった。


お袋は、帝国ホテルを知らないだろうから。


電話口で、スイスに行くと言うと、さすがに驚いた。


「名誉な事だ!」


と、喜んでくれた。


故郷に錦を飾るのは大分先になりそうだけど、少しは親孝行ができた気がした。


30時間後に、飛行機の窓から見下ろしたジュネーブは、建物よりも緑の多い落ち着いた町だった。



[ジュネーブ]


平静を装っていたが、心の中は大嵐だった。


大使公邸の料理人は、僕1人だ。


料理人1人とはいえ、僕が料理長だった。


2年間、皿洗いしかしていない僕が、大使公邸の料理長なのだ。


大体、どんな料理を作ればいいんだろう?


帝国ホテルの厨房で、先輩たちがフランス料理を作っているのは見た。


鍋に残ったソースの味を見るくらいの事はした。


フランス料理の専門書も買って読んだ。


でも、作った事は、一度も無い。


それどころか一度も、その正式なフランス料理なるものを、食べた事が無かった。


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20歳で、大使公邸の料理長になった。


フランス料理を一度も作った事が無いばかりか、食べた事も無い僕に、


「大丈夫です」


帝国ホテル総料理長の村上さんは、なぜか自信たっぷりに、受け合ってくれたけど・・・。


「それより重要な事があります。


ジュネーブに着任した最初の晩に、必ず大使と奥様に面会して、ご挨拶をしなさい。


その時に、大使の事を、『閣下』とお呼びするのですよ。


これだけは絶対に、忘れないように」


ベルソワ町にあるプール付の大使公邸に、僕の部屋が用意されていた。


ベッドも寝具も、暮らしに必要なものは、一通り備えられている。


日本から持ってきた荷物は、カバン1つだ。


中身は、衣類と何冊かの本と、出発前に購入した、フランス語学習教材のリンガフォン。


ジュネーブは、フランス語圏だ。


現地採用の運転手も執事も、フランス語を話した。


そのリンガフォン一式を机にセットして、引越しは終わった。


着任1日目のその夜。


大使夫妻に面会して、ご挨拶をした。


村上さんに何度も念を押されていたから、まず「閣下!」と言ったら、大使が大笑いした。


「閣下とは、大袈裟だね。


三國君。


大使でいいよ」


気さくにそう言われたので、また少しだけ、肩の荷物が軽くなった。


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