JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、料理界のカリスマ・三國清三の自伝『三流シェフ』より、一部編集してお送りしています。
今夜は、その第3夜。
「故郷の増毛は、留萌線の終着駅です。
後ろには何にも無い。
僕も同じです。
僕には、後ろが無い。
僕は、前に進むしかないんです」
崖っぷちに立たされた三國のその言葉は、札幌から東京、そしてジュネーブへと、三國を大きく前進させた。
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帝国ホテルで皿洗いをして、2年あまりが経った頃。
その年の10月の終わりに、僕は20歳で在外日本大使の料理人に、採用された。
年が明け、ジュネーブに赴任する小木曽大使の一行として、羽田空港から飛行機に乗った。
アラスカのアンカレッジ空港で給油して、ヨーロッパまで、30時間の空の旅だ。
海外渡航の自由化から10年。
誰かが外国に行くとなれば、一族郎党友人知人が羽田空港に集まり、水盃を交わして、別れを惜しんだ時代だ。
空港のロビーには、大使夫妻を見送る人が大勢いたが、僕の見送りは誰もいない。
お袋にだけは、電話をかけた。
東京に出てから、一度も家に帰っていない。
ホテルで働いている事も、知らせなかった。
お袋は、帝国ホテルを知らないだろうから。
電話口で、スイスに行くと言うと、さすがに驚いた。
「名誉な事だ!」
と、喜んでくれた。
故郷に錦を飾るのは大分先になりそうだけど、少しは親孝行ができた気がした。
30時間後に、飛行機の窓から見下ろしたジュネーブは、建物よりも緑の多い落ち着いた町だった。
[ジュネーブ]
平静を装っていたが、心の中は大嵐だった。
大使公邸の料理人は、僕1人だ。
料理人1人とはいえ、僕が料理長だった。
2年間、皿洗いしかしていない僕が、大使公邸の料理長なのだ。
大体、どんな料理を作ればいいんだろう?
帝国ホテルの厨房で、先輩たちがフランス料理を作っているのは見た。
鍋に残ったソースの味を見るくらいの事はした。
フランス料理の専門書も買って読んだ。
でも、作った事は、一度も無い。
それどころか一度も、その正式なフランス料理なるものを、食べた事が無かった。
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20歳で、大使公邸の料理長になった。
フランス料理を一度も作った事が無いばかりか、食べた事も無い僕に、
「大丈夫です」
帝国ホテル総料理長の村上さんは、なぜか自信たっぷりに、受け合ってくれたけど・・・。
「それより重要な事があります。
ジュネーブに着任した最初の晩に、必ず大使と奥様に面会して、ご挨拶をしなさい。
その時に、大使の事を、『閣下』とお呼びするのですよ。
これだけは絶対に、忘れないように」
ベルソワ町にあるプール付の大使公邸に、僕の部屋が用意されていた。
ベッドも寝具も、暮らしに必要なものは、一通り備えられている。
日本から持ってきた荷物は、カバン1つだ。
中身は、衣類と何冊かの本と、出発前に購入した、フランス語学習教材のリンガフォン。
ジュネーブは、フランス語圏だ。
現地採用の運転手も執事も、フランス語を話した。
そのリンガフォン一式を机にセットして、引越しは終わった。
着任1日目のその夜。
大使夫妻に面会して、ご挨拶をした。
村上さんに何度も念を押されていたから、まず「閣下!」と言ったら、大使が大笑いした。
「閣下とは、大袈裟だね。
三國君。
大使でいいよ」
気さくにそう言われたので、また少しだけ、肩の荷物が軽くなった。
【画像出典】
