一昨日は「いつもの時間に予約」をミスって
書いた途端に公開してしまったほど不調でした
結局、昨日の復帰は無理でしたし、
しばらくは断続的な更新になるかもですが
(物事が振れ動く木の芽時、他にもゴタゴタありまして☆)
ヤルヤル詐欺になりつつあるいくつかの記事と
小説の続きは必ず書きます
自分が「実は辛抱強く粘り強い」という観点が
最近ようやく解放されました(笑)
では、滞っていたおカネの話です
お金をわざわざ「阿堵物(あとぶつ)」と呼んだ王衍(おうえん)のように、日本でも「お金に関わらないことが美しいこと」と考えられがちだと感じる
(王衍については過去記事『阿堵物と尻』 へどうぞ)
もちろん、自分の利益を度外視して誰か・何かのために動くのは善いことなのだけど、深く省みることなくそれを讃え、対岸にいるように見える者(たとえば富裕層など)を一律に白眼視した結果、他のいろんなコモンセンス同様、本来の意義を突き抜けてねじれてるように思う
塩野七生氏が若き日のミケランジェロについて書いた一文がある
現在ヴァティカンに所蔵されている『ピエタ』を制作した時、彼の要求額を「(当時24歳の若造には)高すぎる」と主張する依頼主に「得をするのはあなたです」と言い放った、というもの
(ネット画像から借用)
『ピエタ』とはイタリア語で悲哀・敬虔の意で、
刑死したキリストを抱く聖母マリアの像を指す
これだけを抽出すると、芸術に対してゼニカネなどと言い出す俗物をやり込めた「芸術家のプライド」とか「天才青年のカッコいい逸話」としても読めてしまい、それでは結局、阿堵物などと言い出す清談的精神論から離れることがない
そのプライドの拠って立つところが問題であり、塩野氏の文意もそこにあると思うので、その前後に置かれた歴史エピソードも抜き書きしてみる
ヴェネツィア共和国政府は建築家サンソヴィーノに教会の修復を依頼、高額の報酬を与え、住まう屋敷も提供した
ここまでなら「ヴェネツィアは芸術家を厚遇した」だけれど…
完成直後に建物が崩壊すると彼は責任を問われて投獄され、釈放もなかなか許されず、結局、釈放の条件として自費で建物を建て直す義務が課せられた
《芸術家けっこう、報酬も充分にしよう、しかし責任は果たしてもらいましょう…》
と、塩野氏はヴェネツィア政府の姿勢を表現しておられる
(だからヴェネツィア共和国は好きだ)
そして高名な画家ティツィアーノについての逸話も書かれている
故郷の村の教会から祭壇画を依頼され、彼はたった1枚の絵で上記の建築家の「高額な年収」と同じ額を受け取った
《故郷からの頼みだからといって無料奉仕をしなかったティツィアーノの偉さ。彼はプロなのである。プロには支払うべきである》
さて、この流れでミケランジェロの一件を読み返すとどうだろう
イタリア人なのでいくぶんハッタリもあろうが(笑)、プロとして、対価 という現実のフィールドで、報酬に見合うどころか「得をするのはあなたです」と言い切れるだけの仕事をしているということ
これはとても厳しいことではないだろうか
たとえば、趣味で手芸をやっていたとして、「家族や親しい友人にタダで配る」なら気持ちの問題で済むが、「友人・知人にささやかな値段で買ってもらう」となると、よほど自己チューな方でない限り、相応の修練とクオリティが要るだろう
ましてそれが「見知らぬ人に世間相場の値段で買ってもらう」となったら、素人わざでは済まない
こうして並べていけば、わたしたち一般人にも「おカネをいただく」ということのシビアさがちゃんとわかっているはずだと思う
世間相場どころか高額の報酬を得られる=それだけの価値があるアルテ
シビアさに根を張って頑強な花を咲かす自信とプライド、それにこそわたしは圧倒される
ところが、手芸の腕で追っていけば納得できることが、なぜか人間社会ではどこかで「ゼニカネ言うのは汚いことだ」という、別方向の話にすり替わる
たとえば先ほどのティツィアーノの逸話を聞けば「まあ、がめつい。故郷の依頼くらい、タダで受けたらいいのに」と、まるでそれが清潔で正義であるかのように言ったりするのだけど…
ではもしも、ティツィアーノの故郷の村の人々が、縁故があるのをよいことにタダで絵を描かせようと考えるような人々だとしたら、がめつくて根性が汚いのはどちらなのだろう?
明日、続けられるといいな
※参考資料 塩野七生氏著『イタリア遺聞』 特に《》内はそのまま引用したものです