休暇中のため、本日から11月8日までの分は休載します。

お早うございます。



国にはいわゆる憲法という法律があります。そしてその憲法、法律によって国民は縛られます。守らなければ法律によって罰せられます。それを少し難しい言葉では“拘束力”と言います。例えば、国の法律を守らなかったり、罪を犯したりしたら、強制的に引っ張られて刑務所に入ることになります。法律というものは、その国が定め、その国にとって一番大事なメンバーである国民の為にあります。それを憲法と言います。大体どの国でも、その憲法の第一条は国民がその国の主人である事を表しています。日本でもフィリピンでも同じです。南米の様々な国も皆同じだと思います。


今日、イエス様は『皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様に』とおっしゃいました。この日本に生きている私達は、日本の法律に縛られています。縛られると言ってもそれは悪い事ではありません。全体を通して色々な事を考え、長い歴史の中で日本という国が定めた法律です。それに従うのは国民として当たり前の事であり義務です。しかし私達には国の法律の他に全く別な法律があります。それは、いわゆる“教会法”と言います。教会法とは何でしょうか。皆様も求道者として勉強した時の事を思い出してみましょう。教会法は大きく2つに分けられます。1つは“自然法”、他の言葉では“神定法”と言います。いわゆる自然的に神様がおっしゃった、守らなければならない掟を意味します。それは何でしょう。『神様を愛しなさい。隣人を自分の様に愛しなさい』。これが第一の自然法です。これはものすごく大事な事です。次に人が定める、そして教会が定めた法律、その言葉どおりに“人定法”と言います。2千年のカトリックの歴史の中で、色々な策を講じながら、「これは教会が守らなければならない」と様々な法律を定めました。例えば結婚については、とても難しく厳しい定めがあります。神様に結ばれた2人は絶対に人間の手によって離す事が出来ず、もし別れる様な事になればその人は秘蹟の生活が出来なくなります。実際には、教会に入ってミサに与ってご聖体も頂けないし、ゆるしの秘蹟でさえ頂けない。この様に厳しい教会の法律もあります。修道会は修道会の法律があります。司祭には司祭としての法律があります。そして信者は信者としての法律があります。教会では、イエス様が教えて下さった『神を愛しなさい。隣人を自分の様に愛しなさいという』“自然法”に基づいて教会の色々な“人定法”が定められたのです。


 さあ、今日皆様に申し上げたい事は2つです。

では質問します。易しく理解する為に、国の法律を“社会の法”と言いましょう。そして教会の法律を“信仰の法”と言うことにしましょう。“信仰の法”“社会の法”その2つを私達は守らなければなりません。ではどちらを守る事が難しいでしょうか。“社会の法”を守るのが難しいでしょうか、それとも教会の“信仰の法”を守るのが難しいでしょうか。難しいと思われる方に手を挙げてみて下さい。

そうです、“教会の法”“信仰の法”を守るのが難しいですね。何故“社会の法”より“信仰の法”を守るのが難しいと思われるのでしょうか。


人間はマニュアルや案内書があればそれに従えば良いのです。そして、その通りに行わなかったら、刑務所に入れられたり、罰金を払わなければならなくなったりします。また色々な被害を受けそうになったら、被害を受けないように何とかすれば良いのです。しかし、“信仰の法”では、日曜日のミサを守らなかったとしても、色々な罪を犯して、例えば神様の前で結婚したのに別れたり、自分勝手な望ましくない生活を送ったりしているのにもかかわらずご聖体を頂いても、罰を受けるでしょうか。刑務所に入れられるでしょうか。「あの人は本当に悪い人だ」と公に言えますか。そうではありません。


 もちろん、教会の中には色々な厳しい法律があります。しかし“社会の法”と“信仰の法”との一番大きな違いは“社会の法”には“拘束力”があり“強制力”があるという事です。「やらなかったら、やられる」。しかし“信仰の法”は全て神様に対しての自分の良心に任せられています。ということは、“社会の法”は自分が成熟な者とならなくても、なんとかそれに従えば守っていけるものです。しかし“信仰の法”は本当に自分が成熟した者とならなければ、それを守っていく事は難しくなります。自分の良心の声を聴きながら、「これは必ず守らなければならない」という心が生じなかったら、なかなか出来る事ではありません。社会では罪では無いものが、教会では罪である事もあります。会社の付き合いで水商売の様な所に行って、あまり好ましくない振る舞いをしてしまう事があります。組織や仲間との関係を考え、逃げる事も避ける事も出来ず、信者でありながら、またそれが余り良くない事と理解していても、誘う仲間たちの言葉に負けてしまう。その人は何よりも“良心の声”が聞こえます。「イエス様、本当に悪かったです」とゆるしの秘蹟を受け、深く反省する。それは社会的には罪ではなくとも、良心の声に従ったからです。


 さあ、皆様、今までの歴史の中に、例外は1つもありませんでした。“国の法律”“社会の法”は守ろうとすれば守れます。しかし、変わらない世界、心の世界、永遠の世界、その世界を自分のものにしようとする為には、一番難しい“心の法律”を守らなければならないと思います。ですから、私達が色々な難しさを乗り越えて、自分の良心に耳を傾けよう、み旨がどういうものか、イエス様のみ旨は何だろうかと、いつも自問する生活が何よりも必要ではないでしょうか。


 次に、2番目。もし“社会の法律”と“信仰の法律”とがぶつかったらどうしますか。社会は「これを行え」と言い、しかし信仰では「それを行ってはいけない」と言う、その様な場面は今までの歴史の中でもたくさんありました。その時どうしますか。昔、“社会の法律”と“信仰の法律”とがぶつかった時、その間にいる信者が出した結論は“殉教者”になるか“裏切り者”になるかでした。今、私達の日本の教会もたくさんの殉教者がいらっしゃいます。その人々は “信仰の良心”“自分の心の良心”、それを守って結局死を選びました。社会的な様々な誘惑があったのですが妥協は出来なかったのです。「今まで自分が命であると信じてきた道その道を自分は最後まで果たします」という心によって殉教しました。

この様な事が起こるかも知れません。その時、各自の“信仰の心”によって、“成功”か“失敗”か、“社会的”になるか“信仰的”になるかが決まるのではないかと思います。


皆様、私達は今良い時代に生きています。行きたかったら、行ってミサに与れば良い。やりたくなければやらなくても良い。司祭がいてミサにも与れ、ゆるしの秘蹟にもいつでも与れる。何でも出来る時代です。しかしこの日本という教会に流された殉教者のその心の血、それを私達は無駄にしてはいけません。日曜日のミサを守る為にたくさんの苦労をしながら、命をかけてその模範を見せた私達の先祖の心を計らなければなりません。読まなければならないと思います。


皆様、“教会法”そして“国の法”を出来るだけ調和させなければならないと思います。もし“国の法”と“信仰の法”との間に距離が生じた場合、その時は信者である私達は“良心の声”を出さなければなりません。それは未来の教会の為です。


今日、イエス様が『皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様に』とおっしゃったその言葉の意味を考えてみました。



ありがとうございました。

信仰とは何でしょうか。いろいろな表現がありますが、その中の一つが今日の第一朗読(エフェソⅠ・1114)に書かれています。簡単に言いますと、信仰と言うのは「キリストに希望を置くこと」です。私たちはいろいろなことを望みながら生きています。しかし最後の、目的のような希望は、キリストに置くのでなければ、信仰にただ足だけを入れているような状態になるかもしれません。


皆様が持っている希望は何でしょうか。その希望は自分に置いていますか、それともイエス様においているでしょうか。どちらに置いているかによって、大変違う生き方になります。信仰の名ではあっても、希望を自分においた場合には、信仰の味は絶対に味わうことができません。よく分からなくても「あなたに全てを任せます、委ねます」、「私が何を一番望んでいるかも分かりませんが、一番正しい希望をあなたに置けるように導いてください」、と祈れればそれが信仰ではないかと思います。イエス様に希望を置けば、たぶん何が起こってもゆるがないでしょう。なぜならば、イエス様は何があっても、私のために一番よい道へと導いてくださるだろうという心が生じるからです。しかし希望を自分に置けば、自分の力ではできない何かにぶつかったとき、すぐにがっかりします。「どうすればよいか」、「このような状態ならば私は死んでしまうのではないか」と、いろいろな心配に襲われます。


私たちが持っている信仰の正しい席はキリストであること、希望を置く場所はキリストであることをいつも意識しなければならないと思いました。

今日の福音(ルカ1217)に入りましょう。今日の福音には、私たちに悟らせてくださる箇所が二つあります。一つは、どうしても見せたくない恥ずかしいもの、お墓の中まで持って行きたいようなものさえ「必ず現れる」、ということです。怖いような話ですね。皆様には、家族にも言わずにお墓まで持って行きたい真実があるでしょうか。絶対言いたくない、人に知られたくない、そういうものを持っているのが私たち人間の心理です。私も、恥ずかしくて、恥ずかしくて、誰にも言いたくないものを持っています。しかし、それは、必ず現れることを今日イエス様はおっしゃいました。全てのことをわかっていらっしゃる神様に隠そうとするのは、愚かな人間の弱さではないかと思います。皆様、イエス様に対しても隠していることがあるでしょうか。もし、気づかずに隠しているかもしれないと思うならば、隠しているものはないかと振り返ってみる必要があると思います。それが一番素晴らしく行われるのが赦しの部屋です。そこは、恥を感じても、その恥によって、正しい道を歩むことを妨げられない場所です。赦しの部屋で、真実な、純粋な心で、「私はこういうことのために自分を赦すことができないのですが、お赦し下さい。」と祈る経験があれば、イエス様の慈しみはどういうものか、すぐに分かるのです。


隠したいものを持ってお墓に入るのは不幸です。人に話す必要はありません。しかし、イエス様が呼びかける時には、必ず話すべきだと思います。これが赦しの大きな恵みではないかと思います。


もう一つの箇所は、恐れる対象です。「命を奪ってもそれ以上はなにもできない者どもを恐れる必要はない。しかし、あなた方が恐れるべき対象は、あらゆる全ての権威を持っている方を恐れるべきだ」、という話しでした。皆様が恐れているものは何でしょうか。お金でしょうか?権力を持つものでしょうか?老いることでしょうか?病気になることでしょうか?人の目でしょうか?愛から外れることでしょうか?そうではありません。そういうことを乗り越えようとしても、また乗り越えたとしても、それは一時的なことです。私たちが本当に恐れるべきものは、イエス様の御心です。「キリストに希望を置く」という言葉とつながるのはこれです。「愛しあいなさい」といわれたその言葉をもし守ることができなかったら、それは恐れるべきことです。どうすれば愛しあうことができるのか、取り組まなければなりません。「平安な心を保ちなさい」と言われたのに、もしいつも自分の心の中が不満ばかりで乱れた心ならば、どうすれば平安を保つことができるのか、取り組まなければなりません。それが、私たちに一番必要なことではないでしょうか。


この世の中には人間的に恐れることがたくさんあります。しかし、本当に恐れるべきことは、私が希望を置いているキリストのみ言葉に従っているかどうか、ではないかと思いました。

ありがとうございました。

(ミサの最後に)

祈りとは、どのようにすればよいものでしょうか。時間をとってひざまずけばよいのでしょうか。長い時間、集中して祈るのは難しいことです。


基本的に、祈りは二つのことで出来ています。一つは、願うことです。「○○○をしてください」と具体的に願うことです。もう一つは、「あなたの御旨は何でしょうか」と耳を傾けることです。この二つのバランスがとれなければ、祈りはできません。二つのうちどちらが先になるのでしょうか。願う心でしょうか、それとも耳を傾ける心でしょうか。それは場合によって違います。できるだけ早く願わなければならない心が生じたならば、その心に任せてください。その後、「私の願いは正しいでしょうか」と耳を傾けようとすればよいです。「私は今何をしているのか」、「あなたはなぜ黙っているのでしょうか」という気持ちになったときには耳を傾けてください。そして、それでもできない時は、「私は何も聞こえません」と言ってください。返事が必ず来ます。


そして祈りにもいろいろな形があります。ミサのような祈り、御聖体の前で黙想する祈り、自分の家で十字架の前で唱える祈り。一番祈りやすいのは、祈りの会話です。相手が必ずいます。その相手は、キリストです。


朝、道を歩いていて、喧嘩をしている人をみたら、「イエス様、あの人たちはなぜ喧嘩をしているのでしょう」、「どうすればよいのでしょうか」と、このように話しかけるようにしましょう。「助けを求めて来ている人がいるけれど、なかなか自分では手を出せません。イエス様、どうしたらよいでしょうか。」「これはよくないことなので、治してください。」と話しかけます。妻が嫌な顔をしているとき、「なぜ彼女はあのような顔をしているのでしょうか、どうすればよいのでしょうか」。すぐに「彼女を喜ばせてあげなさい」と答えてくれます。「相手がなぜ怒るのかわかりません」、「それはお前のせいだよ。よく考えてみなさい」と。


このように、生きること自体が祈りにならなければなりません。ですから、24時間、夢の中でも祈る習慣が必要です。そして、それは神様を意識することです。結局、祈りと言うのは、願うこと、耳を傾けることより先に、神様を意識することです。神様を意識できれば、いろいろな誘惑に負けないと思います。そして何より必要なことは神様と会話をする時間を作ることです。

ありがとうございました。