その後色々あって、この前の投稿で妊娠していた子は7カ月で子宮内胎児死亡として死産した。死産の前に色々とあったのでそれが原因なんだろうなーと思っているが、胎盤の病理は異常なしで赤ん坊の成長も順調で見た目には異常が無かった。それで解剖などはしなかった。なんだろうか、異常を見つけたくなかったのもある。だって不育症だとしたらそれをしっかり管理できる病院がこの田舎にある気がしない。そしてなんちゃってNICUしかないこの病院で7ヶ月の子を管理できたわけがない。母体搬送できるほどの徴候も無かった。悲しいけれど、自分の体が生きていくための困難も抱えていたから、悲しむよりは戦わないといけなかった。経過によっては、今後自分が障害を抱えることはあり得たし死も想像した。


何とか退院するまで回復し、産後8週の休暇。まずは職場復帰を目指し食事の確立と体力をつけるのに気持ちは必死だった。スーパーにいる新生児(?)並みに小さい赤子と若い夫婦の姿に泣く。道端を歩いている幼児、特に女の子(女児だった)に泣く。ふと思い出して1日1回は少なくともじわっと泣く。NHKあさイチでたまたま流れた荒井由実の雨の街をがものすごく心象に合っていた。世間は春だった。あの春、体力回復のためにとにかく歩いた。春は暖かくて草木も彩られて気分も幸せだけど、悲しさを帯びていた。近所できれいに咲いていたモッコウバラを家でも植木にした。


意外と体力は回復した。食事も昔のようにはいかないけど普通食を食べられるくらいになった。量はとれないので栄養補助食品を利用している。予定通り職場復帰し、フルタイムで欠勤することなく働き、次月からは元通り月5回の13時間労働と夜勤もした。仕事自体は元々好きだったし、忙しいので気持ちを忘れられて良かった。

時々再入院の徴候に怯えるが何とかクリアしていった。夫の弁当とか普通に作れるようになった。こんなに休んだのは学生ぶりで、心の余裕も出てこの時に唾をつけた英検2級とFP3級と放送大学の微分積分の単位をその後半年でとれた。途中だった研究の学会発表もした。海外旅行も1人で2回行った(食はすごく気をつけた)。自分でもびっくりだ。たぶんもう自分は仕事で上を目指すことは体力体調的に無理・目指したくないのでプライベートに生きようと決めたからだと思う。

職場にいる妊婦の姿にも泣くし、聞こえてくる子供の話題にも泣いていたけど、徐々に適応していった。仕事は土日365日昼夜無関係の交代勤務なのでむしろ平日昼間を空けることが簡単なのもあり、季節性の疾患でもあるため逆算して良い時期に不妊治療を再開した。以前採卵した時の受精卵を移植し、また妊娠することができた。私の腹腔はボロボロなのだが、32歳の時に採卵1回で10個胚盤胞ができた。グレードはまちまちだが、前回は1回目の移植で妊娠、今回も移植1回で妊娠することができた。

前回と同様に行ったことは、まあ田舎ながら信頼できる医者が一件あり、そこの治療法がいいということでしかないが、以下のことをした
・移植前の免疫にいいと言うので、排卵期にあたる頃、膣座薬を使う前までは性交した。移植前日以降は性交を控えた。
・移植後は笑って過ごせと言うので笑える動画を見た。結局声に出るくらい笑えたのが前回同様登美丘高校のダンス動画なんだが…言い間違えなどの放送事故動画にもお世話になった。
・それくらいしかしてない。夜勤もしてるし、仕事のストレスもある。8時間おきの膣座薬は数時間ずれることはザラ(活動するとダラダラ出てくるので、ダラダラ出てくるくらいなら時間がずれてでも多少安静にできる時間を選んだり。結果、7時17時24時とか。)

その後5カ月まで子にはトラブルなく経過している。私の方はもう大変。再入院の兆候が何度かあった。更に食事のレベル、量を減らし、栄養補助食品に頼り、仕事以外のことはなかなかできない。しかし最近骨盤ケアを知り…骨盤高位で色々と改善している。身体がなっていない現代人でごめんなさい。これならいけるかもしれないと、奮闘中である。