降りしきる雨に打たれながら、子供を抱えうずくまる女性が居る。
泣いているのだろう・・・が、雨水が涙を洗い流し、痕さえも残らない。
叫んでいるのだろう・・・が、何故か声は聞こえてこない。
不思議な違和感を感じる。雨の中に立っている筈なのに、濡れている感触は無い。風雨激しいのに、風の音一つ聞こえない。寒いはずなのに、肌は何も感じていない。
まるで、カラカラと回る映写機で、セピアカラーフィルムの無声映画を見ているよう。
ふと、視点がゆっくりと女性から遠ざかっていく感覚を憶える。
女性の姿が遠のいていく。同時に、景色が広がっていく。
「ここは・・・。」そうライチは呟いた。
見覚えのある景色だった。そう、その場所はいつも駆け回っているビスク港だった。
「ビスク港・・・? 同じ形だけど、違うような・・・。」
だがライチは、その場所に違和感を憶える。
まるで、2日前の夕食を思い出したくても思い出せないときのような、気持ち悪い違和感を。
少し考え。そして気づいた。
歩道の石にヒビ一つ無い。岸壁の石材に浸食が無い。波止場のビットに錆一つ浮かんでいない。
「この港は・・・新しいんだ。え? でも何で僕こんな所に? え? え?」
そう思って、もう一度あの女性を見た。しかしその姿は豆粒のよう、もう殆ど見えない。
そう思っている内に、景色は遠くへ遠くへいく、ついには黒の世界へ吸い込まれていった。
しかし。
その漆黒に、声が響いた。
「助けて!」
何故か分からないけど、あの女性の声だ、ライチはそう確信した。
その瞬間。
「ふわーぁ、何だか変な夢だったなー。」
身支度を整え、レストラン、シェル・レランの廊下をトコトコ歩くライチ。思い出すのは昨晩の夢のことばかり。
「あれは何だったんだろうなー・・・。」
考えながら、歩く。と、廊下の角で誰かとぶつかりそうになってしまった。
慌てて避けるライチ。相手はライチをひらりと避けた。
「あっと! すいません。・・・あ、シレーナさま。おはよーございます。」
ぶつかりそうになった相手はシレーナだった。
「おはよう。前を見て歩かないと危険ですわよ、ライチ君。何か考え事でもしていたのですか?」
「あ、そうなんですよ。実は昨日、変な夢を見たんです!」
「夢・・・ですか?」
ライチは昨晩の夢の内容をシレーナに話す。すると、にこやかだったシレーナの表情が段々と変わっていき、話し終わった頃には真剣な表情になっていた。
そして、「そう、ライチ君も見たのね。」と呟いてから、ライチに言った。
「ライチ君、今日の厨房は他の人に任せますわ。すぐに、包丁とフライパンを持って向かって欲しい所があります。」
シレーナに言われた通り、ヌブール村のシルヴァを訪ねるライチ。
シルヴァにも、夢の内容を話す。
目を閉じ、情景を思い浮かべながら、ライチの話を聞くシルヴァ。話が終わると、ゆっくり目を開き、そして口を開いた。
「お前さん、過去に呼ばれたな。」
「・・・過去、ですか?」
「そうだ。強い願いが、人を呼ぶんだ。お前さんのような、その願いを解決する力を持った人をな。」
そう言いながら、シルヴァはポケットからノアピースを取り出した。
「このノアピースはジェイドと言う。これを身につけてビスクのアルターに入れば、時の狭間を渡れるはずだ。後は、その夢の女性を助けてやってくれ。」
ノアピースを身につけ、包丁を持って、フライパンを持って。
ライチはビスクの中央エリアへやって来た。
「シルヴァさんの話だと、午後11時から1時までにアルターへ入ればいいんだったな・・・。よし、行くぞ!」
威勢良くライチは駆け出し、そしてアルターへ飛び乗った。
瞬間、浮遊感・・・いや、いつもと違う。浮遊感なんて生易しい感覚ではなく、もっと激しい、例えるならハリケーンに飲み込まれたかのような、過剰なシェイクがライチの身を襲う。
「うわ、うわわわ!!!!」
と、気が付くと。
ライチはビスク港にいた。
歩道の石にヒビ一つ無い。岸壁の石材に浸食が無い。波止場のビットに錆一つ浮かんでいない。
雨は降っていなかったが、確かにそこは、夢に見た8年前のビスク港だった。
「・・・うわー。ホントに8年前に来ちゃったー。」
物珍しそうにウロウロと、ビスク港を見て回るライチ。
すると、ビスク港の西側高台付近に、女性が立っているのが見えた。
「あの人がシエルさんかなー。」
トコトコと、階段を駆け上がっていくライチ。そこに、女性が立っていた。夢で叫んでいた女性だった。
ただ・・・。
何故か、黒いマントにフロックコート風スーツを羽織り、手にはパプリカを持っていた。
「・・・え? え? ルナ・マティーノ? って何で?」
ライチの頭に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。
そんな様子などお構いなしに、女性はそのパプリカを生のまま一口かじると、ライチの方を向き、言った。
「私の記憶が確かならば、今夜の挑戦者は8年後のビスクからやって来た、レストラン、シェル・レランのトラブルメーカーである・・・。」
「えと、シエルさん・・・どうしたんですか、あの?」
声をかけてみるが、一切無視。
すると、どこからともなく声が聞こえてきた。アナウンサー風な口調の、壮年の男性の声。
「さあ、このキッチン・スタジアムに今夜の挑戦者が現れました。レストラン、シェル・レランからの刺客、ライチ君です。」
歓声が上がる。
ライチは驚いて辺りを見回すと、いつの間にか沢山のギャラリーがライチを囲み、階段下にはキッチンが設置されていた。
何故か7:3分けの眼鏡面が浮かぶ声が、再び辺りに響く。
「さあ、ここでルールを確認しましょう。制限時間4時間以内に、用意された食材から100人分の料理を作成出来れば挑戦者の勝利となります。どうでしょう、解説の服部さん。」
「うーん、彼のスキルは80程度ですから、ちょっと難しいかもしれませんねー。」
「ほっといて!」
その台詞を吐いた恰幅の良い白髪の男に、思わず突っ込みを入れてしまうライチ・・・が、やはり完全無視。
今度はシエルの声が響く。
「今夜の食材は・・・カルネの肉!」
何時の間にかシエルの前に現れた台の、上にかけてあった黒い布をシエルが勢いよく取る。
そこにはカルネの切り身が綺麗に揃っていた・・・その数100個。
「えと、えと・・・これを、料理すればいいの?」
ライチはシエルに疑問をぶつける。それに対してシエルの答えは。
「Allez cuisine! (アレ キュイジーヌ!)」だった。
右手をぎゅっと顔の近くで握り、満面の笑みを浮かべて。
再びアナウンサー風の声。
「さて始まりました今夜の対決。果たしてライチ君は何を作るのでしょうか。」
「食材はカルネの肉にビスクにんにく、調味料はビスクこしょう、それにビスク浄化水だけですから、作れる料理はおのずと決まってきますかね。」
「ってええ? それしかないの?」
ライチは最早何度目か分からなくなった驚きの表情を浮かべつつ、シエルの前にある食材置き場を見る・・・確かに、カルネの肉以外はにんにく、こしょう、水があるだけ。
「・・・と、とりあえずまともな料理を100人分、4時間で作ればいいんだよね、ね。えと、えと・・・そうだな。」
首を傾げながらも、ライチは食材置き場に手を伸ばした。
そして。
「つ・・・疲れた・・・けど、これで100皿!」
シエルの前に並べられたのは、100皿のカルネ・スープ。シエルはその右手を高々と挙げ、ライチに向けこう言った。
「勝者、ライチ!!」
その瞬間。
再びあの過剰なシェイクがライチの身を襲い。
気が付いたら、ビスク中央のアルターに居た。
辺りを見回すライチ。行き交う人の量も、木の生え具合も、記憶の中のビスクと同じ。
一瞬夢かと疑ったライチだが、持っている包丁やフライパンの使い込み具合や、何よりいつの間にか握っていた小さなコインが、あの8年前が現実だったという事を語っていた。
「えと・・・まあ、いいや。とりあえずシレーナさまに報告しよーっと。」
ライチは足取りも軽く、見慣れた風化具合のビスク港へ走っていき。
シェル・レランに入り、シレーナに報告する。
「・・・といった感じで、100皿作ってきました。これでよかったんですか?」
首を傾げながら、明らかに困惑顔のシレーナ。だが、「え、ええ、それで宜しいですわ。ご苦労でしたわね、ライチ君。今日はもう遊んできても宜しいですわ。」と言ってライチを労った。
走って部屋へ戻るライチを見つめながら、シレーナは呟いた。
「シエル・・・このネタは若いコに通じているのでしょうか?」
(第38章 完)