肉体に触れられなくなるさみしさ…
誰かが 離れていってしまう怖さ…
母親の 愛情を得られなかった さみしさ
何も得られなくなるような、
不安
怖さ
そういう
"恐ろしい" 感覚は
そこにエネルギーを注げば、
リアルが 増していく
気がする
でも、
それが 心地いいかどうか?
と 問われたら
不安 や 怖さ が
心地いい訳はなくて。
本当に 欲しいのは、
安心で。
安心していられるために、
常に、誰かの 肌が
触れていてくれると
やっぱり 安心出来るんだよね、
それは、事実。
けれども、
じゃあ
必ずしも、
肉体が 無くなってしまうと
安心出来なくなってしまうのか?
と 言うと
「そうばかりでもない…」
って 言える面も あるなぁ〜 って
思ってて。
眼に見えたり、
肉体として触れられたり、
そういう事が無くても
太陽は 必ず登って来てくれるし、
夜の闇もまた必ず訪れてくれるし、
空気は無くなることなくずっとそこにあるし。
そういうのと
同じように、
どんな仕掛けで 動くのか
よくわからないんだけれども
相手の幸せを思いやる"愛"のような
何かが すぐ近くに
漂ってるのを
なんだか 感じられることも
あって。
『無くなって行く怖さ』 を 信じる世界と
理由なんて、仕組みなんて、わからなくても
『 今日も大丈夫なんだ 』 って 信じる世界
どっちが、楽か❓
と聞かれたら、
安心していられる 『大丈夫な世界』が
好き。
身体の緊張を 感じてみるとわかるけど
無くなってく世界は、
ギュッと 小さく小さく縮こまっていく感覚
大丈夫な世界は、
ふ〜〜〜ッと そのチカラ緩めていく感覚
チカラを 抜いていいのって
楽で イイ
ただ…
無くなってしまうのが
さみしいのも、
事実なんだ。
だって、
愛してるものを 失うのは、
それだけ
大切にしているっていう
愛の 大きさや
愛の 深さ
としての スケールのようなものだから。
そこに、
確かに愛が 存在しているのを
感じることが出来る、
それが さみしさなんだよね。
だから、
無くなってしまうことの 悲しさを
見るよりも
愛が そこにあるのだと、
" ある"ことの
豊かさを みるように出来れば
感じ方は、
辛さが 別ものになるよね。
「ない」「ない」と
無いことに嘆く自分を終わりにして、
自分が 既に
たっぷりとある豊かな世界の住人として
生きていたことを 思い出しながら
世界を見つめ直してみる
シッカリと
意識して眼を向け始める
どれだけ
「ある」という 豊かさに
目覚められるかな