「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される」(ヨハネ14章15-21)

 

  みなさんも感じていらっしゃる通り、今日の福音で繰り返されている言葉は「愛」であるが、ギリシャ語ではアガペーという言葉で表現されている。日本語の愛は、友愛、親愛、恋愛など、組み合わせによって様々な意味を持つが、アガペーは、元々は一般的な愛を表現したり、アガパオウという動詞(愛する)と展開もされるのであるが、このアガペーは、イエス・キリストが示した愛、イエス・キリストの存在に示された愛を表す言葉に用いられることでより明確な意味を持つ。ギリシャ語でより一般的な愛を示すフィリアや狩人の愛との異名を持つ獲得する愛を表すエロースは、私たちが日常で体験する愛であり、フィードバック(回帰的味わい)が可能である。しかし、イエス・キリストが示した自らを与え尽くしてしまう愛は、一方方向・一回限りであるがゆえに、本人に回帰的味わい(・・・「やった」「なした」という実感)は不可能なのである。

  では、イエスが掟とされた「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」ということは可能なのか?上記の展開からすると不可能という結論が待っている。しかし、イエス様は、私たちに不可能なことを掟とし、命じられるであろうか?鋭いみなさんは、既にお判りでしょう。私たち、それぞれ単体では不可能。人間の能力では不可能であるが、イエスとつながることによって不可能が可能になるのである。イエス抜きに出来ないこともイエスとの絆の中で可能になる。イエスが語るように、私たちは「みなしご」ではない。

世と表現されているものは、自分を形作り、支えている存在である霊を認めないものとされている。世は、私たちの外側を取り巻く世界というのではなく、霊を認めない存在であるのだから、私たちの内面にも存在する。即ち、自惚れ、主(あるじ)に成り代わろうとする心である。真実を求め、認めるのか、取りあえず代替物でいいのか、自分に心地よい幻想でよいのか?今日の福音は、同じ事柄を言い換えて繰り返しているようで、信仰の根幹と神秘を私たちに提示している。

私たちに求められるのは、自分がどんなに足りなくて惨めに感じても、程度の差はあれ、例外なくすべての人はイエス抜きに掟を守ることはできないのだから、卑下することはなく、逆に、どんなに結果に恵まれても、驕るべきではなく、カトリック教会で伝統的に呼びかけられてきた「謙遜であれ」ということ。そして、大なり小なりのチャレンジを繰り返していくことになるでしょう。主とともに。

大瀬高司神父