90年代はアメリカの黒人にとっては自分達の存在が大きくなっていくことを感じた時期だった。
80年代のPublic Enemyや、Run DMC、LL Cool Jらの活躍によってヒップホップが一気にメジャーなムーブメントとなっていた。

92年にはSpike Leeが監督し、Denzel Washingtonが主役を演じたブラックムービー「Malcom X(https://www.youtube.com/watch?v=sx4sEvhYeVE)」が公開された。
60年代に公民権運動を繰り広げた活動家の息子たちが、90年代にリバイバルブームを作った。

そのマルコムXが入信していたイスラム教系新興宗教がNation Of Islam(以下NOI)だ。
今日はマルコムXと、NOIを語る際に避けては通れないモハメド・アリについて触れてみたい。

ボクシング界のスーパーレジェンド、モハメド・アリは、マルコムXに出会いNOIに入信している。
50年代初頭にはわずか数百人のグループだったNOIが、破竹の勢いで拡大し、60年代初頭には会員数10万人規模の一大勢力になっていた。
入会者の殆どがマルコムXのカリスマ性に魅入られた人々だったという。 

アリの本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア。
1964年にNOI入会に際し、アメリカ人風の名前は白人につけられた奴隷の名前だとして、イスラム教徒風に改名した。
当初はカシアスXであったが、イライジャ・ムハンマドから特別にモハメド・アリという名を授けられた。

NOIでは、アフリカ系アメリカ人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないと考えたため改名を薦められた。
マルコムXの「X」は、未知数を意味する「X」で、これは失われた本来の姓を象徴するものだという。
ルイス・ファラカーンはもともとルイスXであったし、Ice Cubeと親交のあったKhalid Abdul Muhammadの別名はハロルドXだ。5 Percent Nationの創始者クラレンス13XもNOI時代に改名した名前だ。

1964年の公民権法により、公共の場所での隔離政策が終了し、人種、肌の色、宗教、性別、出身国に基づく差別が禁止されたが、それでもなおホテルなどの民間の場では隔離が続いていた時代で、まだまだ差別が根強く残っていた。

カシアス・クレイの変貌は白人層や体制側からは激しく嫌われた。
当時のWBAは、アリの王座を剥奪してアーニー・テレルをチャンピオンに据えたほどだった。
これに対して、アメリカ主導のWBAに反発していたWBCは引き続きアリをチャンピオンと認め、のちにアリはテレルに勝って王座を統一する。1967年のことだった。

しかし、その数ヶ月後に、アリはNOIへの忠誠心からベトナム戦争に反対し、兵役を拒否したことで5年の懲役を言い渡され投獄された。
WBAとWBC双方から再度王座を剥奪されたばかりか、選手資格も剥奪される。
アリの闘いの場はリングではなく、法廷となった。

「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」とはアリの発言だ。
アリがリングに戻ってくるのは王座剥奪後の約3年7カ月後、1974年のことだったが、ブランクをものともせず奇跡の王座奪還を果たした。

米国の自由とは、偉大な黒人の先人たちに切り開かれたことを強く思い知らされる。

私が心から恐れるのは神の法だけだ。
人が作った法はどうでもいいと言うつもりはないが、私は神の法に従う。
何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由は私にはない。
        - モハメド・アリ -



https://www.washingtonpost.com/sports/muhammad-ali-boxing-champion-and-global-good-will-ambassador-dies-at-74/2016/06/04/cc3dc3bc-29c3-11e6-ae4a-3cdd5fe74204_story.html

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アリのNOIとの関わりは1962年まで遡る。

1960年にローマ五輪で金メダルを獲得したアリはその後も破竹の勢いで連勝を重ね、62年には全米の王座を賭けるタイトルマッチに挑んだ。

その年の6月、NOIの講演に参加したアリはマルコムを紹介されたが、当時のマルコムはカシアス・クレイが有名なボクサーだと知らなかった。

アリにとってのマルコムの第一印象は、「なぜ黒人が政府や白人についてあんな風に話し、また大胆に行動しても撃たれたりしないのか」「マルコムは恐れを知らなかった。それこそが私を心底魅了した」というものだった。
そしてマルコムを「最も偉大で、最も美しい戦闘機」と評した。

マルコムXはアリのメンターになった。

アリのビッグマウスはマルコムの影響でもあった。
1963年3月には、「私は『目には目の効果』を信じている。私は自分から頬を差し出す人間ではない」「NAACP(全米黒人地位向上協会)は、『右の頬を打たれたら左を差し出せ』と言うが、NAACPは無知だ」と試合後のインタビューに答えている。
NOI、特にマルコムは「目には目を」の方針をよく口にしていた。

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1963年11月22日、ケネディ大統領が暗殺された。
マルコムXは暗殺についてコメントを出したが、それが全米で大炎上し、NOIの指導者イライジャ・ムハンマドは彼の牧師としての職務を無期限停止とし、90日間公の場で話すことを禁じた。

マルコムはケネディの死を、世界中で暴力の種をまいたことによる因果応報だという向きで表現したが、それをマスコミが「マルコムXはケネディが暗殺されて喜んだ」と誇張し、批判が全米に広がった結果イライジャが判断をくだした格好だ。

しかしマルコムとイライジャの間の問題はそれだけではなかった。

当時、FBIは公民権活動家たちを監視し盗聴していたが、最も有名だったキング牧師ではなく、イライジャとマルコムをより多く盗聴していたという。盗聴の結果FBIは、イライジャが10代の少女たちとの婚外子を隠していたことも知っていた。

NOIの動きを熟知していたFBIはNOI内にスパイを送り込み、イライジャとマルコムを分断する作戦も実行していた。
NOIの幹部十数人のうち複数人がFBIの間者であったという。(FBIの公式記録より - Netflix「Who Killed Malcolm X」参照)
黒人大衆から絶大な人気を誇るマルコムに対してイライジャの影が薄くなっていたが、FBIはそこに生まれた嫉妬心に、更に猜疑心という火をつけた。

しかしモハメッド・アリは、全米の批判の的となったマルコムとも依然として親友関係にあった。
そんな中で迎えたのが1964年2月25日のチャンピオンマッチであった。

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https://readersupportednews.org/video/4-video/65977-sunday-song-sam-cooke-a-change-is-gonna-come

アリとサム・クック


https://www.catawiki.com/nl/l/14040937-associated-press-muhammad-ali-world-title-1964-unknown-muhammad-ali-versus-jerry-quarry-1972
アリとジム・ブラウン(1964年2月25日)


2020年に公開された「One Night In Miami(あの夜、マイアミで)」という映画がある。
1964年2月25日のチャンピオンマッチの後に、モハメド・アリ、マルコムX、歌手のサム・クック、アメフト選手のジム・ブラウンという各界の黒人スーパースターがモーテルの一室でささやかな祝賀パーティーを行ったという実話をもとにした映画だ。

ハンプトン・ハウス・モーテルに4人が集まったのは事実だが、どんな会話があったのかは誰にもわからないため映画の内容はフィクションではあるが、その夜重要な話があったことは確実で、彼らのファンのあいだでは長年の大きな話題となっていた。


https://www.biography.com/news/one-night-in-miami-true-story
郊外にたたずむハンプトンハウス・モーテル - 当時黒人はマイアミ市街に宿泊することはできなかった

ソニー・リストンとのチャンピオンマッチは、49人のスポーツライターのうち46人がリストンが勝つと予想するほどだった。NOIのイライジャ・ムハンマドでさえ、アリが負けた場合にアリから距離を置くようにNOI信徒に指示していたというが、マルコムだけはアリの勝利を信じて疑わなかった。

奇跡の勝利の直後である。アメリカの黒人の平等のために先頭に立って闘う4人が、人種的不公正や宗教、そして彼らの責任について情熱的に語る夜であったことは間違いない。

2月25日から遡ること約2週間、1964年2月7日のテレビ番組『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』にてサム・クックはプロテストソングの名曲「A Change Is Gonna Come」を初披露している。(映画内ではマイアミの夜の後に披露した設定)

▼ Sam Cooke - A Change Is Gonna Come (Official Lyric Video)

楽曲「A Change Is Gonna Come」はボブ・ディランの「風に吹かれて」(https://www.youtube.com/watch?v=uGacX029CEQ)の影響も受けている。クックは、アメリカの人種差別を歌う楽曲が、黒人でなかった者によって発表されたことに感激すると同時に、自分自身がそのような曲を未だ書いていないことに悔しさを覚えていた。
それまでプロテストソングを書かなかったのは、ラブソングを中心にリリースを重ね評価されていた自分の、そして白人ファンや白人ビジネスパートナーに対してのイメージダウンになるのではと恐れていたからだ。
彼の心配は少なからず現実となった。

複数のテレビやラジオでは2nd Verseの一部がカットされた。
放送からカットされたのは以下の部分だという。

 

・・・・・・
I go to the movie and I go downtown
Somebody keep tellin’ me don’t hang around.
It’s been a long, a long time coming, but I know, oh-oo-oh,
A change gon’ come, oh yes, it will.

映画を見に行ったり、ダウンタウンに行ったりすると
よく言われるんだ この辺をうろつくなよと。
長い、長い時間をかけて歩いてきたけど、私は知っている
もうすぐ変革が訪れることを
・・・・・・


マイアミの夜から約9か月後の1964年12月11日、サム・クックはL.A.のサウスセントラルのモーテルで射殺された。死の真相は今も不明のままだ。
「A Change Is Gonna Come」はクックの死後、1964年12月22日にレコード・リリースされた。


マイアミの夜、一行はハンプトンハウス・モーテルを出て別のレストランでファンと共に喜びを分かち合った。



https://preview.houstonchronicle.com/movies-tv/houston-photographer-s-work-endures-from-life-15909432
マルコムとアリがからかい合ったりおどけたりしていることが表情からわかる。マルコムが笑っている写真は珍しい。

1964年2月26日、マイアミの夜の翌日、カシアス・クレイは「私は自由に好きな人間になることができる」とNation Of Islamへ入会することを記者らの前で公表した。

3月6日、イライジャ・ムハンマドはアリに電話をかけて、マルコムXに近づかないように忠告した。そしてその見返りかはわからないが、アリに特別に「モハメド・アリ」の名前を与えた。
アリは、親友であったマルコムとの関係を断ち切らねばならなかった。実際、その後アリはマルコムを「ただのビジネスマンだ」と批判するようにまでなっていった。

1964年3月8日、マルコムXは「イライジャ・ムハンマドが6人の10代の少女に8人の子供を産ませた」と批判をしたうえで、正式にNation Of Islamを去った

2人が最後に会ったのは1964年の春のガーナだった。マルコムが両手を広げてアリに近づくと、イライジャ・ムハンマドの息子と一緒にいたアリは、「ブラザー・マルコム、あなたは名誉あるイライジャ・ムハンマドを裏切るべきではなかった」とだけ答え、彼に背を向けたという。

1965年のマルコムの死後約40年経って著した自伝「蝶の魂:人生の旅路」でアリは「私はあの時マルコムに背を向けてしまった。私が人生で最も後悔している間違いの1つだ。もしできるならマルコムに謝りたいと思う。彼は多くのことで正しかったし先見の明があった」と後悔の念を語っている

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さて、最後に前回少し触れたNetflixの「Who Killed Malcom X」を最終話まで見たので報告したい。
非常に面白いドキュメンタリーだったので、黒人カルチャーが好きで英語が理解できる人にはぜひお勧めする。

マルコムがNOIを去った後、NOI側はマルコムを執拗に攻撃しだした。
1964年12月NOIの機関新聞「Muhammad Speaks」の記事では「マルコムのような男は死に値する」と評している。
また、同じ時期にはこのような画像を掲載しマルコムへの憎悪を煽っていた。
当時の「Muhammad Speaks」の発行部数は60万部以上だったのでその影響は計り知れない。


https://drumsintheglobalvillage.com/tag/muhammad-speaks/

65年2月21日、暗殺当日の目撃証言からマルコム暗殺実行犯が5人いたことは確実だったが、FBIはなぜか3人だけを逮捕し、その後はまともな捜査さえしなかったことがわかった。
そしてNetflixの当該ドキュメンタリーが発端となり、逮捕・有罪となった3人も、うち2人は冤罪であったことが確定された。

最初に逮捕されたNOI信徒のトーマス・ヘイガン(タルマージX)は現行犯であったので確実に犯行グループの一人だったが、ドキュメンタリーではマルコムに最初にショットガンで致命傷を負わせた真犯人を追ったかたちだ。

しかし、FBIエージェントの証言では、マルコムが暗殺されたオーデュボン・ボールルームには実に9人ものFBIスパイが潜んでいて、マルコムが契約していたセキュリティー班長までもFBIだったというのだから驚く。
ドキュメンタリーでは真犯人もFBIのスパイだったのかもしれないと示唆したが、ニューアークに住む個人であることまで特定したところで、真犯人が奇しくも病死してしまう。

開示請求で明らかにされたFBIのファイルには、現場の目撃証言や現行犯逮捕されたヘイガンの証言などから真犯人をしめす調査が山ほどあったのに、一切捜査された痕跡がなかった。そればかりか、犯行当時にアリバイのあった冤罪被害者2人が容疑をかけられ、逮捕されたのはなぜなのだろうか。

ドキュメンタリーでは、FBIがイライジャとマルコムの分断を図り、イライジャとNOIの信者にマルコムを暗殺させるようけしかけさせたことを示唆していた。

しかも驚くべきことに、犯人らが通っていたモスク25があったニューアークの黒人コミュニティーの住人達は犯人を知っていた。
証言をした住人の中には「FBIに庇護されているから関わるな。放っておけ」と言う者までがいて、なかば公然の秘密だったのだ。 
住人たちによると「真犯人は過去を懺悔しハッジ(メッカ礼拝)をしたので生まれ変わり、過去は許された」とのことだった。

なんとも言えない結末であるが、真相はほぼ、ニューヨークの黒人コミュニティーの間でまことしやかに囁かれていた噂の通りだった。

FBIの陰謀も確かに存在した。
しかしまだ明らかにされていない陰謀の内幕もある。


次回はルイス・ファラカーンかラキムについて触れてみたい。