「過猶不及」のおはなし


古代中国の儒教の祖と言われる「孔子さん」にまつわるお話から生まれたとされる「過猶不及:過ぎたるは猶及ばざるが如し」の諺は、「論語・先進」のなかに綴られています。

論語・先進の「過猶不及」のおはなし

孔子の弟子の中に子貢という人がいました。
子貢はとても優れた人だと言われていましたが、他人の人物評が好きな性格でもありました。

ある時、子貢は同じ孔子の弟子である二人の名前を挙げて「どちらの方が賢明と言えますか?」と孔子に尋ねました。
孔子は「片方は何をするにしても度が過ぎていると言えるし、もう片方は不足している」と答えました。

すると子貢は「では、度が過ぎるほど出来ている方が賢明といえますね」と尋ね返しました。この子貢の言葉に対する孔子の答えが「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だったそうです。


「ものごとをやり過ぎる」ことは「足りていない」ことと同じだとの孔子さんの答えは、「何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることはやり足りないことと同じように良いこととは言えない」との意味となり、ギリシア哲学のなかでアリストテレスさんが唱えられた倫理学の徳の一つである「中庸論」と同じことといえるのかと思います。

そして、このお話しのなかでは、頭の回転が良くて何事にも才気を振りまいていた、他人の人物評が好きな性格の子貢に対して「おまえも同じく少し慎みなさい」という孔子さんの思いも込められていたそうです。

Today's Ponyo Ways.



責められるべきは、酒を飲むことではなく、

度を過ごすことである。




It's not the drinking to be blamed, but the excess.

by John Selden



極と極を見つめる


この言葉をいま綴るといみじくも芸能人のスキャンダルに向けての言葉に見えてもしまいそうですが、「過猶不及」を思う時、学問としての学びではなく人としての学びを思う時、物事の一対の極を想像し得ることが大切なことであり、この一対の極と極を想像することが出来なければ、中庸のバランスを取ることは難しいのかと思い至ります。

これこそが人生における経験から悟ることが出来る学びというものなのかとも思うのですが、子貢にとっての孔子の存在は気付きを得るための貴重なものだったろうと思いますが(それを活かすか否かは本人次第)、対人関係が希薄になっている日本の状況のなかでは同じような存在を得ることも難しいのかも知れません。

こんなことを想うと「mentor:メンター(助言者)」の存在がもっとクローズアップされてもよさそうなのですが、年功序列・終身雇用・師弟関係 etc. などが過去の機軸で変化をしつつあっても過渡期である状況を踏まえると、旧態依然のイズムが一掃され新しい世代により形付けられる価値観が大きく変わるだろう数年後(2025年問題以降)には加速するのではないかと感じています。


中庸をみつめるための極と極の全体を知ること


彼の国のリーダーがトップ会談を行う際に本人への諌めとして「 過猶不及 」 の教えを引用をしたかどうかも分かりませんが、じじーになり、人生の片側の極を意識することも少なくない今日この頃、ボクにとってはメンターの存在の必要性は低いのかと思いつつ、完全リタイア後はゆっくりと日本・世界の歴史を振り返り、偉人たちの生き様のなかから自分の人生の全体像を学ば差せて頂くことを楽しみに、古本屋へと向かおうと思うのでした。










笑顔の行方を見つめて

all written by  Career wing  T.Yoshida@ponyo




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