201095 ()


10カ月の「船乗り」、その後の人生に影響大

21年前の本日、浅間君がヘリ操縦中に事故死
「彼の分も生きる」、世のため最後の始まりへ



カツ船長のブログ


P-057 (在りし日の浅間譲治君〈左〉と筆者。熊本城にて撮影)






8ヵ月と言う長い期間のブログ配信となりました。38日間という最初の短い航海でありましたが、「愛光丸」は無事、愛知県衣浦港に帰港しました。この間、多くの方々に読んで頂き本当に有難うございました。




その後、私は大学在学中に休みを利用して幾度か同様の形で船員として船に乗り込みました。従って在学中は、殆ど勉強しなかったようです…反省。


◎昭和46(1971)16日~120日 「日和丸」15日間乗船      航路:苫小牧(乗船)-川崎-室蘭-川崎(下船)


◎昭和46(1971 )730日~814日 「豊隆丸」16日間乗船

航路:宇品(乗船)-サン・フエルナンド(フィリピン) -川崎(下船)




◎昭和46(1971 )128日~47(1972)120日 「協天丸」44日間乗船

航路:宇野(乗船)-アバデーン(アメリカ)-塩釜(下船)



航路:高松(乗船)-ポートランド/メルボルン(オーストラリア)~大坂 ()



そして最後の大航海は社会へ出て1年後、世界一周と大西洋一往復でした。

◎昭和49(1974)210日~49(1974)711日  「第二・三井丸」152日間乗船

  航路:名古屋(乗船)-ウェーパー(オーストラリア)-ポート・ベスメ(イタリア・サルジニア島)-ラス・パルマス(カナリア諸島)-補油-ジエノバ(イタリア)-ニューポート・ニュース/ノーフォーク(アメリカ)-クリストバル/バルボア(パナマ)パナマ運河通過-補油-加古川(下船)


合計で約10カ月の我が「船乗り」人生でありますが、バナナを腹いっぱい食べたくて真白いサンゴ礁やコバルトブルーの海、南十字星が見たくて、そして世界中の様々な国の人々や自然に逢いたくて航海を重ねました。


この経験は、その後の私の人生に大きく影響したように思います。おかげさまで精神的には常に前向きの人生を送ってこれました。


しかし、我が人生においてとても悔しくて、残念な思い出が一つだけあります。この航海記にも何度か登場していますが、小学校からの幼なじみの浅間譲治君がそれから20年後、39歳の若さで妻と幼い女の子2人を残し、ヘリコプターを操縦中に事故で亡くなってしまいました。今から21年前の今日、95日でした。合掌。

スポーツに学業にそして仕事に、私より全ての点で上を行くいい男でした。日本のためになれる男でした。その時私は、彼の分も生きて、彼のように少しでも世の中のためになれる男になりたいと思いました。



お蔭様であっちこっちにつまずき、ぶち当たりながらも皆様に支えられ何とか生きて今年60歳を迎える事が出来ました。少しほっとしていますが、本当はこれからが一番大切な時と思います。これからが最後の始まりです。どうぞ皆様、これからもよろしくお願い致します。皆様のご多幸を祈念してカツ船長19歳航海記―A Maiden Voyage―の航海記を終えます。


最後に、当ブログの配信に当たり、多大なご協力を頂きましたNPO法人 セフティマネジメント協会の大越恭治氏に心から感謝申し上げます、ありがとうございました。


                        ―カツ船長こと出﨑














◎昭和47(1972)1130日~48(1973)16日 「第一日本ハム丸」39 間乗船

1970年41()


餞別に五千円貰う。旅情緒ない新幹線で東京へ

日にちが替わり漸く家に。静寂、暫く眠られず



素晴らしき海の男達との再会、心から祈る




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P-055(長い航海から戻り、自宅でギターを弾いてくつろぐ「カツ船長」。髪がだいぶ伸びている)




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P-056(日焼け顔の筆者。自宅の周囲には、現在とは違い田畑が広がる、40年前の東京の光景)




時の経つことの何と早いことよ。帰宅してはや、まる2日が過ぎ去ってしまった。検疫が済んだのは、30()10時過ぎだったと思う。これでもう、いつでも帰れるはずだったが、どっこい、会社の人が給料を持ってこない。全く乗組員を無視した話で、来たのが夕方の18時頃。すっかり苛立って調子抜けしてしまい、名古屋の街を見物するどころの話ではなかった。





19時に懐かしき我が「愛光丸」を辞し、名古屋へ向かった。エンジンの和田さんが、新川駅まで送ってくれた。名古屋2050分発の「ひかり」に乗ったが、この新幹線というもの、全く旅の情緒というものが無い。何だかんだで東京の家に辿り着いたのが日にちが替わった31日の0時半頃であった。





それにしても何と荷物の重かったこと、今でも上半身が痛い。そんな訳で、残念ながらムアラジャワの探検で得た椰子と、船でチェンジした椰子の木は持ってこれなかった。家に帰った晩は、今まで船のエンジン音の煩いなかで眠っていたのが、静まりかえった我が家の揺れることのない布団に入ったものの、耳鳴りがするようでしばらく眠れなかった。





何はともあれ、我は長い航海を無事に終えて今帰ってきた。別れ際にシチョウジさん、おやじ、サロンが餞別として5千円くれた。僅か一航海の短い付き合い、しかも全くの素人だった小生をこんなにまで面倒見てくれた「愛光丸」の乗組員。特に賄いの人たちには感謝に耐えない。





この素晴らしき海の男たちと再会できることを心から祈り、ここに「愛光丸」にての処女航海の記録を終わる。(pm11:56


















1970年329()


夜、全員で「お別れ会」。給料いくら貰える




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P-054(お別れ会でも主役は「お酒」。皆それぞれの家に帰るんだよね…)




とうとう帰ってきた。俺にしてみれば、やはり長い長い航海であった。それにしても、日本はさすがに寒い。明日、下船することにした。



しかし、問題はお金である。旅費はいいとしても一体、いくら貰えるのか見当もつかない。パセンジャーに二㌦(米ドル)借りているのを早いとこ返さなくてはならない。荷物はどうやって運んだらいいものやら。




夜に全員でお別れ会をやった。我ら賄が腕によりををかけて作った料理ではあったが、会のほうはちょっと期待外れで、あまり盛り上がらなかった。



明朝だけ仕事をしなくてはならない。立つ鳥あとを濁さずとも言うしね。それにしてもさぞ、後始末が大変だ。今日のように寝坊したら、皆のメシの時間に間に合わない、早く起きなくては。(am1:00)































ついに日本へ帰港。長い長い航海であった