R. シュトラウス Allerseelen (万霊節) 違和感の正体 | 江古田・桜台の音楽教室! 歌いながら楽しくドレミをマスター♪声楽、ビジネス、普段の話し声にも。声に魅力をつけるボイスレッスン♪

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こんにちは!カンテウムです。

 

留学中につきレッスン等は休止中なのですが、ドイツでの学びを少しづつでもブログの形にすることができればと…。新たな試みです。

 

 

今回はR. シュトラウス作曲の歌曲”Allerseelen(万霊節)”について。

 

 

ドイツリートの中でもとりわけロマンティックな旋律で名高く、切なさを感じずにはいられない名曲です。もしまだお知りでない方がいましたらぜひ聴いていただきたいのですが、今回はその歌詞についてです。

 

 ①原詩と対訳

 ②詩の考察(一般的な捉え方)

 ③詩の考察(見方の提案)

 

…と進みますので 、曲をある程度知ってらっしゃる方は ①、②を場合によっては飛ばしていただいても良いかと思います。

 

 

①原詩と対訳

 

Allerseelen (万霊節)

ギルム (Hermann von Gilm 1812-1864) 詩

 

 

Stell' auf den Tisch die duftenden Reseden,

香り立つモクセイを机にたててくれ、
Die letzten roten Astern trag herbei,

最後の赤いアスターを側にしつらえて、

Und laß uns wieder von der Liebe reden,

さあまた愛を語り合おう、
Wie einst im Mai.

かつての五月のように

Gib mir die Hand,daß ich sie heimlich drücke

手を差し出しておくれ、そっとにぎるから

Und wenn man's sieht,mir ist es einerlei,

誰かが見ていようと、私は構わない
Gib mir nur einen deiner süßen Blicke,

ただ一つ君の甘い眼差しを向けてくれ、
Wie einst im Mai.

かつて五月のように

Es blüht und funkelt heut auf jedem Grabe,

今日はどの墓の上も花が咲き出で香っている
Ein Tag im Jahr ist den Toten frei;

一年で一日はそう、死者たちは自由だ
Komm an mein Herz,daß ich dich wieder habe,

私の胸に来てくれ、君を再び抱くために、
Wie einst im Mai.

かつての五月のように

 

 

 

 

 

 

 

②詩の考察(一般的な捉え方)

 

本当にセンチメンタルな感情が見事に表されています。…とこれだけで終わってしまっては考察でもなんでもないので掘り下げて行きたいと思います。

 

 

詩に品格を与えているのは何と言っても全ての連の最終行に置かれている「かつての五月のように」というリフレインです。このリフレインによって語られる言葉が ”もう過ぎ去ってしまったこと” であることが大きなポイントで、行が進み、このフレーズが繰り返されるごとに過去を偲ぶ気持ちが重みを増してくるという構造になっています。

 

 

*    *    *

 

万霊節の日(11月2日)、かつての恋人を偲びながら男性がテーブルに花を飾る。そしてその香りの中で暫し目を閉じ、かつての恋人の手の温もり、眼差しを夢想し、再び恋人を心の中に満たし、抱く。

*    *    *

 

 

…このような情景が思い起こされるのではないでしょうか。また多くの詩の解説にもこのような大意として載っているようです。

 

 

しかしながら。

 

 

この捉え方には釈然としない点がいくつかあります。

 

 

 

 

③詩の考察(見方の提案)

 

まず詩の1番最初の言葉 ”Stell'” ですがこれは命令形、「立ててくれ」という意味です。自分で家の机に花を飾る際に、自分に向かって命令しているという違和感があるのです。

 

 

また第3連の「今日はどの墓の上も花が咲き出で香っている」という一行。こちらは一見なんの違和感もありませんが、よく考えてみる必要があります。なぜならこれ以外の全ての行には何かしらの強い思いが見えるのですが、それらと比べた時にこの行だけがあまりにも説明調になっているように感じられないでしょうか? 花が沢山あれば確かに綺麗ですが、この一行に語られている事実はあまりにも当たり前です。詩のクライマックスは明らかに第3連にあるのでこの行における感情のブレーキは本来考えられないのです。

 

 

 

ではなぜこのようなことになっているのか

 

 

 

詩を何度か読み返していくうちにふと気づかれた方もいるのではないかと思うのですが、そう、詩の語り手が逆なのです。

 

 

 

語り、呼びかけている側がすでに死んでいるのです。そう見ることで詩の中に一貫した筋道が立つのです。

 

 

 

*    *    *

今日は一年で唯一の、生者の世界へと戻ることが許された日。語り手である霊は離ればなれになった彼女の元に赴きます。

 

かつてのように愛を語り合いたい、その気持ちから彼は彼女に言うのです「あの時のように、モクセイの花を立ててくれ」と。だからこの詩は命令形で始まるのです。

 

第2連はより直接的で、またアイロニーが感じられます。「手を差し出しておくれ、そっとにぎるから」 これは夢想しているのではなく本当にできるのです。何せ霊なのですから。誰が見ていたって構いません。見えないのですから。

 

そして第3節「今日はどの墓の上も花が咲き出で香っている」 これは単なる事実の説明のようですが、語り手が違えば意味合いが全く変わってきます。

 

この花はたった年に1度、自分がかつていた世界へと戻れる日の象徴なのです。もっと言えばこの時期のドイツはすでに非常に寒くなっています。墓に花は咲きません。少なくとも自然には。

 

誰かが花を供えてくれているから「墓の上に花が咲き出でて」いるのです。多くの人たちが死者に思いを馳せてくれている。自分が葬られた墓に、恋人がまだ自分を慕って花を手向けてくれている…。この光景は息も詰まる程の喜びを伴うのではないでしょうか。

 

その万感の思いを込めて彼はかつての恋人を抱擁しようとします。触れることはもはや叶わないのですが…

 

この最後の痛みは直接言葉にされていませんが、この詩の読後感に見事に滲み出てきます。「かつての五月のように」 このリフレインによるものでしょう。

*    *    *

 

 

 

 

 

ぜひもう一度詩を読み返してみてください。詩全体が新たなエネルギーに満ちて迫って来るのを感じられるのではないでしょうか。

 

詩人のギルムはこの様な「発想の転換」を織り込んだ詩を比較的多く書いたようです。上記の解釈も、彼の詩を並べて読むと割合自然に浮かんでくるのかもしれません。

 

 

この理解の転換に出会ってから、この歌を歌う際、聴く際に思うことが随分と変わったように思います。ロマンティックでセンチメンタルと言うよりは怨念にも似た強力な思いの詩と言えるでしょう。そしてこのような解釈であっても十分演奏に耐えられる作曲が若干18才の作曲家によってなされているという事実…

 

 

ちょっと説明が込み入りましたが…以上がドイツリートの名曲”Allerseelen” によせた私なりの解釈の提案です。歌う上で、聴く上で、ちょっした視点の変化をするきっかけになれば幸いです。