《若き日の記録・3》 

                           

(前略)「われわれ教師が本気で『いじめ』をなくそうと考えるのならば、一人一人が人間らしい、人間として恥じない人間になることを目指すことが、最重要な課題」ではないかと思います。

 

 そして、最後に「道徳的無関心がはびこっている」と書きました。実は昨年の道徳主任者会で、「道徳主任者会」でのことです。

 

 僻地の学校の道徳主任の先生から、こんな願いがだされました。

 「僻地では、教員数の関係から、一人が三つも四つも教科主任を兼任しています。そしてどの教科でも3学期にはレポートの提出があります。負担があまりにも大きいのでなんとかならないでしょうか」と。

 

 この人の言っていることは、「負担が大きいから助けてほしい」と、助けを求めているわけです。「どうやって取り組んだらいいですか」と、方法論を求めているわけではないのです。それは「負担が大きい」という言葉から分かります。

 

 私はこの道徳主任者会で助けを求めたことに対して、市の道徳の中心者であり教育に関する重役を背負った方々がどういう道徳的判断をするのかと、見守っておりました。

 

 答えは。

 「レポートがあることは、早くから(1学期のことでしたので)分かっているのだから、一つ一つ早めに仕上げていけば決して無理のないことだと思います」でした。

 

 これは方法論であり、その人の苦しみを取りのぞくための何の援助にもなっていないことは明らかです。これが教育の現状なのです。

 苦しんでいる人の心が分からない教員。

 自分の立場からだけしかものを言わない教員。

 そして目の前で苦しんでいる人を助けようとしない道徳。

 

 いったいこれはどういうことでしょうか。

 ときにはそういう人もいるからシカタガナイとでも言うのでしょうか。

 私はそうではないと思います。ときにはそういう人もいるのではなく、そういう人があまりにも多すぎるのです。

 

 私の隣に座っていた僻地の先生は、その時私にこういいました。

 「意見を言ったって通らないし、言えば言っただけきちんとやらなくてはいけなくなってしまう。今でさえこんなに大変なのに、もっと苦しくなることを考えれば、とても意見が言えない。まあ、適当にやっておくしかないじゃないか」と。

 

 私はこれが現実だなと思いました。

 そして、こういったことは、だれか特定の人が直すべきことではなく、多かれ少なかれ自分もその中にどっぷりと浸かっていて、うっかりしていると気が付かずにいってしまうことだと思うのです。

 

 私は、訴えたいと思います。

 「見えざる自分自身に早く気づこうでは ありませんか」と。

 

「授業がおもしろくない」と素直に言える教師。

「人のために尽くそう」と行動する教師。

「子どもの前で涙を流せる」教師。

「自分にできていないことが多く、何か異様な感じがする」と自分自身に自覚する教師。

 

 それぞれ私もそうなりたいなあと常に思い描いてきた教師像であり、自分には、まだまだできていないところでもあります。それを、自分のすぐ身近なところで実践している教師がいるということは、自分だってやろうと思えばできるはずだという勇気を与えてくれます。

 

 私も、そういった先生から多くを学びたいと思いますし、この学校の教師は、物凄い人が揃っているんだということを実感します。

 だから私は思います。「私たちの取り組みは決して間違っていない。」と。

                            (1997年1月)