子どものための教育学
第3章 不登校編
5 おわりに ~不登校は変化する人間の姿~
もしも、1万年前の縄文時代に生まれていたら、不登校で悩むことはなかったでしょう。
アフリカのブンジュ村に生まれていたら、不登校で悩むことはなかったでしょう。
現在の日本を見たとき、「自分のことは自分で」「迷惑をかけない」が強く意識される社会であり、電車時間や締切でガチガチです。
お金のために長時間働き、「生きるための仕事」と「楽しみ」がはっきり分かれていて、仕事や仕事につながる勉強は嫌悪するもの、忌み嫌うべきものというイメージができあがっているのではないでしょうか。
働かず楽をしたい社会です。
しかし、その反面、電気や水道、交通機関、医療などは満たされていて、便利さで考えれば、日本の歴史上最も快適な世界が作り出されているといえます。
大量のモノや娯楽は充実し、とどまることを知りません。それに伴って、モノに対する個人の欲求もとどまることを知りません。
日本の現代社会では「個人の成功」「効率」「成果」が重視されるために、常に将来の不安に怯え備えなくてはいけません。その結果、「今日を喜ぶ」「今を喜ぶ」ということがどうしても軽視されてしまいます。
その結果、幸福を感じることに鈍感になっているといえないでしょうか。
これがこれまで作り上げられてきた現在の日本社会です。
だから良い、だから悪いではありません。
この現実の中で生まれてきたことが不登校なのだということです。過激ないじめ問題も同じでしょう。
ネットでのいじめ。見つからなければ、人を攻撃することもできてしまう人間性。法律に触れなければ、何をやってもいいんだという倫理観の欠如。コロナ渦の時の自粛警察も自分という正義に反するものを悪と認定すれば、正義の名の下に、よってたかって袋だたきにしました。
すべては、「自分さえ良ければ良い」「自分の思い通りにしたい」という心の働きから生まれてくるのではないでしょうか。
そんな時代の流れの中で、教育も時代に合わせて進められてきました。
つまり「自分の思い通りにしたい」という大人(教師)によって子どもたちは教育を受けますので、当然「自分さえ良ければ良い」という人間が育ちます。その人間が社会を作っていくために、社会全体として、「自分さえ良ければ良い。自分が成功すれば良い。自分が儲かれば良い。」という社会になっていったとしても不思議ではありません。
そうした社会という畑で育つ子ども(作物)に不登校という育ちの子ども(作物)が育ってしまったのではないでしょうか。
したがって、不登校は病的なものというより、現代社会に育てられ、変化した人の姿といえるのではないでしょうか。
しかし、この変化は、必ずしも良い変化とはいえません。少なくとも現在の日本という社会で生きていくためには、なんとかこの変化を止めたいものです。
この「子どものための教育学」では、その変化を止めるための一つの提案として「不登校編」を作りました。
「でもこの内容は大人が読む内容じゃないの?」と思われるかも知れません。しかし、すべての子どもは、みんな大人になります。そして小学校高学年となれば、大人並みに理解できる子どももいます。
あえて子どもにも読んでほしいと思いました。
それでは、多くの問題を抱える現代社会にあって、何ができるのか。
はっきり言って無理です。長年かかってできあがった社会を変えて何とかしようとすることなど。
しかし、学校という場では、できることがあります。
まず教師が、「自分の思い通りにしよう」という生き方を変えることです。
子どものためにといいながら、実は自分の思い通りにしようとしている自分に気づくことです。
将来困らないようにするためと唱えながら、子どもたちに「やらせようとする」姿勢を変えることです。
正しい教育に出会ったときに、それを認めてしまうと、これまでの自分が否定されることになってしまうため、過去の自分にとらわれ、自分を変えようとせず、あくまでも「自分の思い通りにしよう」としてしまう、その姿勢を変えることです。
その上で目指すことは、「学校の子どもたちは、家族のように助け合うのが当たり前とし、『困っている人がいたらみんなで支える』という価値観の学校社会作りです。
世の中全体を変えることは、無理でも、学校という社会であれば、可能です。
そして、『人とのつながり』や『一緒に笑う時間』を大事にすることです。『自然のリズム』や『人との約束』を中心に一日が流れていく社会をつくることです。きまりやルールではないのです。先生と子ども、先生同士、子ども同士の心と心での約束です。
そして、時間に対する意識変革です。
とにかく、時間のある限り、ひたすら勉強させる教育のあり方から、ある程度勉強をしつつ、楽しんでいく。勉強ってこんなに楽しいものなんだと思える時間を創出することです。
言わば、勉強しているのに遊んでいるかのような時間作りです。
自然と近い暮らし方で、食べ物や水、教室、遊具をみんなで分け合い、生活そのものが「共同作業」に近い学校作りです。
アドラーは「人間は仲間である」という、「共同体感覚」という思想に到達しました。
現在の教育では、競わせることばかりに重きが置かれています。学校という現場では、子ども同士の良き人間関係作りを築こうと異学年交流などを取り入れた教育が進められていますが、それさえも、他の学校に比べ優れた学校という評価を得ようという意識が働いているのではないかと思われます。
学校を運営する管理職は、どうしても社会的評価を意識せざるを得ないのです。
これは、役職を持つ者がどのように決まっていくのかという制度的な問題があります。
これもまた、競争によって決まっていくのです。従って、教育に対して深い学びがなくとも、上司に認められ、試験に合格することによって役職を得ることになります。
ペスタロッチが、著書「隠者の夕暮」の冒頭で
「一 玉座のうえにあつても木の葉の屋根の蔭に住まつても同じ人間、その本質から見た人間、そも彼は何であるか。何故に賢者は人類の何ものなるかを吾等に語らぬのか、何故に氣高い人たちは人類の何ものなるかを知らぬのか。農夫でさへ彼の牡牛を使役するからにはそれを知ってゐるではないか。牧者も彼の羊の性質を探求するではないか。」
と語り、教師はもっと人間について探求するべきだと訴えています。
ところが、現在の学校を経営する校長、教頭のほとんどは、人間について探求することなく、自校の方向を決定していきます。その根拠は、法律であり、教育委員会であります。
教育現場での最高位の役職を得ることで、人生の目的は達成され、教育に対する学びを放棄し、様々に沸き起こる教育問題に振り回されつつも、「自分の思い通りにしよう」という学校運営がどこの学校でも行われているのではないでしょうか。
原因は、教育技術ばかりに目がいき、教育の本質を学ぶことがおろそかになっていることが考えられます。これは現在の日本の教育のあり方に大きな課題があるといえるでしょう。
教師が学ぶ時間がないのです。
日々の授業に追われ、児童生徒の下校後も雑多な書類作成や授業準備があります。その延長線上に、教頭試験、校長試験が待っています。
ペスタロッチの言うところの「教師はもっと人間について探求するべき」時間がどこにあるのでしょうか。
こうした現状の課題を見たとき、これまでの学力を高めるための学校のありかたを、人間を育てるための学校のあり方へと変換していくことが大切なのです。
すべての子どもたちにとって不登校が不必要なものとなる時代が来ることを祈らずにはいられません。