海が遠くなって埋もれた?歴史遺産…五井・八幡~浜野で気になる5箇所お散歩してみた♪ | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

海が遠くなって埋もれた?歴史遺産…五井・八幡~浜野で気になる5箇所お散歩してみた♪

 

普段は通勤通学の列車に乗り降りする人…ばかりでなく、駅前商業施設へ買い物に来る人たちで賑わう、街の中心駅前ですが、実は江戸時代の遺構が埋もれている所もあります。

 

冒頭写真は千葉県市原市の五井駅西口(JR内房線)ですが、ここは1781(天明元)年に伊勢西条藩の藩主・有馬氏恕(譜代大名)が本拠を五井に移し、五井藩(1万石)とした際に築いた五井陣屋が存在した場所で、5代約60年間存続したのだそうです…その後、天保13(1842)年に下野吹上(現在の栃木県栃木市吹上町)に移封し終焉。

 

実は3.7km千葉駅方面の隣駅である八幡宿駅前も、陣屋の跡・・・上総苅谷藩主であった譜代大名の堀直良は、寛文8(1668)年12月に、現在の千葉県いすみ市苅谷地区から陣屋を移し、上総八幡藩が立藩しましたが、僅か30年後に越後椎谷藩(現在の新潟県柏崎市椎谷地区)に移され、八幡藩は廃藩となりました。

駅が江戸時代の陣屋跡、城跡の事例は、有名なところでは新潟県長岡市の長岡城址(JR長岡駅)とか、地味な例では仙台藩の重臣が治めた岩沼陣屋(宮城県岩沼市/JR岩沼駅)など、他にも探せばまだまだ結構出てきそうな感じですね。

 

今回は、千葉市の南側にあたる京葉臨海工業地域(五井・八幡~浜野)に沿ってお散歩し、埋もれた地域の歴史遺産を探ってみたいと思います。

 

旧久留里街道(中往還)起点石碑

 

周辺が区画整理されてしまって、今では住宅街にある単なる裏路地にしか思えないような風景になってしまいましたが、千葉市「蘇我陸橋」南側から国道16号の旧道を“道なり”に辿っていくと、この場所に行き着きます。

 

なので、この地点が「木更津を経て安房方面に向かう房州往還」が通っていた道の延長線上で間違いない訳であります・・・石碑には文化4年(1807)の文字が刻まれています。

正確に言うと、50mほど千葉寄りの交差点が旧16号(房州往還)・・・写真撮影地点(石碑位置)は、地図中「X」地点です。

※1/50000地形図「千葉」…明治36年と平成12年の比較

 

五井から久留里へ行く参勤交代に利用された街道は3つ存在したようですが、現在の法令上における道路認定路線として1本で繋がっているのは、西街道の椎津(千葉県市原市姉ヶ崎)を経由する県道24号「千葉鴨川線」(久留里付近は国道410と重複)だけですね。

 

中往還は恐らく、現在の県道141~139~300・・・国道409・410号へと途切れながら続く道なのだと思われます。

 

下宿白山神社

 

五井駅の南側を「下宿」地区というのだそうですが、その守護神社ですね・・・平成11年、区画整理事業に伴い現在地(下宿公民館左側)へ本殿が移築されています。

 

“当神社は文禄三年大宮山龍善院の別当として創立、祭神は菊理姫命と拝し、また雷難除としても深く白山部落住民の鎮守として崇敬を集め、代々社殿修復と祭事を行い、以来四百年を経過し、社会環境の変化により、平成四年下宿町会の守護神社として引継がれました”

(石碑記載の御由緒書きより引用)

 

養老川沿いの住宅街・・・ニャん子が居た。。。

 

区画整理が未施行の地域(五井駅東南部)・・・すぐ手前まで平成通りという4車線道路が迫ってきています(肉屋の裏あたり)。

 

八幡御所跡

 

この地は武蔵四隣を圧した足利義明公が永正14(1517)年10月に、下総生実に自立する以前に 館を構えて八幡御所と称しましたが、後に天文7(1538)年10、市川国府台(千葉県市川市)にて北条勢と合戦し敗北した結果、当御所も廃絶し、その後、地名も現在の「五所(千葉県市原市五所)」と改められたのそうです。

 

ちょうど、ジョイフル本田という大規模なホームセンターの部分なのだそうですが、遺構は何もありません・・・裏手に御所跡の由緒を綴った石碑と小さな祠(白幡神社)があるだけです。

 

 

五所神明宮

 

県道24号「千葉鴨川線」・・・すなわち旧国道16号沿いを走っていたら「あれ?」っと思ったので自転車を停めてみたのですが、何故か旧街道に背を向けて鳥居と祠が建っています

(千葉県市原市五所1638)

 

衛星写真で見ると、普段は門扉で閉鎖されていますが、裏のお宅から庭の飛び石に沿って、人が歩ける分だけの道が続いているように見えます…元々はこの家の屋敷神だったものを、地域に開放しているのでしょうか?(子供向けの遊具もあり、公園のような感じになっていました)。

 

八幡宿で最も著名な神社といえば、国府総社である「飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)」ですが・・・そういえば、この神社も旧街道に背を向いて拝殿が建っています。

 

幕末の頃までは、この辺りに海岸線があったということも関係しているのでしょうか?…要するに「海(京都)へ向けて建ち開く神社」という意味なのでしょうか。。。

 

2019年秋、2度も千葉県を襲った台風により、かつて鬱蒼と生い茂っていた境内林が倒木被害を受けましたが、かつて徳川家康により、所領150石を安堵され、10万石の格式を与えられたという威厳は健在です。

 

 

胴埋塚

 

戦国時代、馬加(現在の千葉市花見川区幕張)城主であった千葉康胤は、千葉氏の宗家争いに一時は勝利を収めるも、康正2(1456)年に東常縁から攻められて敗走し、村田川の畔にて自刃し・・・首は持ち去られ、その胴は雁田川の畔に埋められたと言い伝えられ、その処を胴埋塚と称するようになったのだそうです。

 

現在は共同墓地になっていますが、一般の住宅や小工場に囲まれています・・・自動車修理業が(特に目立つ職種として)散見される感じかな?、、、

 

 

いかがでしたか?

今回は、千葉市の南側にあたる京葉臨海工業地域(五井・八幡~浜野)に沿って自転車に乗りながらお散歩し、埋もれた地域の歴史遺産を探ってきました。

 

現在では海岸線が大きく埋め立てられて、海が見えない遥か先まで工場が建ち並ぶような感じですが、昔は国道16号線の旧道(現県道24号「千葉鴨川線」)の辺りが“波打ち際”みたいな感じだったのですね。

 

最後に見た「浜野船着場(浜野河岸/千葉市中央区浜野町)」には、昔の絵図も掲出されていて、江戸時代における村落都市構造も学べて、良いお勉強を兼ねたお散歩になりました。

 

皆さんも是非とも、これから春に向けて暖かくなったら、外に出かけて歴史散歩してみてはいかがですか?・・・普段は見過ごしていた新たな発見があるかもしれませんよ♪。