仙台の旧・亜炭採掘鉄道跡を散歩(3)・・・八木山南団地終点周辺編/*過去記事更新版

亜炭・・・ ■本ブログ内関連記事参照
旧・亜炭採掘鉄道終点(と思われる)地点付近住宅街の様子・・・↓地図中⑤の位置
(仙台市太白区八木山南1丁目/本ブログ管理者2010.11.4撮影)
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空中写真はグーグルマップより引用・加筆
旧・亜炭採掘鉄道終点と思われる地点(↓地図中⑤)
および
近隣の亜炭鉱(↓地図中⑥)は、ともに、現在では老人ホームになっています。
(その先の森の入口には「クマ出没注意」の看板がありました。。。)
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また、「仙台市史(通史編7、近代2、p.131)」によると、
⑤は「金剛沢坑区」、⑥は「堂ヶ沢坑区」と呼ばれていたそうだ。
とくに⑤の「金剛沢坑区」は、⑦の「宛名倉坑区」とならんで良好な鉱山で、
新旧比較:国土地理院の地形図(1/25000「仙台西南部」)×60%
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昭和5(1930)年の地図を見ていたら、
仙台の西多賀から八木山南まで軽便軌道(特種鉄道)が伸びていて、
現在の八木山南団地(北端部)周辺に何箇所か鉱山記号「あたん」を発見。。。
(もちろん、現在の地図には線路は無い=跡は細い道路として描かれている)。
↑
その後の調べで、トロッコ炭鉱鉄道は・・・・・
地図中⑤をさらに山奥へ数百メートル進んだA地点まで牽かれていたことがわかりました。。。(2013.6.9追記)
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さらに、
F地点から、坑口跡BにかけてY字状に分岐する支線も存在したようだ…
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ゲージ(軌間)の幅は90cm、
そこへ、長さ約1m強・積載量約1㌧・後方にブレーキレバーを装備したトロッコを、作業員が(もちろん後方に乗車して)操作しながら、笹谷街道(現国道286号線旧道)の西多賀地区まで1日平均4往復運行していたのだそうです。。。
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ちなみに、↑グーグルマップ中のA、B、C、D、Eは、それぞれ
A・B・C=坑口跡(Cのみ排水路として現存)
D=製炭所跡(現在は、小さな広場風になっている)
E=通称「おっぱい山(給水塔/亜炭鉱とは無関係だが、探索の目印の為に記載)」
で、
⑤地点は「一般地区」と「鉱山施設」を仕切る境界(入口)部分だったようだ。
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昭和40年の閉山後は地すべり災害等が発生し、
現在では「金剛沢国有林(八木山治山ガーデン“治山の森”)」として、治山ダムやトンネルなどの施設をつくり、森林に戻す工事が施されるとともに、遊歩道も設置され、市民の憩いの森としても機能しています。
その工事の一環として、↑地図中「C」地点の坑口跡だけが、
排水施設(トンネル暗渠工)として再利用され、コンクリート等で補強された姿で現存し、鉱山施設だった当時の面影を現在に伝えています。
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なお、元々この土地は仙台藩における山林資源確保の為の管理地で、明治維新後に国有地になったものを藩政時代の管理者末裔(高山家)が改めて明治31年に国の正式許可を得て営業していた為、採掘終了後は国の管理する土地に再び戻されているようだ。。。
(鉱山トロッコは大正12年に産出量増大に伴い従来の馬車運搬より転換)
(亜炭層自体は幕末の1862年に既に発見されていたそうだ・・・)
↑
20万分の1地勢図「仙台」昭和25年より、、、(地図中「A」が亜炭採掘鉄道)
↓
早速、旧・鉱山鉄道(亜炭採掘鉄道)の跡を軽く散歩してみる・・・・・
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■本ブログ内関連記事/仙台の旧・亜炭採掘鉄道跡を散歩(1)・・・西多賀起点周辺編
■本ブログ内関連記事/仙台の旧・亜炭採掘鉄道跡を散歩(2)・・・金剛沢中間地点編
■本ブログ内関連記事/仙台の旧・亜炭採掘鉄道跡を散歩(3)・・・八木山終点周辺編
「仙台市史(通史編7、近代2、p.131)」によると、
現・仙台市域における採掘現場としては、
本記事において取り上げた青葉山・八木山一帯のほか、
旧・宮城郡広瀬村・大沢村・七北田村・根白石村など多数あり、
業者が採掘と販売にあたっていた。
しかし、炭層が薄ければすぐに掘り尽くし、
他の坑区に仕事を求めて業者も人夫も移動する為、
採掘場所や業者数の特定は非常に難しいのだそうだ。。。。。
(一企業が採掘を行っていたわけではなく、
家族経営的な極めて小規模な炭鉱が多数存在したのだそうだ・・・・・)
↓
そのなかでも、
⑤の「金剛沢坑区」は、⑦の「宛名倉坑区」とならんで良好な鉱山で、
地図中⑦=宛名倉坑区付近の空中写真(グーグルマップより引用)
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かつて鉄道が伸びていた八木山南地区とは渓谷を挟んで対岸に位置する。
(仙台市青葉区荒巻字青葉/通称「青葉台」地区)
2010.11.4午前に本ブログ管理者は、
大本宮城分苑の先(菅原家)の前まで行ったのだが、
地図上では公道が続いているように見える箇所が、
塀と門(+猛犬=番犬)で厳重に囲まれた完全な私有地であったので、
やむなく突入(現確)は断念しました。。。。。orz、、、、、
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また、この付近の下をトンネルで抜ける予定になっている地下鉄東西線工事の影響で、
バス路線と菅原家前に至る道との分岐点において、
警備員が常に張り付いて工事関係者以外とそれ以外の人および車を区別し、
出入り管理されている状態になっています(2010.11.4現在)。
↑
堂ヶ沢抗区(↑地図中⑥)においても、昭和40(1965)年の地形図を見ると、
奥地への展開が見られますが、最新(2009年)のゼンリン住宅地図で見ると、
昭和40年の地図に描かれている堂ヶ沢地区の坑口は、
現在では「東北朝鮮学校」「三盛電設/東海林邸」の敷地の一部になっています。
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また、金剛沢坑区(↑地図中⑤)にあった亜炭採掘鉄道は、もう、この年代には、
無くなっていることに気付きます。
(坑口も、若干、奥の方へ進んでいるようです)
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宛名倉坑区(↑地図中⑦)については、この年代には、既に廃坑になっており、昭和40(1965)年の地形図からは当該箇所に「鉱山」を示す地図記号は見られません。
↑
ほとんどの事例では、廃坑になると、
イメージ写真のように坑口を埋め戻してしまうことが多いので、
既に廃坑から40年もの歳月が経過した今、自然と同化してしまったところも多く、
その痕跡を見出すのは容易ではありません・・・・・orz、、、、、
(岩倉炭鉱/宮城県栗原市栗駒文字東戸井沢の事例…比較的最近まで実際に操業)
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岩倉炭鉱(いわくらたんこう)とは、
宮城県栗原市に存在した炭鉱。
2000(平成12)年まで亜炭の採掘を非常に規模の小さい坑道掘りで行っていた。
最終的な運営会社は、創業者の子孫が経営している岩倉測量設計株式会社。
1901年操業開始。当初は亜炭の採掘を行い、最盛期には年間6,000トンを採炭。
第二次世界大戦前後には、近隣の仙台市の街中でも泥炭の掘削が行われた時代でもあり、亜炭といえども大きな需要があったそうだ。
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しかし、1970年代に入ると安価で良質な輸入炭に押され販路が縮小、経営会社は珪砂の販売などの多角化を進んだ。
地質学者の一部からは「事業と呼ぶより趣味の世界」と語られるほど、緻密な合理化により経営が続けられていたが、
平成9(1997)年に想定以上の出水により電気施設が水没しその復旧費用を賄えない為と施設の老朽化や従業員の高齢化などの問題も重なり、2000年に事実上の閉山となった。
閉山時の段階でも、炭層はまだまだ奧まで続いており掘削は可能であったそうだ。
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亜炭鉱の最盛期(イメージ写真/大崎市三本木亜炭記念館)
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大崎市三本木亜炭記念館(おおさきしさんぼんぎあたんきねんかん)は、
宮城県大崎市三本木字大豆坂63-24にある亜炭の博物館。
仙台藩では幕末から亜炭の採掘が行われた。現在の宮城県大崎市三本木の大松沢丘陵などでは三本木亜炭が産出され、1920年代の仙台鉄道開通により、仙台市へ大量に供給された。
当館は、道の駅三本木内にある三本木亜炭をテーマにした博物館であり、館内の中央に重さ10トンの亜炭塊を展示する他、亜炭資料展示室では、最盛期の坑道が再現されており、また亜炭の性質や利用法、地域における採炭の歴史などを解説し、関連する資料を展示している。
当館は、大崎市が「大崎市三本木亜炭記念館条例」に基づいて、亜炭関連資料の収集・展示などを目的に設置している施設であり、2009年(平成21年)4月1日から2011年(平成23年)3月31日までの指定管理者に選定された株式会社大崎市三本木振興公社が、2010年(平成22年)11月現在において管理・運営を行っている。
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1989年(平成元年)4月 - 「三本木町亜炭記念館」として開館
1995年(平成7年)4月11日 - 建設省東北地方建設局により道の駅に指定
2006年(平成18年)3月31日 - 自治体合併に伴って大崎市の施設となり、
「大崎市三本木亜炭記念館」に改称。
(入館料無料、休館日無し、開館時間9:00~17:00、一般国道4号線)