『私が朝鮮半島でしたこと』(松尾茂著、草思社刊)を読む


「植民地」史観を超える「生活実態」の視点

 「朝鮮人にひどいことをした」ということばかりが強調され、その時代を生きた庶民の生活実態はほとんど無視され続けてきた日本の朝鮮統治。しかし当時の庶民の生活実態を踏まえれば、それは単なる「実態抜きの悪印象」に過ぎない。こんな断罪史観とは決別すべきだ。

 今から七年前、「日本は植民地時代、韓国にいいこともした」と発言した日本の閣僚が内外の批判を浴びて辞任した。日本の朝鮮統治は悪でそれを肯定するような発言は一切許されない--こうした朝鮮統治に関する断罪史観は、当時も今も日本人の心を呪縛していると言ってよい。

 しかし最近、韓国人の呉善花氏がこうした断罪史観に異論を唱えている。「植民地統治の実際は、絶対悪の立場からの帝国主義批判とか植民地主義批判といった浅薄な考えから解明できるようなものではない」として、氏は「庶民の視点」から統治の実態を具体的に把握すべきことを次のように訴えている。

 「植民地統治者は被統治国の庶民に対して具体的に何をやったのか、何をやらなかったのか、その点を実際的な物事に即して明らかにし、正確に分析することこそ、植民地化の実像を知るうえでは最も大切なことなのです」

 実際、氏は当時の朝鮮半島における庶民の生活実態を調べた上で、日本人と韓国人との間には「よき関係」があった事実を突きつける。また一九一九年の三・一独立運動以降、日本は基本的に善政を布くことによって、政権と国内秩序を維持していくことに努めた」とも述べる。

 こうした「庶民の視点」は、従来の断罪史観を克服する上できわめて重要だと思われる。ただ問題なのは、当時の朝鮮半島での庶民の生活実態を記した書物が余りにも少ないことであろう。

 その点で、最近出版された『私が朝鮮半島でしたこと』(松尾茂著、草思社刊)は注目に値する。

 著者の松尾茂氏は明治四十三(一九一〇)年に佐賀県で生まれ、昭和三年朝鮮半島に渡った。そして日本統治下の朝鮮で終戦までの十八年間、氏は土木事業の現場責任者として、朝鮮の人々とともに架橋や水利工事などに取り組んだ。貯水池を作り、水路を掘り、道をつくり、橋を架ける仕事に氏は身を投じたわけである。『私が朝鮮半島でしたこと』には、そうした土木事業の実態や苦心、また当時の朝鮮の人々の有りのままの姿が記されていて興味深い。まさに庶民が捉えた朝鮮統治の一つの実像が描かれていると言ってよい。

 朝鮮統治=悪といったステレオタイプの認識を清算するための一つの手がかりとして、『私が朝鮮半島でしたこと』のポイントを紹介してみたい。

朝鮮半島で行われた「善政」

 まず初めに、この本の歴史的背景とも言うべき日本の朝鮮統治政策の一端について触れておきたい。

 日本の朝鮮統治と言えば、教科書には「創氏改名」「日本語の強制」といった歴史の暗部ばかりが、事実を歪曲して断罪的に記されている。だが実際は、日本の統治政策には「善政」として当時の朝鮮の人々からも歓迎されたものが多いのだ。松尾氏が取り組んだ農地改良などの土木事業はその一例とも言える。

 こうした事業が、当時の朝鮮の人々にとっていかなる意義を有したかは、併合当時の次のような朝鮮半島の実状を見ればよく分かる。

 「国土は一部の戸邑を除いては、何ら人口を加えられた形跡なく、殆ど白然の荒廃に任せたままであった。一たび暴風雨襲来すれば、忽ち大小の河川氾濫して大洪水となり、人命の損失、家屋の流失、農地の荒廃は激甚を極めるに至る反面、潅漑設備などは無いのだから、旱魃ともなれば、農地は多く収穫皆無となり、農民の苦難は筆舌につくし難く、流亡算なきに至る惨状を呈するのである。その状況は今日では到底想像もできぬ程であった」(『朝鮮の国土開発事業』財団法人友邦協会刊)

 かかる惨況に対し、総督府は道路・河川・港湾・市街等に関する法令を定めて土木制度の基本を確立し、治水、道路改修、港湾修築、上下水道の整備などの事業を実施したのである。その結果、昭和三年末までに一万七千七百六十四キロメートルの道路が作られ、四千四十六箇所に橋が架けられた。また昭和十四、五年頃には主要河川の改修も終了した。

 一方、産米増殖計画が立てられ、農地の開発・改良も大規模に進められた。それによって、併合当時は八十五万町歩だった水田面積が昭和三年頃には百六十二万町歩に達している。米の収穫高も飛躍的に増加し、併合当時約千万石だったのが、昭和十五年には二千二百万石を超えた。こうした事業に要した予算の多くが日本政府によって賄われたのである。

共に心血を注いだ土木事業

 こうした日本の朝鮮統治政策のいわば末端を、松尾氏は中村組という土木会社の現場責任者として担ったわけである。

 まず、朝鮮に渡った氏が最初に手がけたのは忠清南道での潅漑工事であった。最初に担当したのは「出面係」といって、各現場を回って作業員の数を把握し、彼らに支払う金票を用意する仕事である。当時の朝鮮人の作業員の生活について、氏は「こういった土木の仕事があって、(初めて)どうにか飯が当たり前に食べられるといってもいいぐらいだった」と語る。当時の土木事業には、窮民共済の意義もあったのだ。

 昭和七年三月、夜学で通った京城の工科学校を卒業すると同時に、氏は架橋工事の現場代人(現場責任者)を任される。弱冠二十二歳だった。その頃は宇垣総督のもと、農村振興運動が取り組まれ、半島開発がいよいよ本格化していく時代であった。そうした中、松尾氏は朝鮮の人々とともに各地を回り、道路建設や架橋、あるいは水利工事に心血を注いでいったのである。

 そして昭和十二年、盧溝橋事件が起こって戦時色が強まる中、氏は鉄道工事に携わる。その後、鴨緑江に橋を架けるという大工事を任されるが、氏はそこで九死に一生を得ることになる事故にも遭遇する。

 さらに平安南道の大規模な農地開発に取り組むが、その最中、突然の終戦を氏は迎えることとなる。「これだけの土地を干拓して水田にすれば米の大増収が可能になるということで、使命感のようなものを感じていた。工事のことに熱中していたので、戦争が終わりになるとは予想もしていなかった」と氏は当時を振り返っている。

 このような簡単な経緯を見ただけでも、松尾氏が朝鮮半島の開発のために、朝鮮の人々と共にまさに懸命に働いた事実が分かるだろう。

 ところで氏が、終戦後五十五年以上も過ぎた今日、こうした体験を書き留めるに至った動機は何なのか--。「あの当時の安州の人たちや、……朝鮮の青年たちの顔がしきりと思い出されるからにほかならない」として、氏はこう記している。

 「三十余年かかって半島に金と手を加えてきた成果が、ようやく実を結びはじめていた。……これからいよいよ花開くというときに、終戦になってしまった。もしあのまま工事がつづいていたら、北朝鮮の食糧事情はずいぶん違うものになっていたのではなかろうか。これからというときに残念なことをした、そういう思いが私のなかにある」「彼らは飢えることなく、飯をちゃんと食べているのだろうか。鴨緑江のほうでも食べるものがないという話を聞くと、やはり心が波立つ」

 当時の朝鮮の人々に対する深い愛着とともに、自分たちが手がけた土木事業に対する素朴な誇りが、氏をしてこの本を執筆させるに至ったということだ。

「手前勝手な行為」などではなかった

 冒頭で触れたように、戦後の日本では朝鮮統治=悪という前提の下、こうした土木事業に関しても、その事実に触れることさえタブー視されてきた。松尾氏は、そうした戦後の断罪的な見方に対して、次のように遠慮がちに抗弁している。

 「朝鮮半島における土木工事は日本軍国主義の強いた手前勝手な行為である--といったとらえ方もあるが、少なくとも私にとって、それは家族を養うための“たつき”であった。中村組という土木会社を守り立て、なんとか社員とその家族を養い、作業員たちに日当を払って、彼らを飢えさせないようにするための仕事だった」「私が雇った作業員たちは、その土地の朝鮮人だった……私は彼らを指揮しながら懸命に、ともに汗を流して働いたつもりである」

 先にも触れたように、こうした土木事業によって、食うに職なき多くの朝鮮人が仕事を得ることができた事実は看過されるべきではない。が、この事実とは別に、朝鮮での土木事業が決して「手前勝手な行為」などではなかったことを、この本は事実をもって雄弁に語ってもいる。

 まず第一に、こうした土木事業は、朝鮮人の地主など地元の人々の理解と協力を得ながら進められたことである。例えば昭和七年、氏は江原道の伊川という土地で水利工事に取り組むが、工事に着手するまでの段取りについて具体的に記している。

 まず、現地に入って最初に行うのが駐在所への挨拶である。「駐在所にはだいたい三、四人の巡査がいて、主任だけは日本人だが、あとは朝鮮人だった。そこに顔を出して、『今回、こういう工事を、このようにやりますのでよろしく』と挨拶する。『それなら、このようにやりなさい』と指示されるようにやっていた」と氏は語る。

 その次に、朝鮮人の地主たちを集め、土地の郡守や面長(村長)から工事の意義説明をしてもらう。「われわれが水路などをつくったあと、水田を一枚ずつ整える耕地整理は地主たちの仕事になっていたからだ。また、水路のために土地を無償で提供してもらうこともあるので、地主側には納得しておいてもらわないと工事にかかれないのである」という。

 こうした段取りを経て初めて工事に着手するわけだ。その結果、「朝鮮人と喧嘩をしたりという事故はさいわい一度も起こさなかった」と氏は語っている。

 とはいえ、「おれの土地が余計に使われた」といった不平も時には出たという。しかしそうした場合は現地の役所から「今うるさいので、話が決まるまで二、三日休んでください」と指示が出た。「役所側が条件を付けてやりくりしたのだろう」と氏は語る。

 いずれにせよ、こうした仕事の段取りを見れば、当時の土木工事が、朝鮮の人々の一定の理解と協力を得ながら実施されていたことが分かる。

朝鮮の人々の大きな「喜び」

 また松尾氏は、自分たちが行った土木事業が、朝鮮の人々からいかに大きな喜びをもって歓迎されたかについても色々記している。

 例えば昭和十年、江原道に赤壁橋という全長四百~五百メートルぐらいの、自動車が十分すれ違えるような立派な橋が完成した。当時の地元の人々の喜びを氏はこう記す。

 「赤壁橋が完成したときは、そうとう地元の振興になるということで、住民からも喜ばれた。それまで雨期にはしょっちゅう氾濫して、一週間も水が引かないことがあったらしい。そのため、架橋と並行して、ほかの業者が堤防工事もやったので、地元の人は宴会を開き、たいへん喜んでくれた」

 当時、多忙を極めた松尾氏は、架橋工事が終わった後の竣工式に出席することは稀だった。しかし、たまに竣工式に立ち寄ると、地元の朝鮮の人が非常に喜んで「一杯、飲んでいってくれ」と声をかけてきたり、盃を傾けながら「これから助かります。ありがございました」とお礼をいわれることもあったという。「とくに年寄りはとても喜んでくれた。それまで道が急勾配だったり、あるいは迂回しなければならなかった場所に、『橋ができたので、まっすぐに歩けるようになった』といって非常に喜ばれた」と氏は述べる。

 実際、こうした朝鮮の人々の喜びをはっきり伝えている貴重な写真がこの本には載っている。江原道の平安橋の竣工式で、恒例の「三代の渡り初め」が行われ、山の中腹まで現地の朝鮮の人々が見物のために集まっている写真である。「土地の朝鮮人の祖父母とその子夫婦、孫夫婦の三世代の六人が正装してにぎにぎしく渡り初めをしている…。関係者ばかりでなく近隣の人たちも集まってきて、会場に入りきれない人たちは遠巻きに式をながめていた」と氏はこの写真を解説する。自分の村に橋ができたことに対する当時の人々の喜びが自ずとうかがえよう。

 戦後の断罪史観からは想像できないかもしれないが、こうした事実にこそ当時の「庶民の生活実態」が刻まれているのではなかろうか。

朝鮮半島にあった「よき関係」

 こうした事実からも容易に推測できようが、当時の朝鮮半島において、日本人と朝鮮の人々が実に良好な関係にあった事実を松尾氏は伝えてもいる。例えば、鉄道工事に没頭していた昭和十二、三年当時の様子を氏はこう記している。

 「戦後になって歴史の本を読むと、抵抗運動とか暴動がいろいろあったと書かれているが、さいわいその種の反抗にはあわなかった」「摩擦はほとんどなく、私たちはほんとうに朝鮮人のなかに溶けこんで暮らしていた。……何の不安もなく毎日が過ぎていった」

 その頃の労働力の確保について、氏は「総督府のほうで作業員を斡旋してくれるようになったので、私のところで必要な二、三〇〇人ほどの人員は常時、確保されるようになった」と記している。しかし、これが左翼が断罪する「強制連行」などではないことは明らかだ。「けっして強制的に連れて回ったわけではない」にもかかわらず、鉄道工事の後もつき従い、終戦まで一緒だった朝鮮人は多かったと氏は証言する。現金収入があるうえ、地下足袋などももらえるので、「故郷に帰って農業をするより技術者になったほうがよかったのだろう」と氏は推測する。

 それ以上に見逃せないのは、氏が日本人と同じに公平に朝鮮の人々に接するように心掛けていたことであろう。「優秀な若い人には将来、片腕となって働いてもらいたいと思い、自分が卒業した京城昭和工科学校へ四人、入学させたりもした」という。実際、幹部として働いてくれる朝鮮人も二、三十人育ち、作業能率も上がったというのである。

 日本人が徴兵のため少なくなって以降も、こうした朝鮮の人々との良好な関係は変わらなかったという。昭和十九年には朝鮮の人々にも徴兵制が実施されたため、安州の干拓工事では囚人を働かせることになった。臨時の刑務所の囲いは厳重ではないので逃げようと思えば逃げられたが、逃亡者はいなかったという。「耐えられないほど過酷な仕事をさせたことはない」と氏は語る。

 日本人と朝鮮の人々との良好な関係を物語る一つのエピソードを最後に紹介してみたい。昭和十三年、京釜線の複線化工事の最中、松尾氏はトロッコに左足を轢かれて大怪我を負った。その際、朝鮮の人々に助けられたことを氏はこう記している。

 「トロッコは少し先でとまったが、倒れた私を真っ先に揺り起こしてくれたのは、部下の朝鮮人だった。それから大騒ぎになり、とりあえず村の朝鮮人の二人の医者が止血して、うまく応急手当をしてくれた……京城へ行き、上村病院に入院した。轢かれてつぶれたのは左足の指の部分だった。ぐじゃぐじゃになってしまっていたが、それを少しでも助けようと朝鮮人の上村医師が手術してくれた。……上村医師は日本の大学出で、技術的にも優れた、四十歳ぐらいの人だった。止血してくれた村の医師も二人とも上手で、好意的だった」

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 これまで日本の朝鮮統治については、「日本人は朝鮮人にひどいことをした」といったことばかりが強調され、その時代を生きた庶民の生活実態はほとんど無視され続けてきた。しかし当時の庶民の生活実態を踏まえれば、従来の朝鮮統治観が「実態抜きの悪印象」(呉善花氏)に過ぎないことを、松尾氏は雄弁に語っていると言えるのではなかろうか。

(小坂)

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