四神相応と日本の条坊制 | 知っとうや2

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中国・朝鮮半島には、四神相応(しじんそうおう)という地勢・地相・風水に関わる考え方があります。

<WIKI:四神相応>

 

古代の中国・朝鮮半島の都は、背後に山、前方に海・湖沼・河川が配置された背山臨水の地形が末永く続く良いであるとされていたようです。

 

そして、都の中心から四方を四柱の聖獣で守護させていたようです。

 

北(背後の山)を玄武、南(前方の水)を朱雀、東を青龍、西を白虎が位置しています。

 

四神と聞くと中国のイメージが強いですが、元々は朝鮮半島の方が古いようです。歴史的には、古代から中国が中心のように言われていますが、それは勝者の歴史によって改竄されたもののようです。

 

韓国の時代劇ドラマに、ペ・ヨンジュンが主演した太王四神記がありますが、これを見れば四神相応の考え方が良く分かります。

<WIKI:太王四神記>

 

韓国のソウルは、四神相応の考え方で造られた都であり、現在も世界有数の経済規模を持つ都市として栄えているのは、四神相応の効果なのでしょう。

 

さて、日本においては、朝鮮半島・中国から伝わったとされる条坊制の都である平安京が、この四神相応の考え方で造られたと考えられています。

 

北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とするものです。

 

現在では、巨椋池が完全に埋め立てられてしまったため、四神相応の関係が曖昧になっていますが、現在でも南側に鴨川、宇治川が流れていることから四神相応の地相を満たしているのは間違いありません。巨椋池が、近代に入って埋立てられたのは、熊襲が、京都の波動を下げるためだったのでしょう。

 

しかしながら、平安京が四神相応で造られたと言いながら、守護神である四神が前面に出てきません。京都市内に四神を祀っている場所が見当たらないのです。

 

日本での四神と言えば、飛鳥時代の古墳である高松塚古墳及びキトラ古墳内部の壁画に、四神が描かれていることが有名ですが、それ以外では、四神はほとんど残されていませんし、何故、これらの古墳に四神が描かれていたのかも解明されていません。日本に置いて、四神がどのような役割をしたのかは、未だに謎なのです。

 

平安京が四神相応の概念によって造られた都であるならば、京都にその痕跡が残されているはずなのですが、見当たらないのは不思議でなりませんでした。

 

ところが、今年5月に、たまたま訪れた吉田神社に、四神の痕跡を見つけることが出来たのです。

 

吉田神社は、二十二社の一社である日本を代表する大規模な神社の一つで、京都市の北西にある吉田山をご神体にしています。

<WIKI:吉田神社>

 

吉田神社の大きな鳥居をくぐると、すぐ左側に今宮社という摂社があります。この摂社には、四神石として青龍石、白虎石、玄武石、朱雀石を祀っていたのです。

 

吉田神社摂社

 

亀の形をした玄武石

吉田神社摂社

 

白虎石

吉田神社摂社

 

青龍石

吉田神社摂社

 

朱雀石は内陣にありと書かれていることから、摂社の中に存在するのでしょうか?

 

この四神石は、『方位を護る霊石』とされています。

 

ここからはあくまで推測ですが、この四神石は、元々は、平安京の四方を司るそれぞれの方位の場所に置かれて祀られていたものなのではないでしょうか。

 

ところが、後に、熊襲が、平安京を崩壊させるため、四方の四神石を祀る神社を破壊したのではないでしょうか。

 

しかしながら、四神石を護りたい当時の朝廷の命によって、吉田神社の境内に移管したものが、この今宮社の四神石ではないかと感じています。

 

日本の条坊制の都は、藤原京⇒平城京⇒長岡京⇒平安京のように、移転してきました。そこには、間違いなく熊襲の破壊行為があったはずです。

 

熊襲は、条坊制の都を守護する四神を祀る神社から破壊して行ったはずです。各地に、四神を祀る神社が見当たらないのは、熊襲が徹底的に四神の痕跡を破壊したことが原因ではないでしょうか。

 

いずれにしても、古代、日本でも四神相応が機能していたことが、吉田神社に行ってみて分かりました。これから四神が復活していくのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

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