第65話 山のあなたに その9 | 【小説】Cafe Shelly next

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喫茶店、Cafe Shelly。
ここで出される魔法のコーヒー、シェリー・ブレンド。
このコーヒーを飲んだ人は、今自分が欲しいと思っているものの味がする。
このコーヒーを飲むことにより、人生の転機が訪れる人がたくさんいる。

「今ならよくわかります。この詩が意味することが。今できる事、今の幸せ。それを感じて行動していきます」

 私は自分のやるべきことを自覚した。こうなったらいてもたってもいられない。つながり、これを今すぐにでもスタートさせたい。その気持でいっぱいになった。

 その週末、ささやかながら開所式を開催。そこには三輪さんを始め、入所してくれる予定の認知症患者、さらには障害者の方々も集まってくれた。

「小川先生、あいさつをおねがいします」

 そう促されて、私はもう一度ここまでの思いを振り返ってみた。きっかけは三輪さんが与えてくれた。

 若年性認知症患者。まだ働ける年代なのに、その症状のせいで自信を失い、さらに自分をも失ってしまう。そういう人たちが誇りを持って、自信を持って再び社会に羽ばたける。そんな施設を作りたい。けれど思いだけはあっても時間がない。それを言い訳にぐずぐずしていた。そんなときにもらった「山のあなた」の詩。そこには、遠い山の向こうにある幸せを求めようとしていた自分の姿を自覚させられた。

 幸せは本当は身近なところにある。だからこそ、今できる事をやる。まずは今を充実させること。そのために行動を起こさねば。そして動き出したら、仲間が増えてきた。次々と問題が解決していった。そして今がある。



「よし、いくぞ!」

 つながりをたちあげて三年後。私は目の前にいる千人近い人達の前に立とうとしている。

「小川先生、緊張してない?」

 笑いながら坂本さんがそういう。

「せんせぃ、だいじょぶ」

 まだちょっと言葉はおぼつかないが、あの認知症だった三輪さんも私の横にいる。

 今回、若年性認知症を克服した実例報告と取組みについて、多くの人の前で公演を行うことになった。最初は気楽に引き受けたのだが、これがかなり大きな大会で。その事実を知ったのが三日前だった。今まで大学の先生として大勢の前で話をしてきたが。今回はちょっと勝手が違う。さすがに緊張している私。

「せんせぃ、はい」

 三輪さんがポットからコーヒーを取り出して私に渡してくれる。中身は言わずと知れたシェリー・ブレンドだ。

「ありがとう」

 舞台裏で落ち着きを取り戻すために、私は受け取ったシェリー・ブレンドを一口含む。今欲しい私の答え、それは落ち着き。それを感じさせてくれる味だ。心の奥から力が抜けていく。

「よし、やるぞ」

 気合一発、いよいよ大舞台に立つ。

 今回、実例として三輪さんにも協力してもらうことになっている。あれから三輪さんは手彫りのスプーン作り、さらには風車づくりに励んだ。

 作ったものが売れていく。それにより自分が社会に役だっているんだという認識を徐々に持ち始めた。まだ若干記憶が曖昧なところはあるが。自分から「やるんだ」という意欲にはつながっている。

 つながりに来た頃の三輪さんは、言葉もろくに喋られない状態であった。だが、一つのことに集中しだすと止まらない。手彫りのスプーンはまさに三輪さんにとってはうってつけの作業だった。これは三輪さんに限らず、他の認知症の作業者も同じだった。中にはスプーン作りに向かない人もいる。だが料理をさせるとピカ一。こういう人はこの施設のまかないをしてもらうことに。こうやって、つながりに来た人たち一人一人が自分の役割を担っていく。そして、それが自分自身の自信へと変わっていく。

 認知症を完全に治すことは非常に難しい。だが、今やっていることは全く無駄ではない。今までとは違う自分を見出し、そして違う人生を送ることができる。これを続けていくことで、一生自分というものと向き合いながら、一生責任をもって生きていくことができる。つながりはそれに気づくことができる場だ。だから、最初は悲観的な感じで来ていたメンバーも、徐々に笑顔を取り戻している。