「なるほど、それが…えっと、お名前をお聞きしていませんでしたね」
「私ですか? 斎藤和夫といいます」
「和夫さん、ですね。お子さんに厳しさを背中で見せてあげたい。それが和夫さんが望んでいることなんですね」
「どうやらそうらしいですね。私もここに来るまでははっきりとは自覚していませんでしたが。そのことをずっと思っていたみたいです。今回それがはっきりしましたよ。いやぁ、魔法のコーヒーってあるんだな」
私はまだ半分ほど入っているコーヒーカップを眺めながら、不思議な体験を振り返った。
「私、そんなお父さんを尊敬するけどな」
女性店員が私とマスターの会話に割って入った。
「そんな、お世辞を言わないでください」
私は苦笑いしてそう言う。
「お世辞じゃありませんよ。そもそも、世の中の女性の主婦がやっている仕事を男性はそんなに評価していないんじゃないですか? 私も主婦として家庭の仕事をした上で、この喫茶店の仕事もやっているんですけど。結構大変なんですよ。なかなか夫の協力も思ったほど得られないし」
そう言って店員さんはマスターの方をじろりと見る。
「マイ、私はちゃんと言われた仕事はしてるだろう」
え、この二人ってどういう関係? きょとんとしている私に、マスターがこう説明してくれた。
「すいません。実は私達夫婦なんです。歳の差があるからそうは見えないでしょう」
いやいや、これには正直驚いた。マスターはどう見ても私より上の四十代半ば。マスターがマイと呼んでいた店員さんは二十代じゃないかな。
「主婦って大変なのは和夫さんならわかってくれますよねー」
「え、えぇ、私も自分がこうなるまで、こんなに大変だとは思っていませんでしたからね」
「ほらぁ、だからもっといろいろと手伝ってよね」
「はいはい、なんだか私、悪者になってません?」
「いえいえ、言われたことをちゃんとするだけでもありがたいですよ。我が家では子どもたちに手伝いをさせたいんですけど、なにしろ息子は反抗期だし。それに乗じて娘も言うことを聞かないし。どうしたらいいんでしょうね」
ふぅっとため息。
自分の理想はわかった。でも、そうなるための手段が思いつかない。
「主夫である私を子どもたちは尊敬するってことはあり得るんでしょうか…」
私はボソリとそんな言葉をつぶやいた。一瞬間をおいて、マスターがこんな質問をしてきた。
「和夫さんが尊敬している人っていますか?」
「えっ、尊敬している人ですか?」
マスターに言われて考えてしまった。尊敬する人、といってもすぐに頭に思い浮かばない。歴史上の人物、坂本龍馬や織田信長、果ては聖徳太子まで思い浮かべてみたがどれもピンと来ない。
もっと身近な人でいないか。元会社の上司は尊敬どころか軽蔑に値するし。最近の有名人も、どれもなんだかなぁという感じ。
このとき私はのどが乾いてきた気がしたので、何気なくシェリー・ブレンドに手を伸ばしてそれを口に含んだ。その瞬間、一人の人物が頭に浮かんできた。
「父さん!?」
思わず口に出してしまった。私の父親だ。
「どうやらシェリー・ブレンドはその答えが和夫さんのお父さんだって教えてくれたみたいですね」
私の言葉を聞いてか、マスターはにこりと笑ってそう言った。この答えには自分も驚いている。が、なぜだかそれがわかって安心した気持ちにもなった。
「和夫さんのお父さんってどんな人だったんですか?」
マイさんがそう聞いてくる。私は自分の父を今一度頭に思い描いて見た。
「私の父は…そうですね、一言でいえばガンコかな。自分の意見を絶対的にしようとするんです。おかげで母はよく愚痴をこぼしていますが。けれど、その言葉って大きな間違いはないんですよね」