われわれは無前提に聖書を読むことはできない。実は、世界観が聖書解釈を決定する。大事なことは、その前提を自覚することである。 

 

●解釈者の世界観が聖書観と聖書解釈を規定する

 

 そして聖書観はその解釈者の世界観に依存している。

 

(1)理神論者の聖書解釈。

  理神論というのは、神は世界を創造したが、造った後は世界にはそれ自体の法則にしたがって動いていて、創造主はこれに介入することはないという信念体系である。したがって、奇跡や特別啓示ということはありえないとする。わざわざ聖書を研究しようとする人が無神論者であることはまれであろうが、無自覚的な理神論者が多い。ただし理神論者のほとんどは、「理性は自律している」という信念をもっているので、文献学・言語学・歴史学・地理学は、特定の信念の影響下にあるとは考えず、客観的なものであると思い込んでいる。「理性の自律」は近代・現代におけるドグマである。

 理神論的世界観に立つならば、聖書の各書は、ほかの書物と同じく、それぞれの時代の文化の中に置かれた記者がそれぞれの能力に応じて、ある執筆事情のもとで資料を収集してまとめたものを、教会が結集した総体であることになる。聖書各書は、他の古文書と同じく歴史的文化的所産以上のものでも、それ以下のものでもないということである。したがって、時代と文化的背景と執筆事情と著者の特性に注目し、それらとの関係性・類似性においてのみ聖書の各書を解釈しようとする。

 また、デカルト以来の要素還元主義こそ「科学的」なのだという信念の影響もある。対象を知るためには、対象をできるだけ細かく切り分けて、各部分を細かく調べて行けば、それら知識の総計として全体を正確に知ることができるという考え方である。これを聖書に適用すれば、各書のもとにあったと想定される資料をあぶりだすことによって、各書を正しく理解できると信じた。文書資料説の前提には要素還元主義がある。

 理神論に立つ解釈者は、聖書の統一性を否定して、聖書を各書ごとに読み、さらに各書が依存したと各資料があったと想定して要素に還元する。また、時の軸に沿って新約聖書の思想をイエスの段階、イエスのことばを聞いた信仰者の共同体の段階、各書記者の段階などということを想定する。だが資料分析についていえば、たまねぎの皮をひたすらむいて来て、むき終わっても得るところがなかったのか、今日では各書ごとの資料の編集に現れた神学を考えようということで、パウロ神学、マルコ神学、マタイ神学、ルカ神学といった呼び名が出てきた。
 理神論者が聖書をバラバラにすることに意味があると考えるのは、要素還元主義とともに、聖書を構成する66巻の唯一の著者である聖霊の働きはありえないと信じているからである。それはいわばディズニーランドを理解するために、ウォルト・ディズニーその人の思想には顧慮せず、ひたすら諸施設を請け負った設計・施工業者の特性や、さらに用いられたコンクリートや鉄骨やペンキの研究をするようなものである。また、聖書中に記されている奇跡、未来に関する預言の成就はフィクションとして扱い、執筆年代などもそれに基づいた判断をする。

 近代主義者の聖書解釈の諸前提については、現代神学10でやや詳しく取り上げているので、そちらを参照されたい。

( https://ameblo.jp/caelnouta/entry-12327014136.html )

 

(2)有神論的世界観をもつ者の聖書解釈

 有神論ということばで意味するのは、世界を創造した神は通常摂理(いわゆる自然法則)と時に特別摂理(いわゆる奇跡)をもって世界を支配しているという信念体系である。神は通常は被造物である自然法則をもって世界を導いているが、時に特別啓示を与えたり自然法則を停止したり強化したりして奇跡を起こされると有神論者は信じている。なぜかといえば、聖書自体がそういう世界観を提供しているからである。対象の正しい読解は、対象にふさわしい読み方によってこそなされうる。

 有神論者は、聖書は、神の御霊が各書の記者を動かして著述させたものであり、教会による66巻の結集にも神の摂理を信じる。有神論者のばあい、各書の書かれた時代や文化や執筆事情を考慮しつつも、聖書全体を有機的な統一体として読む傾向が強くなる。有神論的世界観を前提とする聖書観が前提であった17世紀までの教会が、聖書を組織神学のプルーフ・テキスト集のような読み方をしていたのは、唯一の著者である聖霊の働きを信じていたのだから当然のことであった。また、現代でも聖書の言語霊感説に立つ有神論者が、聖書全体の統一性を重んじて読む傾向があるのは理にかなったことである。それは、ディズニーランドを理解するために、ウォルト・ディズニーその人の思想から理解しようとする態度にあたる。また、有神論者にとっては、聖書中に記録されたもろもろの奇跡や未来に関する預言が書かれたままの事実であると考えるのも合理的である。

 近代聖書学は理神論的な世界観の学者たちが発達させたので、聖書全体よりも各書研究が進んだ。啓示を否定する理神論という前提は、啓示の書である聖書を読む上では不適合であることはいうまでもない。だが、近代聖書学からの影響によって、今日、有神論者の聖書解釈においても聖書各書の個別性・多様性を考慮して解釈をするようになった。聖書学が理神論的世界観の影響下に生まれた点から生じた錯誤には注意し正さなければならないが、17世紀までの聖書の統一性のみを重んじた解釈の傾向に、聖書各書の多様性をも重んじる解釈が加わったことによって、有神論的世界観をもつ者たちの聖書解釈は豊かになったということができよう。

 聖書の統一性を重んじる聖書解釈とは、言い換えれば、聖書の神言性を重視する解釈であり、聖書各書の多様性を重んじる聖書解釈は聖書の人言性重視の解釈であるということができるが、聖書は両方の性質を併せ持った書であることをわきまえて解釈することが肝要である。聖書の人言性を強く信じる解釈者は各書ごとに読むことに意を注ぐことが聖書の正しい解釈であり、それらの解釈の結果を合計すれば聖書全体の真理が捉えられると考えるあまり、「木は見るが森は見ない」という過ちに陥り、全体は部分の算術的合計以上のものであることに気づかない傾向がある。他方、聖書の神言性を強く信奉する解釈者は、66巻各書の特性よりも聖書が全体として何を語ろうとしているかを知ることが聖書の正しい解釈であると考える傾向があり、これは上の立場と反対の極端に走ると「森を見て木を見ない」という大雑把にすぎることになる。木を見て森を見、かつ、森を見て木を見る解釈を志したいものである。

 聖書の十全霊感説は、聖書には神言性と人言性とが兼ね備わっているものであるとしている。したがって、われわれは聖書各書のしるされた時代・文化・執筆事情・記者の特性といったことを考慮しつつ各記者の執筆意図を探り求めるが、同時に、究極的には各書記者を用いた著者である神の意図を求めて聖書全体を参照しつつ各書を読むことが肝要であるということになる。

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」

(使徒20:27)

 

 

 照明(啓明illuminatio)

 

 預言者ダニエルは、かつてエルサレム陥落前に神がエレミヤに与えた預言を記録した書を読んで、エルサレム 陥落とバビロン捕囚は神の裁きであったのだと悟って悔い改めの祈りをささげた(エレミヤ25:814、ダニエル9:119)。使徒パウロはピリピを訪 れ、安息日に祈り場のあった川岸で福音を語ったとき、主はそこで耳傾けていた紫布の商人ルデヤの心を照らして、パウロの語る福音の真実を悟らせた。
  御霊が、神のみことばの読者あるいはそれを聴く者の知性を照らして、これを悟らせる働きを、照明という。暗がりでは見えない聖書が、明かりをともすとはっ きりと見えて読むことができるように、暗い知性が聖霊の光に照らされるときに聖書のことばを悟ることができるようにする。主イエスは、最後の晩餐の長い説 教のなかで弟子たちに聖霊の啓示の働きについて述べられたとき、次のようにおっしゃった。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の 御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真 理に導きいれます。」(ヨハネ16:13)これは新約聖書各巻の霊感および照明のことを語られたのだと解されよう。
 先にとりあげたK.バルトの 「戦場・伝令・後続部隊」の譬えとの違いはなんだろうか。バルトの譬えの場合、聖書は伝令である預言者が体験した、戦場のものすごい出来事啓示の出来事に関する人間の証言集であるが、それ が、説教として語られるときに聖霊によって神のことばになり、啓示として追体験されるという。これに対して、エレミヤの例にしたがって説明すれば、神がエ レミヤに与え書き記された聖書はもともと神のことばであるが、ダニエルがこれを開いたとき、彼の知性に聖霊の照明が当てられて理解でき、彼は悔い改めの祈りをささげたということである。もともと人間のことばに過ぎないものが、神のことばになるというのではなく、もともと神のことばであるものを、聖霊によって、正しく神のことばとして読めるようにする。それが聖霊の照明の働きである。

 


聖書の神言性と人言性

 

 ここで聖書の神言性(神のことばであること)と、人言性(人のことばであること)についてふれておく必要があろう。上に書いたところでは、話をシンプルにするために、聖 書は神のことばであるという側面についてのみ触れて説明したが、もう少し丁寧に考えてみる。聖書は神のことばであるとはいえ、確かに人間の理解できないこ とばはなく理解できる人間のことばで書かれている。この不思議な事実は、キリストの神性と人性の関係、「キリストの二性一人格」と呼び習わされる真理にな ぞらえて説明されることが多く、筆者もその譬えはある程度適切であると思う。キリストは、真の神であられ、かつ、真の人であられながら、おひとりの人格である。そのように、聖書は真に神のこ とばであり、かつ、真に人のことばでありつつ、一つの書である。キリストにおける神性と人性がカルケドン信条でいうように「混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割さ れることなく、引き離されることない」つまり不即不離の関係にあるように、聖書における神言性と人言性も不即不離の関係にある。

  したがって、私たちは、聖書の神言性と人言性とを二つながらわきまえて読む必要がある。聖書は確かに時間と空間の中、歴史の中で、聖書記者たちによって記されたのであるが、十全的な霊感をもって記されたので、そこには二つの性質が併存している。
 聖霊による照明にかんする説明を、聖書の神言性と人言性ということまで考慮して説明し直すとすればどうなるだろうか。肉的な人々の目には、イエスはただのナザレの男としか映らなかったように、肉的な知性には聖書はただの人間の手になる古文書としか映らない。しかし、神の御霊に照らされた人はイエスは生ける神の御 子キリストであるということを悟り告白するように、神の御霊の照明を受けた人は、聖書の神言性に目覚め、神が私に語り給うことを悟る。

 

 神は聖書を、歴史・文化・言語的な背景をもって、神の啓示を記させた。歴史・文化・言語的な背景が人言性にあたり、神の啓示が神言性にあたる。しかし、カント的な認識論をもつ聖書学者たちは、聖書テキストは歴史文化現象としてのみ扱うことが、あたかも「学問的」であるかのように思い込んでいるから、えてして歴史・文化・言語的背景との類似性からだけ聖書を説明することが正しい聖書解釈を導き出す道であるかのように考える。ヘレニズム的背景を色眼鏡として新約聖書を解釈しようとするブルトマンがおり、その後、むしろ第二神殿期のユダヤ教的背景を色眼鏡として新約聖書を解釈すべきだとするN.T.ライトのような聖書学者がいる。どちらも間違いである。

 神が歴史文化言語的背景を道具として使用して、聖書を霊感されたことは事実であるから、これらを考慮することは必要であるが、その色眼鏡をかけて聖書テキストを解釈しようとすれば、聖書テキスト自体が言おうとしていることを正しく読み取ることができなくなってしまう。そうした背景を用いつつ、その背景には解消できないこと、背景とは異質のことを語っているところにこそ神言性が現れているのであるから、そこに注目しなければならない。

 

 

●啓示の中心キリスト

 

 最後の晩餐の席上、主イエスが「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」とおっしゃって、ご自分は弟子たちのためにその備えをしに行くのだとおっしゃったところ、弟子のひとりは、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と言った。それに答えて、主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)とおっしゃった。ここは天の父の家への道について話している文脈であるから、直接意味されているのは救いの道、済論的な意味での道である。だが、主イエスは、神を知るための認識論的な意味での道でもあられる。

 アウグスティヌスは、若い日から悪の問題に悩んでいた。マニ教という善悪二元論哲学的宗教に迷い込んだのも、その問題を解決できると思ったからだった。だが、やがてマニ教に失望したころ、知人を介して新プラトン派の書物を読むようになり、その中で悪とは善の欠如した状態を意味するのであって、実体があるものではないという説明に一応の解決を得たと思った。また、その書物によって、ロゴス論を知るようになった。古代の哲学者たちは世界を観察して、世界を合目的的に支配する調和と秩序の根本原理としてのロゴスなるものがあると想定するようになっていたのである。

アウグスティヌスはこれら新プラトン派の教えによって、一応の知的満足は得た。しかし、哲学的に真理すなわち神を知りながら、自分の中には汚れた生活を捨てて真理に決して従おうとはしない抜きがたい頑迷さがあることに彼は苦しんだ。「これまで私は、自分が世をさげすんであなたに仕えないのは、まだ真理を確実に認識していないからだと考え、いつもそれをいいわけにしてきましたが、もうそのいいわけはきかなくなりました。なぜなら、真理はもう確実に認識されてしまったのですから。しかも私は、まだ地にしばられて、あなたの兵士として仕えることを拒んでいたのです。」(『告白』8:5:11)そうした苦しみの中で、彼は「取りて読め、取りて読め」という子どもの歌声を聞いて、手元にあった聖書、ローマ書13章を開き、己の罪を悔い改めて回心を遂げた。回心した彼がいうには、プラトン派の書物にはヨハネ福音書1章にある天上のロゴスはあるのだが、「ロゴスは人となって私たちの間に住まわれた」という謙遜・受肉が欠けていたのだという。彼は人となられた神イエス・キリストを通して、ついに真の生ける神と出会い、いのちにはいった。

 アウグスティヌスが『告白録』に記した回心の経験は、外的・内的な被造物啓示によって哲学的推論によって神を知るという道は、かりに偶像崇拝の過ちを避けてその先に進んだとしても、その到達点は、「自分は真理の探究によってついに神を知るにいたった。」という傲慢な境地であって、生ける神に出会った悔い改めといのちではないということを教えている。彼は、受肉したロゴス、イエス・キリストにあって初めて真の神と出会い、永遠のいのちを得たのだった。17世紀、福音書とアウグスティヌスの書に学んだパスカルも、同じ趣旨のことを『キリスト教弁証論』のための断想のなかで述べている。

 

「イエス・キリストなしに神をもつ哲学者たちを駁す

 哲学者たち。彼らは、神のみが愛せられ讃美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも、彼らは自分たちが人々から愛せられ讃美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。(中略)なんということか。彼らは、自分では神を知っていて、しかも人々が神を愛するようになることだけは望ましくないと考え、人々が哲学者を愛することで満足してくれるようにと願ったのだ。彼らはおこがましくも人々の自発的な幸福の対象でありたいと欲したのだ。」(L142B463)

 

 被造物啓示による、つまり、生まれながらの理性による哲学的探求によって、到達しうる神認識は生ける神との出会いではなく、知的高慢の極致だというのである。パスカルの死後、決定的回心の経験が記された紙切れと清書された羊皮紙が彼の上着の襟に縫いこまれていたものが出てきた。「メモリアル」と呼ばれるものである。日付を除いて引用してみる。

 

「       【火】
『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』
哲学者や学者の神ではない。
確実、確実、直感、喜び、平安。
イエス・キリストの神。
『わたしの神、また、あなたがたの神』。
『あなたの神は、わたしの神です』。
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は、福音書に教えられた道によってしか、見出すことができない。
人間のたましいの偉大さ。
『正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはなたを知りました』。
よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙。
わたしは、神から離れていた―、
『生ける水の源であるわたしを捨てた』。
『わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』。
どうか、永遠に神から離れることのありませんように―、
『永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります』。
イエス・キリスト。
イエス・キリスト。
わたしは、かれから離れていた。かれを避け、彼を捨て、かれを十字架につけたのだ。
ああ、もうどんなことがあっても、かれから離れることがありませんように。
かれは、福音書に教えられた道によらなければ、とどまることを望まない。
何もかも捨てさり、心は穏やか。
イエス・キリスト、そしてわたしの指導者に心から服従する。
地上の試練の一日に対して、永遠の喜びが待っている。
『わたしは、あなたのみ言葉を忘れません』。
アーメン」(田辺保訳)

 

 哲学的に神の存在証明をすることができたとしても、それによって真に神を知ることはできない。人は、福音書に見る受肉した神の御子を通してのみ、生ける神との出会いを経験する。キリストを抜きにして、古来哲学者や神学者たちが行ってきたような神の存在証明などをしても、真の神との出会いは経験できない。観念としての神が、ただ頭の上を通り過ぎていくようなことに終わってしまう。ただ、イエス・キリストを介して、私たちはいける神を知ることができる。

 

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18