現代神学10

ポストモダニズムと聖書解釈

 

 近代主義(モダニズム)・現代神学における聖書論、啓示論。

 

1.近代主義聖書解釈の根底にあるもの…復習

 

 「本講義03」で引用したC.F.ヴィスロフのレッシングに関する重要なことばを再度ここに引用しておこう。

 「人々は、レッシングの主張の中に、聖書の絶対性および権威に対する大胆な攻撃ラッパを聞 く。歴史は相対的なものであり、哲学思想の中に論拠をおかねばならぬ。こうして、神学者たち は、聖書ではなく、何らかの哲学思想を自らの出発点としはじめた。哲学的な用語を用いるなら ば、彼らのアプリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)は、この世の哲学となったのである。へーゲルやカントが、彼らの出発点となる。それはもはや論議無用の出発点、前提となるのである。

 

(1)デカルトの要素還元主義

 さて、デカルトは『方法序説』で真理に導く方法として4点述べている。

 第一は、わたしが明証的に真であると認めるものでなければどんなことも真として受け入れないこと。

 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこではもっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を上るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定してすすむこと。

 第四は、すべての場合に、完全な枚挙を全体にわたる見通しをして、なにもみおとさなかったと確信すること。

 上に述べられている二番目の方法が近現代科学にまで受け継がれている要素還元主義である。対象を極力細かく切り分け、そこからさかのぼって複雑な対象全体の認識にいたろうとする方法が科学の一般的な方法である。要素還元主義が、デカルトを祖とし、科学の方法として一般化されて、20世紀にいたるまで受け継がれ、聖書学にも影響を与え続けててきた。

 

(2)理神論カント認識論

①純粋理性批判

 カントは科学的認識は経験の世界に限定されるとし(これは英国経験論的)、この経験は人の主観の感性形式と悟性形式で構成されるという。このように経験を構成する感性形式と悟性形式の仕組みは生得的に万人に共通しているゆえに、誰にも共通な認識が成り立つという(これは大陸合理論的)

 では、カントにおいて神はどうなるのか。神は感覚によって経験することができないから学的認識の対象ではない。よって神の存在を学的に証明をすることは無意味だとした。

 この認識論は、理神論的な神観・世界観と一致する。すなわち、理神論においては、理性ある神は世界を理性的なものとして造られたが、その後、神は世界に介入して奇跡や啓示をなすことはないとする。世界はそれ自体の理性的法則によって運行しており、その法則を人間は理性によって読み解くことができるということである。

 

②実践理性批判

 では、カントは神や宗教をいっさい否定してしまったかというと、そうではない。カントは、神は学的認識の世界ではなく、心の世界に属するものとしたのである。彼は合理的な神の存在証明をみな否定するが、人が道徳的に正しく生きていくために必要なものとして神の存在を要請する。いわば学は実験と頭に属し、宗教や道徳は心に属するというのがカントの二元論である。 <科学は頭、宗教は心>という二元論こそは、近現代人のなかに蔓延してきたパラダイム(考え方の枠組み)である

 たとえば、新約聖書学者R・ブルトマンの影響を受けた遠藤周作の『イエスの生涯』を読めば、「事実」と「真実」とが区別されていることに気づくであろう。遠藤にとって、イエスのベツレヘム降誕は「事実」ではないが、「真実」である。イエスの生涯におけるもろもろの奇蹟の記事も「事実」ではないが、「真実」である。つまり、彼のいう「事実」とはカントが言った科学的対象となる時間と空間のなかで起こったことであり、「真実」とは感覚的には経験できず「心」が認識する神や魂や自由にかんすることなのである。

 

(3)旧約聖書:ヴェルハウゼンの発達説

18世紀にアストリュク創世記の中に、神を表す言葉としてエロヒームとヤハウェの二つが出てくることに注目し、創世記はA資料(エロヒーム)とB資料(ヤハウェ)、さらに10の断片から構成されたと考えた。これが批評的研究のスタートとなる。

 19世紀にはいると、モーセの著者性は捨てられる。E.ヤングによれば、19世紀におけるヴェルハウゼンまでの研究史は五期に分けられる。

断片説:資料の基礎となる成文資料を認めず断片の集合として定義した。

補足説:断片説の反動として基礎文書EにJが補足された。

結晶説:一回限りの補足ではなく連続的に行った。しかし二資料だけでは五書の複雑さは説明できなかった。

修正文書説:連続した統一的文書を二つではなく数冊規定する。

ヴェルハウゼンの発達説:五書はJEDPの四つの主要文書によって構成されたと推測し、各資料の成立年代を、宗教進化論に立って推測する。

J(ヤーウェ)資料:南ユダの王ヨシャパテの時代の前850年頃に書かれ、

E(エロヒム)資料:前750年に北イスラエルにおいて書かれ、これらが前650年頃に

         JE資料として統合された、と推測する。

D(申命記)資料:前621年、ヨシヤ王の宗教改革における公的プログラム文書として 

         作成されたと(2列王22:8)推測する。

P(祭司)資料 :出エ25-40、民数記、レビ記)は捕囚帰還後の前500-450年に編集され、前400年に最終的に四資料が編集されたと推測する。

 

 聖書を細かく分析することで、聖書の真相に到ることができると考えたのは、デカルト以来の要素還元主義のパラダイムに、近代主義の聖書学者たちがはまりこんできたからである。

 文書資料説の「発達説」の背景にあるもう一つのことは、19世紀の進化思想である。進化思想によれば、生物は単純なものから複雑精緻なものへと進化してきたということである。これを宗教に適用すれば、アニミズムから一神教へとイスラエルの宗教が進化していったということになる。この宗教進化説に立てば断片的な預言者よりも、体系的な律法の部分は後に書かれたと考えるという逆転した推測がされた

 ただし、20世紀を迎えて、学において、契約文書の研究がなされた結果、申命記がヨシヤ王の時代の契約形式でなく、紀元前千年紀の契約形式で書かれていることが判明し、ヴェルハウゼンのJEDP説の根拠はすでに崩れている。崩れているが、続いているのが不可解。

 

弁証法的な歴史理解F.C.バウア・・・テュービンゲン学派

 19世紀、ドイツの哲学界に支配的な思想はヘーゲル主義だった。歴史は、絶対精神がテーゼ(定立)・アンチテーゼ(反定立)・ジンテーゼ(綜合)のプロセスをもって自己展開していくという考え方である。これをバウアは、新約聖書成立に適用して、古カトリック教会の成立を次のように説明した。

 初代教会には、ペテロ派とパウロ派が存在した。ペテロを筆頭とする弟子団はメシヤ待望のユダヤ教であった。これは定立(テーゼ)であった。しかし、パウロの恩寵による救いを教える反定立(アンチテーゼ)が起こった。この二つの党派は長い間対立関係にあったが、対立はアウフヘーベン(止揚)されて統合し、それが古カトリック教会になった。

 バウアは、以上の考えに基づいて、新約聖書の成立年代を推測した。そして、「ローマ人への手紙」「ガラテヤ人への手紙」「コリント人への手紙」だけがパウロの著作であると主張し、他はパウロの名をかたった偽書であるとした。なぜなら、それらだけが定立と反定立の衝突を示しているからと判断したからである。

 本来、本文批評は、低部本文批評によって最良の写本を確定し、それに基づいて高層批評において思想的な批評をするものである。高層批評は低部本文批評を土台として成り立つ。ところが、テュービンゲン学派は、高層批評をもって恣意的に低部本文批評をうんぬんするという過ちを犯している。

 

(5)人権主義

 「解放の神学」「フェミニスト神学」の背景には人権思想がある。人権思想には、キリスト教的背景と啓蒙主義的背景の両方がある。権力の抑圧からの解放という意味では、両者は共通しているのだが、キリスト教の場合は神のことばへの服従を目指しているのに対して、啓蒙主義者の人権主義の場合は人間の自律を目指しているという点で異なっている。後者の場合、人間の権利が神のことばに優先することになる。

 また解放の神学がマルクス主義の理論の影響を受けていることも指摘されていることは前回述べたとおり。 

 

 

.構造主義とポスト構造主義

(1)ポストモダンについて

 ポストモダンについて、Wikipediaは次のように解説している。ポストモダン(英: Postmodern)とは、「モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った(と思われた)時代のこと。 ポストモダニズム (Postmodernism) とは、そのような時代を背景として成立した、モダニズムを批判する文化上の運動のこと。 主に哲学・思想・文学・建築の分野で用いられる語。

 では、「失われたモダニズムの成立条件」とはなにか?文学・芸術・建築など分野ごとにさまざまに表現できようが、共通していることは近代合理主義に対する信頼感である。聖書解釈学の文脈でいえば<理性と言語の普遍性>という信念である。デカルトは『方法序説』で万人は共通に理性をもっていて、理性にしたがって言葉をもって筋道立てて考えれば真理に至ることができるとした。カントであれヘーゲルであれ、近代人においてこの前提は共通している。ところが、20世紀半ばから<理性と言語の普遍性に対する疑念が湧いてきて、<理性と言語の限界>つまり<理性と言語の個別性>を強調する思想が現れてきたこれがポストモダンということになる。その原因として二点あげておこう。

 第一は合理主義文明に対する疑念が生じたことである。合理主義文明によれば、人間は機械の一種であり、物質の塊であり、遺伝子の束にすぎないことになってしまい、生きる意味も価値も分からなくなってしまう。また、自然は単なる生産工場とみなされることになってしまう。さらに合理主義文明の生み出した核兵器などの成果は、人間を幸福にするどころか滅亡させようとしている。合理主義文明にしがみつきならが、合理主義に対する不信感を抱いているのが現代人の特徴である。

 第二の原因は、文化人類学的な知見によって、それぞれの民族によって価値が驚くほどに違っていることの発見である。近代西洋人は、西洋的な価値観が全人類にとって普遍的なものであると考えていたが、世界の諸民族について文化人類学的な知見が得られるようになった結果、西洋的価値観が普遍的なものとは考えられなくなってきた。そして、<理性と言語の普遍性>を前提とすることに対して疑念が生じた。普遍的真理などは存在せず、すべては相対的で個別的なのだという相対主義になり、究極の結論は不可知論・懐疑論に陥る

 

 理性と言語が普遍的でないとすれば、聖書テキスト理解はどうなるか。近世と近代においてはテキストは一つの意味を提示するとされ、テキスト理解とはその一つの意味に到達することとされていたが、ポストモダンにおいてはテキストは読者によって多様に理解されるものであるし、それでよいのだとされる。構造主義は、そうしたポストモダン思想のひとつである。

 

(2)構造主義と聖書解釈

 従来の要素還元主義と構造主義のものの考え方を一つのたとえで説明してみる。

<昨日、JR白石駅発の午前8時発の普通電車に乗った。今朝もJR白石駅発の午前8時発の普通電車に乗った。>とすると、両方とも同じだと考えるのが構造主義。これに対して、<乗った年月日がちがう><乗った車両は実は違っている><車掌が別人である><運転士も別人だ><車両のモーターの年式が違っている>というふうに、時間的要素も加えながら要素に分解して行くのが要素還元主義。そういう細かい部分は横において、全体構造を把握しようとするのが構造主義である。

 19世紀に確立された自由主義陣営の聖書の歴史的批評的研究はテキスト成立のプロセスの解明に関心を集中させてきた。ところが、1970年代半ば、歴史的批評的研究から構造主義への移行というパラダイムの転換が起こる。言語学者ソシュール以後、時の流れという縦軸の通時的研究よりも、時の流れを止めた一時点における言語の構造と体系を記述する共時的研究を優先することが重んじられることになった。この理論がテキスト研究にも適用されて、「あるがままのテキスト」から出発する構造主義的研究が主流となる。

 これを聖書解釈に適用した場合、聖書テキストを要素還元主義をもってその成立過程を細かく分析しても意味がなく、むしろ、あるがままの聖書テクストを読むべきだという態度となる。そこに保守主義キリスト教会がいうように、普遍的真理があるというわけではないが、そのテクストを共通に読んでいる共同体内においては意味があるとする。こうした思想を背景として自由主義陣営から、正典的聖書解釈ということも出てくる。19世紀、20世紀、聖書は大学の研究室における歴史文書研究の対象とされて、教会から奪われてきた。その聖書を教会に与えられた正典として取り戻すというのである。本来、聖書は教会という共同体のものであるから(芳賀力「聖書の正典的解釈と物語る教会」参照)。  

 この傾向は、表面的にはこれまで聖書を各書・各資料に時の軸にそってバラバラ分析することに専心してきた自由主義陣営の聖書解釈が、「聖書を一冊の啓示の正典」として読んできた保守陣営の聖書解釈に戻って来たかに見える。だが、内実はそうではない。自由主義の聖書学においては、歴史的事実性を知りえないこととしていることは変わらないからである。共時性のみを重んじる構造主義的聖書解釈は反歴史主義に走り、テキストの語ることの歴史的事実性については無関心で知りえないとしている点において、19世紀以来の自由主義の聖書学と共通しているのである。 

 1980年代から1990年代にかけてさらに、人文科学の主流が構造主義からポスト構造主義へと向かっていくが、本質的な変化というより、延長線上の動きである。ポスト構造主義では「著者の抹消」が行われて、著者の意図したことがテキストに正確に含まれているかどうかはわからず、その執筆意図を探求することは無意味だとする。著者を死刑にして、ますますテキスト解釈は読者にまかされるということになる。この発想は、カントの物自体は知りえないという考えや、ブルトマンの史的イエスは知りえないという説明と似通っている。読者中心主義ということになると、テキストには多くの解釈があり、正しい聖書解釈などないということになり、「解釈がすべてだ」ということになってしまう。

 こうした態度は、聖書のあちらこちらの箇所の、「インターテクスチュアリティ」という学者たちによる恣意的な結び付けを助長している。。たとえば、ハンナ物語とラケル物語に表現やテーマの類似性を見たり、ルツ記とタマル物語の平行関係を見たり、さらにはダビデがヨナタンの提案でサウル王を避けて身を隠した隠れ場がダビデとバテシェバが隠れて行った行為を予表しているとか、アブシャロムの死の記事で頭が樫の木にひっかかったことが、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊を連想させるという(津村俊夫「『ポストモダン』の聖書解釈」(福音主義神学301999年)p27参照)。単なる連想ゲームにすぎない。                                                                                                                                                                                                                  

 

(3)水草コメント

①構造主義のプラス面

a.西洋以外の文化を西洋の色眼鏡を当てはめるのでなく、その対象に即して理解しようという態度。これは大事なことである。「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように」である。文化人類学における構造主義は、西洋文化とキリスト教を同一視し、福音宣教を西洋化と同一視してきた過ちを自覚させることになった。

b.要素還元主義は全体を見失いがちであったが、構造主義は諸要素の相互連関を把握しようとすることによって全体を見る視点を提供する。

 

構造主義のマイナス面

a.すべての「主義」にありがちなことであるが、構造中毒に陥ってしまうこと。文化人類学の観点から、普遍的な価値などなく、それぞれの社会はそれぞれの構造において価値や意味があるものであるから、それに一つの物差しを当てて価値判断することは無意味であるという相対主義に陥る。

b.ポスト構造主義における連想ゲーム的聖書解釈は、宗教改革の聖書解釈の伝統における「聖書は聖書によって解釈する」という解釈原理とうわべは似ているが、本質が異なっている。宗教改革の聖書理解における「聖書は聖書によって解釈する」の場合は、聖書釈義の対象である当該テキストの前後関係の文脈、当該テキストが属する各書における文脈、聖書全体における契約を軸とした救いの歴史(契約神学)の文脈と、聖書全体における教理体系という大きな文脈を考慮することが伴わなければならない。  

                                  

3.藤本満『聖書信仰』について

 

(1)藤本満『聖書信仰』概要(かんたんすぎる要約)

  近代主義modernismは<理性と言語の普遍性>を前提としており、自由主義陣営は理性と言語をもって聖書を分析してその全体性と意味を見失ってしまった。また、普遍性を求めるがゆえに教会・礼拝共同体という聖書の根ざす場から聖書を切り離してしまったことも、聖書がわからなくなったもう一つの理由である。

 他方、保守主義陣営は自由主義に対抗するために、聖書の原典の啓示における客観的・命題的真理性を偏り追求した結果、本来、宗教改革者が強調していた聖書を通して今働かれる聖霊のダイナミズムを見失ったのではないかという。そして自由主義陣営だけでなく保守主義陣営も、<理性と言語の普遍性>を前提とする近代主義のパラダイムに捕らわれてきたことに問題があるとする。

 ポストモダンは、<理性と言語の限界>つまり<理性と言語の個別性>を強調する。テキスト理解ということでいえば、伝統的にはテキストは一つの意味を提示するとされ、テキスト理解とはその一つの意味に到達することとされていたが、ポストモダンにおいてはテキストは読者によって多様に理解されるものであるし、それでよしとされる。これがそのまま聖書解釈に適用されたら、滅茶苦茶なことになるのは言うまでもない。それは極端に振れれば、普遍的真理などは存在せず、すべては相対的で個別的なのだということになり、究極の結論は不可知論・懐疑論となる。ただし、ポストモダンでは、言語は普遍的ではないが、その言語の用いられている共同体内ではそれなりの意味を持ち機能を果たすとされる(後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」)。

 だが、本書はむしろポストモダンの考え方が聖書学にもたらしつつある積極的効用を評価している。それは、モダニズムを背景として、たまねぎの皮むきを散々やって聖書の全体性を見失っていた自由主義陣営の神学者たちに、聖書の教会共同体における正典性に目覚めさせたことである。デカルト以来の要素還元主義は対象をひたすら細かく分析すれば真理に到達できると考えるから、聖書学者たちも聖書を各書に、各書を成したであろう文書史料に分析してきたが、結果、全体の意味を見失ってしまっていただが、ポストモダンのテキスト理解の考え方から、聖書を教会という共同体の場にとっての正典として受け留めてそのまま読むことが許されるということになった。聖書は言語ゲームの場である教会共同体におけるゲームとしての言葉であるということである。だが、その言葉は近代理性主義におけるような普遍的なものでなく、共同体内に限られたものにすぎない。

 他方、ポストモダンが保守主義陣営に与えるのではないかと著者が考える効用についていえば、命題的啓示だけに留まらない聖書啓示の豊かさに目覚めさせ、本来、宗教改革者や敬虔主義者たちが強調していた聖書とともに働いて啓示の受領者を変貌させる聖霊のダイナミックな働きに心開かせることである。

 

)水草コメント

ポストモダンもまた、モダニズムの極端から反対に振れた一つのパラダイムであることを忘れないようにしなければならない。それはモダニズムにおいて見失われていた聖書の全体性、命題的啓示のみに留まらない啓示の豊かさを再発見させ、今、聖書とともに働いて読者と教会を変容させる聖霊のダイナミズムを再発見させるための薬にはなるかもしれないが、劇薬でもある。その行き着くところは、多元主義・相対主義・不可知論・懐疑主義である。

 そこで、つぎのような点を心に留めておきたい。

a.たしかに、理性と言語には限界があるが、神は我々に理性と言語を賜物としてお与えになったから、その限界をわきまえつつ正しく用いて、聖書を読むべきである。

b.多元的豊かさに注目するのはよいが、多元主義に陥ってはならない。聖書啓示は多様性とともに統一性をもった啓示である。

c.聖書は、福音書や歴史書や詩書において物語的にも語るが、ローマ書などにおいて命題的にも真理を語る。

d.聖霊はダイナミックに働かれるが聖書を離れ、聖書に反して語られるわけではない。

 

②藤本師が、客観的命題的啓示と、主観的な生きた主の交わりと矛盾するかのように主張することに対して、違和感を覚える。 カルヴァンはキリスト教綱要において、聖書が客観的な神のことばであることを論述しつつ、かつ、究極的には聖霊の内的証明を述べているというのが事実であって、あれかこれかではない。あれもこれもである。

 聖霊によって霊感された客観的真理が、聖霊の照明によって主体的真理とされるというのが、福音主義の本来の聖書観である。客観的真理ならざるものが、聖霊の働きによって主体的真理となるというのでは、「いわしのかしらも信心」になってしまう。

 聖書の霊感inspirationの追求にエネルギーを注いできたが、今後、照明illuminationという聖霊の働きをもっと神学的に考察を深めていくことが必要であるというのは、なるほどである。

 

③上述したことの繰り返しになるが、リベラル陣営におけるポストモダンの正典的聖書解釈は、表面的には福音主義の伝統的聖書解釈に近づいてきているように見えるが、実際には、それは普遍的真理を求めているのでなく、言語ゲームとしての聖書解釈なのだということに注意しておく必要がある。福音主義者は、聖書は絶対者である神の普遍的な真理であると信じて聖書を読みまた説教をするのだが、リベラルな正典的聖書解釈はたとい「真理」ということばを用いてるとしても、それは共同体内における言語ゲームの用語としての「その場限りの真理」にすぎないのである。