ニュース報道のカンバン方式化へのおぞましき危惧 | Paradigm21 Web Editorial

ニュース報道のカンバン方式化へのおぞましき危惧

一年を振り返って目立ったのは、
ニュース報道のカンバン方式化に
マスコミが飲み込まれてしまったことである。

本来の記者の仕事は情報の蓄積のうえで、
目前のニュースに切り口を与えるものだが、
ほぼ一年で配転を繰り返す記者クラブ要員に象徴されるように、
いまの現場は発表ものやニュースリリースを焼き直し、
情報の在庫が空のまま時間との競争だけを迫られる。

ラインを流れてくる事象を紙面に貼り付け、
テレビで垂れ流すだけになってしまうのを責められない。
事情通の記者をつくらないのは、

マスコミの営業戦略にかなった安逸を担保するからである。
だからこそ、ますます鼎の軽重など構っておられず、
目先のニュースめがけて各社いっせいに走り続けるしかできない。

前回の総選挙が嚆矢をはなって、
構造改革=郵政民営化だけを争点に祭り上げ、
誰が賛成か反対かを喧伝した。
この単純さと分かりやすさの危うさは、言うまでもない。

"運が悪い"飲酒運転狩りからイジメ報道、
タウンミーティングのやらせ騒動や税金無駄使いまで
全国から同じ事例を掻き集めて、
従来ならベタ記事もならなかったようなケースを事件化する。
相変わらずなのは、
責任の所在が曖昧さに閉じ込められて、
メディアのヒステリーが風化するのを待っている。
予算編成や交付金算定の最中に槍玉に上げられた
石原都知事も気の毒だが、
やらせで公聴会さえ満足に開かずに
教育再生論議が進んでいるのは不気味である。

 政局もマスメディアも
戦前の大政翼賛のような
時代のうねりに呑み込まれてようとしてはいないか。
教育への国策グリップが強まるのも、考えものである。
夫や息子を召集された庶民の多くは建前の勇ましさとは裏腹に、
弾があたらないように逃げろと送り出した。
大人たちの本音を咎めたのは、学校で洗脳された子供たちだった。
それを教える教員たちも建前だけで、無邪気に愛国を煽った。
隣り組以上に国民監視のツールに子供たちを仕立て上げる。
ヒトラーユーゲントやポルポト派の悲劇もここからはじまった。

おしなべて日本人は強きを援け、弱きを挫く。
日和見は生き残る猿知恵だが、
歴史までを為政者に都合よく書き換えてしまう。
名古屋で突然変異のように台頭した
トヨタのビヘイビアも同じからくりである。
裏切り者扱いだったはずが杉原千畝が日本外交の金字塔だったり、
白州次郎の異端の才覚をにわかに誉めそやす。
彼らがサムライだったことは言をまたないにせよ、
それを換骨奪胎して利用する狡さには虫唾が走る。

 山崎正和さんがこんなことを言っている。
---国の豊かさとは「人間」である。
昔からそうではあったのだが、今ここに来て特にそうである。
そして、この場合の「人間」の意味が、
「指先の器用さ」から、今はやや「頭」の方に移ってきた。
その頭の豊かさの中に、
狭義の「知力」と「情操力」と両方がある。
国力というものを考えた場合は、やはり「知力」。
知的発信力が最大の中心である。
日本が今強いと言われているアニメ・ゲームなどの
感性的なものを無視するつもりはないが、科学技術の発信や、
人文科学だったら理念の提唱といった知力のほうが大事である。


 郵政反対議員復党について、転向を指弾する向きがある。
これまた日本的日和見を歪曲した不毛の議論である。
たしかに理屈ではあるものの、その実、
岐阜の野田聖子代議士の地元有力者の大半は
利害関係の少ない政策などに興味を示さない。
しょせんは野田卯一の孫だから、その地盤の後継者として応援している。

 ノンポリ無党派をワイドショー感覚で裏切りだとか、
煽り立てるメディアがいても、
後援者には利害以外の違和感は存在しない。
それは岡山でサムライを気取る平沼騏一郎の養子孫も同じである。