チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる -9ページ目

チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

 

『急がば回れ』、『失敗は成功の基』、

『驕る平家は久しからず』、…

 

日本には多くの諺がありますが、

実際に色々な場面で、

私たちはしばしばこれらの言葉を思い出して、

判断の基準にしたり、

気を引き締めたりと、

結構お世話になっています。

 

これらの諺が、

いつ、どんな形で語られ始めたかは、

今日知る由もありませんが、

 

間違いなく言えるのは、

これらが人々の膨大な実体験を基とした

裏づけの確かな経験則であることです。

 

諺はリアルストーリーが法則化された

知恵の塊と言ってよいでしょう。

 

私たちはまた、

歴史の事象からも大きな影響を受けています。

 

一介の水飲み百姓から

並外れた機転と才覚で信長(上司)の

信頼を取り付け、

最後は天下を手に入れた秀吉の話は、

この社会で成功者になっていくための

様々なヒントを人々に与えてくれています。

 

犬猿の仲だった薩摩と長州を結び付けて

幕府に対抗できる一大勢力の形成に貢献した

坂本龍馬の見識と行動力に、

新しい時代を切り開く

ヒーローのイメージを持つ日本人は、

少なくないのではないでしょうか。

 

歴史に実在したこれら人々のストーリーは、

時代を超えて強い説得力を持っています。

 

高校生の頃、

5-6人の仲間と友人の家に集まって酒を飲み、

ドンチャン騒ぎをしていたことがバレて

学校から謹慎処分を受けたことがありました。

 

発覚直後に皆で

“ドンチャン騒ぎはやったけど、酒は一切飲んでないことにしよう”

と示し合わせ、私も約束通りしらを切って

教師達からの厳しい追及に耐えていました。

 

ところがどこかから砦が崩されたらしく、

若い教師に

「お前は窓際の席で、水割りを飲んでいたそうじゃないか」

と迫られ、

こりゃあダメだと陥落してしまったのでした。

 

学校から連絡を受けた父親は

「バカだなあ」という顔で何も言わなかったのですが、

その時母の発した言葉には、少なからず驚かされました。

 

母は、

「“飲んでない”と言ったのなら、最後まで通さなきゃ。

 それが大人ってもんよ」

 

自分の言葉に責任を持て、という意味で

そう言ったのだと理解しました。

 

母は教師をやっていたので、高校生が酒を飲むことを

それほど特殊だとは、

捉えていなかったのかもしれません。

 

嘘を良し、と思ってはいないはずですが、

私の芯の弱さを見抜いての、一言だったのだと思います。

 

「それが大人ってもんよ」という一言は、

その後の自分の人生で何度か母の声の響きと共に、

自分の在り方に影響を与えていると感じます。

 

という具合で、

そんなリアルストーリーは勿論、

 

家族、先輩、友人から聞くストーリー、

そして歴史の逸話や諺を合わせると、

私達が日常的に参照しているストーリーは、

おそらく相当膨大な量になると思います。

 

そしてそうであるならば、

参照できるストーリーの「量」と「質」が、

私たちの日常の

働きやすさとか生産性とか他者との関係とかに

少なからず影響していると、考えるべきでしょう。

 

自分がどんなストーリーと共に生きているのか。

 

そこに改めて意識を向けてみることが、

VUCAと呼ばれる今の時代には、

様々な意味で重要になってきていると感じます。

 

“ストーリーテリング”を行うメリットは、

主に二つあると、私は思っています。

 

一つは、

 

“ホントウの自分”、

“素のままの自分”、

“世間の枠の囚われから自由になった自分”

 

が、語る中に発見できること。

 

そしてもうひとつは、

 

並立する多様なストーリーに底通する、

ある程度一貫性をもった統合的な自己が、

語りの中から立ち現れてくることです。

 

これは、前に

https://ameblo.jp/c-b-collaboration/entry-12800955657.html

でお伝えした

“首ひとつ高い”メタの視点で

語る行為がなされるからだろうと思います。

 

一貫性を持つ統合的自己を、

“自己同一性=アイデンティティ”と

言い換えてみると、

 

そこには、

「私は何者?」への答えが見えてきます。

借り物でない「自分」が、言葉で現れてきます。

 

通常「私は何者?」を誰かに伝える時には、

 

〇〇社、開発課の課長代理、とか

IT企業で金融系担当のプロマネとか、

“二児の父親”、“オヤジバンドのベーシスト”

の様な”属性“を指すケースが多いと思います。

 

これらは勿論「私は何者?」への答えですが、

 

「だからどうしたいと思うの?」

「結局、何がやりたいの?」

「一体どっちに行きたいんだよ?」

 

の様な問いに答えてくれるものには、多分なりません。

 

大事な意思決定を行ったり、

行きたい未来を思い描いたり、

他者と本当の関係を構築しようとする場面で、

 

上に書いた“属性的なアイデンティティー”は、

表層を示しているだけなので、

選択する主体としての役割を果しえないからです。

 

対して“ストーリーテリング”から立ち現れてくる

一貫性を保った自分、いわば

“物語的アイデンティティー”というべきOUTPUTは、

確かな感覚に連結している分、

 

「私は何者?」への

一つの答えを与えてくれるはずです。

 

語りの中に自分の価値観、自分らしさ、

守らなければいけないと思うもの、等が

反映されているはずだからです。

 

と、書くと、ここに現れるアイデンティティーは

明確に自己主張できる、常にブレがなく、

強く、頼りになる、そんな印象を持ってしまいそうです。

 

しかし現実はそうではなく、

矛盾だらけの自己を一貫した存在として保つには、

どんな態度をとるのがが相応しいか、

とか、

 

他者との関係を維持するために、

“自分”をどう提示していくのがいいのか、

 

その為に、

自分の中にどう折り合いをつけていくか、等。

 

そんなことをあれこれ考えながら、

自分のウチとソトをどうにかバランスさせている状態が

実体に近いのだろうと思います。

 

その行為は自分の内側に展開する

複数のストーリーを納得できる形で共存させる営みであり、

 

その営みは、充実度の高い人生を送る上で

避けることが出来ないプロセスなのだろうと思います。

 

ストーリーテリングは

“物語的アイデンティティ”を現出させる場です。

 

“物語的アイデンティティー”は、常に揺れ動いていますが、

語る行為は、これに一時的な平衡状態をもたらします。

 

そして“語り”に現れた“ことば”を消化していく中に、

自分らしいふるまい、自分らしい発想、自分らしい生き方が、

よりしっかりした形で確認できる様になるのでしょう。

 

現代を生きる私たちは、“自分らしく”生きる為の

そんなプロセスを必要としているのだと思います。

 

ダメモトでも

あの時チャレンジしておくべきだった。

 

あの件は、安易に譲るべきじゃなかった。

 

彼らの言い分を、もっと聞いて

判断しておけばよかった、等、

 

人生に後悔の残る出来事は沢山あります。

 

その時のことを、後から振り返ってみると、

 

その時点で展開していたストーリーの意味自体を

過小評価していたり、

 

ストーリーの内外に現れる登場人物たちとの関係に

意識が十分及んでいなかったり、

 

重要であるはずの人々の存在自体が

殆ど意識から外れていたり、

 

更に、自分のウチにある本当の心の声を

しっかり聴けていなかったことが、分かってきます。

 

単に思慮が浅い、と言ってしまえば

それまでなのですが、

 

常に様々な形の締め切りに追われて

忙しく生きている現代人は、

こうしたリスクを抱えている、

そんな側面も否定できないのだと思います。

 

また、これら“うっかり”系のケースとは別に、

どうしようかなあ、と考えてはみたものの、

頭の整理がつかないまま時間切れになってしまって、

 

どうすることも出来ずに流れに身を委ねて、

それを、後になって後悔する、

といったケースも少なくありません。

 

私たちの日常には、

案外難しい問題が多いのだと思います。

 

そんなときに、“第三者に話してみる”という行為から

大事なことに気づかされたり、

決定的に重要なヒントを得たり、

話したらスッキリして吹っ切れた、といった

経験を持つ人は、少なくないのではないでしょうか。

 

この時、私たちは知らず知らず

“ストーリーテリング”を行っていて、

日常の自分とは異なる視点で、

状況を見ているのではないかと私は感じています。

 

“組織のマネージャー”として、“二児の父親”として、

また、“楽天イーグルスのファン”として、…

私たちはそれぞれのストーリーの中の

一プレーヤーでもある訳ですが、

 

シガラミの無い場に入って、

誰かに向かって自己を語るとき、

私たちはプレーヤー目線より首一つ高いところ、

 

つまり、

いくつかのストーリーを俯瞰できる“メタな視点”で

自己を見る事が、出来ているのだろうと思います。

 

そしてそんな視点から語ることで、

後悔するリスクの小さい、より納得感が高い決定を

引き出すことが出来るようになる、というのが、

私の、経験的に得ている結論です。

 

この“メタな視点”の下では、

個々のストーリーの中の多様な“自分”は、

ストーリーの中で無意識に自分を縛っている枠を離れて

自由な語りを開始し、

 

そこではストーリーを超えて通底する自己が持つ

“ホンネ”とか“大事にしたいこと”とか“願望”などが、

日常の状態よりも“出てきやすい”、

つまり“意識に上りやすく”なっているのだろうと

考えられるのです。

 

なので特に重要になってくるのが、語る中で沸き上がる

感情的な“しっくり感”や“充実した気分、また

その対極にある“違和感”とか“失望感”の様な

“心のかたち”を現わすところです。

 

そこには間違いなく、語り手自身の価値観や生き方が

立ち現れてきているはずで、

意思決定の際に、絶対に無視してはいけない何かが

ここに見えているのだと思います。

 

カウンセラーの様なプロに頼るのでなく、

ただ、自分を正直に語っていく中で、

 

ここを確かめることが出来るところが、

“ストーリーテリング”の大きな利点ではないかと

私は思っています。

 

アフリカ駐在の折、

自分のウチにある複数の声が衝突し、

思い悩んだけれども、

最終的には双方の間で折り合いをつけ、

自分としてはまずまず

納得できる形で決着ができた。

 

という話を前のブログに書きました。

https://ameblo.jp/c-b-collaboration/entry-12797113300.html

 

かつての上司らしき人の声と、

父親の声が自分の中で衝突し、

 

その時の文脈の中で、

どうしようどうしようともがく中に、

異なる声を両立させうる

“新しい自分”が出現していたのだと、

語りながら段々分かってきました。

 

自分のウチ側で

2つの声が飛び交っていたのは確かですが、

これらの声はあくまで、

自分のウチの声であって、

 

現実にはかつての上司も父親も、

それらの声の一片すら知る訳もなく、

当然ながら、

発言の責任など、

取ってくれる訳もありません。

 

かつての上司は、

職場や仕事を舞台とした私のひとつの

ストーリーのメインな登場人物であり、

 

父は幼少の頃からの

家庭や私生活を舞台とする私の

別のストーリーに、

欠かすことが出来ない登場人物です。

 

とはいえそれぞれの声は、

私の頭の中にのみ“実在“する

想像上の声であり、本物ではないわけです。

 

しかし、その想像上の存在が、

私の人生に対して

とてつもなく大きな影響を

及ぼしていることになります。

 

つまり、こんな風に言えるのだと思います。

 

現代を生きる私たちは、

職場のストーリー、

日常生活のストーリー、

仲間との間に生まれるストーリー、

親との間のストーリー、

子育てのストーリー等、

 

多様なストーリーを自分のウチ側に

同時展開させていて、

場面場面で

それらのストーリーが交差する中で、

バランスを取ったり、

 

様々に調整を加えながら、

人生を送っているのだ、と。

 

自分のウチ側に現れてくる登場人物たちは、

そこでは確かに想像上の存在だけれども、

大方の場合、それら登場人物と私達は

現実世界でも繋がっている訳で、

 

私たちは、それらの“本物”とか“本物を含めた

組織や社会“とのやり取りを通して、

自分の知識を確かめたり、

想定していた仮説を修正したり

自己に関わる認識を改めたりしている

とも言えるでしょう。

 

販売担当者、主任、ITセミナー受講者、

父親、PTA役員、等様々な役を

引き受けて生きている私達現代人は

 

その場その場で自らが持つ「顔」に対応した

複数の物語を

同時並行的にウチ側に展開させていて、

 

現実世界とのやりとりを取りながらも、

ウチにある多様なストーリーで

「役」を担う自分を

何とか一貫した存在とすべく、

奮闘している存在、

とも言えるのだと思います。

 

その意味で「自己」は、

自分とつながって展開する

多様なストーリーの統合的な存在

と言えます。

 

そしてその“統合”をどうやってするかが、

現代に生きる個人の

重要で深刻な課題なのだと思います。

 

 

 

 

 

ストーリーテリングは

自分のウチ側に起こる対話の

可視化プロセスとも言えます。

 

アフリカ駐在の時に、

日本人補習校の運営を巡って、

時の大使と対立したことがありました。

(私は日本人会の補習校担当でした)

 

一部の子供たちを

学校から排除しようとする“御意向”に

「反対」を表明したもので、

当時の自分としては譲りたくないテーマでした。

 

“正義”は自分の側にあると確信していたし、

声は上げずとも、

共感してくれる人は少なくありませんでした。

 

とはいえ、商社の駐在員という当時の立場を考えれば、

大使との対立は当に愚の骨頂でした。

 

自分の中には大きな葛藤が起こり、

折れるか、戦うか、悩んだ末に

最終的には“正義”を選択して大使の逆鱗に触れ、

 

日本人会全体、そして最後は本省までを巻き込んだ

2か月間の抗争の挙句、

最後は大使に帰国命令が出されて、決着しました。

 

折れるか、戦うか。

“バカなことはやめとけ、すいませんの一言で納めろ”

と言う声と、

“正義を譲るな、絶対に負けるな”という声が

自分の内側で、ずっと戦っていました。

 

“やめとけ”の声は、かつての自分の上司の声みたいでした。

正体がイマイチ不鮮明だけど大きな声でした。

そして“負けるな”の方は-こっちは明らかに-

自分の父親の声でした。

 

当時父とは色々と確執もあり、あまり連絡もとって

いなかったのですが、

このときばかりは、

父親というウチにある強力な援軍を感じたものでした。

 

“企業人”として無難にコトを収めようとする自分と

“父親から正義を学んで成長してきた“自分との

葛藤が、先輩、父親の声になって

自分の中でぶつかり合っていたのでした。

 

“企業人”として生きる自分には、

企業人としてのストーリーがあり、

その延長上にはそこに相応しい(と思われる)選択があります。

 

ここでは、そこに相応しい選択が

幼少から築かれてきた自分のストーリーと衝突を起こし、

最後は“企業人の自分”が一歩退いた形で終結したのでした。

 

こう書くと、自分の中で白黒をはっきりさせたかの様ですが、

この時自分がやったことは、

自分には多くの隠れ支持者がおり(これは真実です)、

そのことが自社のビジネスを守り、

会社の為に必要な行動だった、という

社内で自分を正当化するストーリー作りでした。

(結局公表しませんでしたが)

 

それは“言い訳づくり”というより、

自分の内側で衝突していた2つのストーリーに、

“折り合い”をつけていた、と言う方が正しそうです。

 

自分を守るためにそう考えるしかなかった、

とも言えますが、

自分の中で衝突してしまった2つの自分を両立させる

新たな“自分づくり”をしていたのだと

言うことも出来ると思います。

 

以上は、あるストーリーテリングの場で

自分が語った『過去の葛藤体験』です。

 

その時は勿論必死でしたが、

改めてストーリーとして語ってみることで、

自分の内側に起きていたことが、こんな風に

「見える化」されたのでした。

 

語ってみて、

ああ、そういう事だったのかと、分かったことで、

一歩“自分らしい”生き方に

近づくことが出来ているのだと思います。