チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる -17ページ目

チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

“少子化“が語られる際にしばしば「人口ピラミッド」
の絵が示されます。
(あれはどう見てもピラミッドではないのですが) 

 

団塊の世代である68-69歳あたりにピークがあり、
そこから暫く減少となるものの、

団塊ジュニアと言われる44-45歳(’73-74年生まれあたり)に
次のピークが現れ、
その下は逆ピラミッドの様に年々細くなっていきます。

 

この形は現在の多くの職場にそのまま反映されています。 

 

たとえば私が昨年仕事で関わったある職場は、
課長(45歳)、課員(50代 2名、40代 2名、30代 1名、
20代 3名- うち2名は契約社員)といった年齢構成でした。

 

40代のメンバー2名も実は課長より年上で、
かなりトップヘビーな状態だと分かります。

 

この状況は確かに大変なのですが、本当の問題はこれからです。

 

例えば2030年にこれがどうなるか。


若手が大量に入ってきて大幅に若返っている、などと望むのは
全く問題外です。

 

むしろこんな感じが見透せます。

 

課長(45歳)、課員(70代 1名、60代 2名、50代 3名、
40代 1名、30代ゼロ、20代 2名-うち1名は外国人…)。

 

トップヘビーな状態が更に進むと共に、
世代間の距離が拡大しています。

 

少子化が進展する一方で年金の財源が限られている現実を考えれば、
定年が事実上撤廃され、
減額された年金額を補充すべく多くの高齢者が職場に留まることは
必然でしょう。 

 

その結果、20代から70代と、
生まれが半世紀近く違うメンバーが机を並べて仕事をする、
という状況がごく当たり前に出現してきます。

 

今でさえ顕在化している意識のギャップが、
一層顕著に現れてくるのは、まず間違いないところです。

 

そこで問われるのが、リーダーの情報管理力、そして
それを実現する場づくりの力です。

 

別の表現をするなら、職場内の知識流通をマネジメントする能力です。

 

つまり自分の指示や思いをメンバーに伝えるばかりでなく、
Aさんの知識や経験を引き出してBさんに伝えたり、
CさんとDさんの知恵を繋げたりという、
メンバーの間の情報流通を活性化させる力です。

 

と、書くのは容易いですが、現実の世代間には
かなり厄介な問題が横たわっています。

 

例えば職場の若手社員の不満を聞くと、ITリテラシーの低い
年配社員から、自分が“出来ない“ことを理由に、
仕事を押し付けられた、とか、仕事を増やされた、
といった話によく出会います。

 

今日現在既に顕在化しているこうした問題が、
今後更に拡大することは容易に想像できるところです。 

 

年配社員の側にも複雑な思いが溜まっています。

 

まず大体において自分の上司は、かつての部下や後輩です。
自分たちが若手社員や契約社員たちと同列に並べられて指示を
受けるのは、(状況が)分かっていても簡単に納得はできないものです。 

 

まして、自分が苦手と思うような働き方を強いられれば、
ストレスも溜まり、愚痴も出てきます。

 

これらは限られた事例ですが、異なる世代が一緒に何かを
しようとすると、複雑な形の心理ギャップがどうしても
沢山生まれてしまいます。

 

そしてそれらを解決していくためには、
弱みを含めて相手をトータルに認めていけるような、
異文化コミュニケーションの能力や、メンバーの間に相互認知の
瞬間を生み出せるような場づくりが必要です。 

 

結局メンバー間の関係づくりをしっかりやっていかなければ、
何をやってもダメなのだと思います。

 

まもなく日本の職場は大変な時代に突入します。 


そこを乗り切るには、これまで同様の職場観や仕事観を償却して、
新しい発想の上での協働を構築していかなければなりません。 

 

そしてそのためには、これまでにはそれほど必要とされてこなかった、
新たな形のリーダーシップが求められるのだと思います。

 

社会人2-3年目の若手達の話を聞いていると、


“だからゆとりは・・・”と中高年者から決めつけられ、

憮然となることがよくある様です。

 

一方販売の現場でグループリーダーを務めるある女性は、

伝えたいことが若手にうまく伝わらないと、

“もどかしさ”を訴えていました。 

 

更に定年が近いある友人は、

自らの知を若手に伝承することを会社から止められている、

と寂しそうに話していました。

 

どのケースも、世代間のコミュニケーションが良いようには

見えません。 

それでは互いの知も繋がらないでしょう。 

これは昨今広く見られる傾向です。

 

そしてこの傾向が、日本企業の中にどんどん進んでいる様に、

私には思えてなりません。

 

もち論理由はあります。 

 

いまの中堅以上の社員が仕事を覚えた修行時代の時期と今とでは、

職場の環境や人間関係も、

また仕事の進め方や求められる知の姿も異なっています。

 

仕事の一つ一つを手作りで進めてきた世代からみると、

何でも答えを求めようとする(そういう風に見える)今の若手を

“ゆとり”と括りたくなるのは、無理もないのかもしれません。 

 

団塊の世代が引退するという、

いわゆる”2007年問題”が叫ばれた頃は、

ベテランと若手を組ませて知識伝承を進めようとしたこともありました。 

 

しかし思ったほどには成果が上がらず、逆に若手の不満を膨らませ、

人材流出に繋がったケースもありました。 

 

こんな失敗体験を重ねるうちに、

ベテランの伝承を止めるような傾向が生まれてきたのは、

ある程度頷けるところがあります。

 

とはいえ、それでよいかと言えば、勿論そうではないでしょう。 

組織とは外部とのやりとりを繰り返しながら様々に“学習”を繰り返し

自らの競争力を維持していく存在です。

 

うまくいかなかったビジネスがあったとしても、

その教訓から学び次に備えられるからこそ、チャンスが生まれてきます。 

しかしそれらはすべて、

組織内部の知が有機的に繋がりあって始めて、可能になる話なのです。

 

問われているのは、組織内部で蓄積された知を伝播させる組織の能力です。 

ITの時代になり知の断片化が進み、仕事の知の性格が、

そして仕事のやり方や進め方が大きく変わってしまい、

従来のやり方で知を伝播させることが難しくなりました。 

 

若手はベテランの知を無意味と感じ、

ベテランが若手の働く姿勢に首をかしげる状態のままでは、

実践に活きる知を伝播させることは出来ません。

 

知を繋げることは大切だ。

だからベテランや中堅がしっかり知を伝えないといけない。

しかし、しばしばそれが旧態依然の押しつけになったり、

新しい発想の芽を摘んでしまうことが問題なのです。

 

深刻なのは、その旧態依然を押し付けている犯人が犯行自体に

気づかない、いや、気づくことが出来ない事です。

ベテランに“伝承するな”とストップをかける企業の苦悩は、

おそらくこの辺りにあるのでしょう。

 

今必要なのは、蓄積された有益な知の伝播が必要だ、という

共通了解を組織内に取り戻すこと。

そしてそのための技術-知識伝播の正しい方法論を、

企業内に広げていくことです。 

 

技術や人材もしかりですが、経験の知こそは企業固有の資産であり、

こればかりは簡単に買ってくることも、

教えてもらうこともできないものです。 

 

経験の知を今の時代文脈の中に活かし、価値に変えられる組織が、

継続性を維持し生き残っていくでしょう。 

 

逆に経験の知を埋もらせてしまう組織は、

今後非常に厳しい時代に入らざるを得ないと思います。

 

(知識伝播の方法については、今後この項で少しずつアップしていきます)

 

 

「仕事知」セミナー第21回では、“仮説的推論”について考えました。

 

”仮説的推論“というと難しいイメージですが、
要は、おやっと思うような出来事に出会った時に、
こんなことが起きてたんじゃないかな、と想像してみることです。

 

たとえば、職場の女性が髪型を変えたのを見て、
好きな人でもできたんじゃないか、と想像を巡らす様なケースです。

 

ですが、それだけだと「仕事知」探求にならないので、
ちょっと違ったアプローチをしてみました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

ロジカルシンキングの代表選手に「演繹法」というのがあります。

 

人間は動物だ。
あべ君は人間だ。
しかるにあべ君は動物だ。 
というのは三段論法と呼ばれる、演繹法の典型です。

 

少し応用に進むと、

劣等感は人間を成長させる。
かのイチローも劣等感に苛まされた頃があったという。
君がいま悩んでいるのは、まさに成長途上にあるということさ。

 

最初に一般法則(コード)を示し、それに則って意味構築を
行っていくのが、この図式です。

 

仕事の世界だと、例えばマクドナルドの窓口業務のように、
最初に「いらっしゃいませ」を、それから「ご注文は何になさいますか」・・
手順がすべて決められていて、それに基づいて作業(INPUT)すれば、
想定されたOUTPUTにたどり着けるのがこの形です。

 

新人時代の仕事、パート、アルバイトにお願いする仕事などは、
“演繹法”が中心となると言っていいでしょう。

 

次の「帰納法」は、ロジカルシンキングのもう一つの代表選手です。

 

A君はへそがある。
Bさんもへそがある。
C君もへそがある。
ならばD君にもへそがあるだろう。

 

仕事の世界なら、
A君は、仕事が早く正確で、上司に頼られるようになった。
Bさんは地味な仕事を忍耐強く受けてきて、重宝されるようになった。
Cさんは、常に工夫で仕事の質を高めているので、評価されている。
やはり実践で信頼を得る様な働き方をしないといけない。

 

現実のINPUTとOUTPUT事例から、一般則(原理原則)を感知し、
期待されているOUTPUTが出せるようなINPUTを自ら入れて
いけるアプローチが、帰納法と言えるでしょう。

 

マニュアルの新人時代を超えると、仕事は大部分がこの領域で、
現実から学びながら一般則を引き出していく力が
現場では問われることになります。

 

ここまでを整理すると、演繹法では一般則と予測可能なINPUTが、
帰納法ではINPUTとOUTPUTの(学習に十分な量の)組み合わせが
与えられ、そこから展開していることが分かります。

 

そしてどちらも、一般則(原理原則)をまずは手に入れて、自身の
次の行動につなげようとする方向性を持っています。

 

これらに対して“仮説的推論”は、与えられているものが
起きたこと/ある事象/ある出来事、等、つまりOUTPUTのみです。 

 

このOUTPUTからINPUTやそこに働く法則を見ようという方向です。


どうするかというと、ある事象に対して
「もしそうだとすれば、(その事象が)さもありなん、と納得できる原因」
を考えていきます。

 

“職場の女性が髪型を変えた”という事象であれば、

 

1. 好きな人ができた(気持ちの変化が行動に現れた)。
2. 週末のテニスの試合に備えて、動きやすいようにした。
3. 憧れている女優がショートにしたので、自分もしたくなった
・ ・・
など、いくらでも思いつきそうです。実際に可能性は無数にあります。

 

このとき人間の陥りやすい傾向として、
気になっている女性が対象だと、
上の1の可能性ばかりに囚われてしまう事です。

 

実は仕事もまったく同様です。 

 

何か“おやっ“と思うことが起きても、
ついつい、自分たちの慣れたシナリオで考えてしまい、
様々な可能性を切り捨ててしまい、ぐるぐると同じパターンで
考える傾向が強くあります。

 

それを避けるためには、
日常の中に小さいことでも“おやっ”と思うことが出てきたら、
なるべく部外者、門外漢にも加わってもらって、
“仮説的推論”を出していくことです。

 

それをこまめにやっていくことで、
自分たちが陥りがちな思考の罠から抜け出れます。

 

そして加えて言えば、それを考える作業は結構楽しいです。

 

昨日も参加者から出てきた

「部下が一斉に辞めたいと言い出した」
というある顧客のケースを一緒に考えて、大いに盛り上がりました。

 

これ以上書くとまた長いので、この辺にしておきますが、

 

最後に締めておくと、
“仮説的推論”は推論を出したあと、オーソドックスなロジカルの導線に戻り、
可能性を検証していくことで、具体的に意味ある行動への道を開く
ものだということです。

 

まさか、そんな馬鹿な、と思っていたことが実は現実に起きていた、
ということは、“仮説的推論“を立てて考えていけば、
大抵はどこかで感知され、最悪の状況には陥らずにすむはずです。

 

だからもし、これをやっておけば
東芝やシャープも今とは随分違った展開だったんじゃないか、などと
勝手に想像を膨らませています。

 

 

丁度2年前の3月にスタートした『仕事知』探求セミナーは、
昨日で20回を数えました。

 

 

僕自身の体験的な知識が縦糸だとすれば、
場をつくるために毎回集める様々な知見と参加者の経験知識、
そしてこの場での対話が横糸となって、
この場で色々な発見が生み出されてきました。

 

これまで参加してくださった方々、
参加は叶わなかったけれど、色々と応援してくださった方々に
感謝です。

 

今年からは奇数月開催(年6回)としましたが、
これからも続けていきます。

 

さて今回ですが、テーマは“模倣”でした。
新たな仕事知を身につけたり、後輩や同僚に仕事を習得してもらおうと
するときに、模倣は通常外せないものです。

 

これが昨今マニュアル化されて、先輩から直(じか)に指導される
機会が減ってきた、マネをしようにも手本が見えなくなった、
などといわれているのですが、

 

実際のところ“模倣”がどんな意味を持っているのか、
マニュアルじゃダメで、模倣(直接やってみせる)じゃないと
伝わらないものとは何なのか、
一度ちゃんと考えたいと、前々から思っていました。

 

認知科学の領域では、
模倣には2つの適応的意義がある、と言われています。

 

一つ目は道具の作り方や使い方の習得。
私たちが一般的に理解している“模倣(まね)”は、こっちの
意味が中心だと言っていいでしょう。

 

もう一つは、他者とのコミュニケーションの基盤をつくること。
つまり、他者の意図や願望、信じていることなど、
表面に見えてこない心の内側を知る上で、模倣が重要な役割を
果たしている、というものです。

 

今回のセミナーでも、私が示したある行動を参加者に模倣して
もらったのですが、

 

その行動を模倣するための“手続き的な“情報(これは動作が
実際に行われている部分で示されている)に加えて、
参加者は私の表情や体の動き、など
“手続き”とは直接関係がない身体の他の部分にも
注意を向けていたことが確認出来ました。

 

非言語コミュニケーションの知見によれば、
人は他者の言動や行動に触れる際、その人の表情や身振り手振りなど
非言語で現れる“情報”から
表に出てこない心の内側(つまり意図や願望、信念など)についての
了解を高めている、と言われます。

 

注意すべきはこの“了解”を高めるプロセスで、
私たちは“模倣的に”観察する、
つまり自分も同じことをやる気持ちで相手を観察することが出来る、
のだそうで、これは“共感的”な関わり方、と言ってもよいのだと思います。

 

この“模倣的”(共感的)な観察は、おそらく徐々に上達できるもので、
集団内の複数の他者の意図や願望が感じとれるようになると、
組織や集団内での行動が、よりこなれた高効率、高精度のものになると
思われる訳です。

 

つまり“模倣”の力(=共感的な観察力)が高まることで、
場を取り巻く他者の視点を自身の内側に取り込んで、
より環境に適した行動が出来るようになる、

すなわち、より適切なコミュニケーションの力がついてくると、
そう考えてよいのだと思います。
(実際、サラリーマンとしての熟達とは、こうした側面を大いに含みます)

 

今回のセミナーでは、上のテーマに加えて“模倣”の思考的な意義、
つまり、ある環境の中で人間が思考を展開させる際の体の動きと、
それを“模倣的に”観ることの意味も取り上げたのですが、
その件は、また別の機会に書ければと思います。

 

昨日は模倣のコミュニケーション的な意義に焦点をあてて、
世代を超えて色々なディスカッションができ、本当に
(また始めて参加の方のフレッシュな意見も聞けて)楽しい時間でした。

 

参加の皆さま、有難うございました。

 

次回は5月23日(火)。テーマは決まり次第、また告示します。

 

公開が始まってから、もう随分経ったのですが、

遠藤周作原作、マーティンスコセッシ監督の映画「沈黙」を

昨日嫁さんと一緒に、漸く見てこれました。

 

キリスト教は、また一神教は、日本という風土に馴染むのか。

 

この世界を、崇高な理想を持つ偉大な創造主が作ったものと捉え、

その規定の上に人間の生き方や物事の道理を考えようとする

そういう前提は、日本人に受け入れ可能なものなのか?

 

明示こそされていませんが、僕の視点で見たこの映画の

主題は、そのあたりにあるように感じました。

 

イエズス会の宣教師たちが、熱い思いで命懸けの布教をする。

 

だが、それを受け止め自ら信仰の道に入ってくる日本人の

村人達が理解するキリスト教は、

宣教師たちが伝えたい信仰とは到底似つかないもの。

 

そもそもの自然観、人間観、世界観が異なるこの土地に

布教を試みることは困難で、

宣教師達の意図がどれほどに素晴らしいものだとしても、

結果として社会に混乱を引き起こし、人々の不幸を招いていく。

 

欧米とは大きく異なる風土と文化を持つこの土地に、

キリスト教が根っこを張るのは、やはり相当に無理がありそうだ。

 

映画から僕が捉えたメッセージは、大方こんな感じでした。

 

面白いと思うのは、そこまで描ききっている遠藤周作自身が

クリスチャンだということ。

 

つまり、彼は現代にも通じる普遍的な価値を含むキリスト教的な

価値観を当に重要なものと受け入れつつも、

この国(土地)をこの国らしくしている文化の壁が、

それを拒んでしまう、

そういう現実も受け入れざるをえない。

 

遠藤は自分の内にあるその葛藤を、この作品の中に

描きたかったのかもしれない、とそんな風に思いました。

 

このテーマは、日本が近代化を進めてきた過程でも、

また折に触れて日本という国の未来を考えてきた際にも、

何度も何度も突きつけられてきたことだし、

これからも間違いなくそうなのでしょう。

 

そして21世紀になり、こうしたことを考える為のトレーニングは、

これからの日本人に、これまでより格段に強く

要求される様になってきているんじゃないか。

 

見終わって暫く経って、そんな感覚が膨らんできました。

 

映画の紹介はここ http://chinmoku.jp/