チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる -16ページ目

チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

先輩・ベテランの知は、組織を維持・発展させる上で

必須となる沢山の要素を含んでいます。

 

ところがそれらの知は、

そのままの形で若手・後輩が使おうとしても

そうそう役には立たないし、

 

無理やり押し付けたりすれば、

組織の風土すら悪化させかねない、という話をしてきました。

 

 

それらの知は、彼ら・彼女らが生きてきた文脈の中で

ある意味”完結された”知であるがために、

 

今まさに実践している後輩・若手の目には、

無駄の多いものに映ったり、意味が不明なものと

なることが少なくありません。

 

こうした知を後輩・若手が受け取るためには、

”完結”された丸ごとの知を

細切れの形にしていく必要がある、という話もしてきました。

 

とはいえ、

一体どうやったら知識を細切れにすることなどできるのか。 

そう疑問を持たれた方も多いでしょう。 

 

 

先に述べた様に、実践者にとって有益な知の大部分は、

ベテラン・先輩がほとんど意識できていない、

あるいは特別な知識と捉えてもいないようなところに

”潜んで”います。

 

であれば、ベテラン・先輩たちが、実践者にとって有益な部分を

選り分けて細切れにする作業など、

できる道理がないでしょう。

 

 

つまりこの作業は、

実践的な知識ニーズを抱えている後輩・若手と

潜在的な実践知を豊富に持っている先輩・ベテランの

共同作業で進めていかなければいけません。 

 

そして先輩・ベテランには、その共同作業が可能となるような

コミュニケーションの取り方、

いわば「関わりの技法」が求められてくる訳です。

 

 

その具体的な方法は、項を改めて詳しく説明するとして、

まずはどうやったら知が細切れになるのか、

そのイメージをかいつまんで説明します。 

 

細切れを作る方法は大別して2つあり、

ひとつは”つかみ取り”、

そしてもうひとつは”分子結合”です。 

 

いずれの場合も先輩=後輩の間でまずは相互作用を起こし、

それが進展する中で

 

後輩が”有益な”知(分解された知)をつかみ取るか、

新しい化合物(双方の分解された知が結合して)を

つくる形で先輩の知を頂く、

というのがそのしくみです。

 

 

この相互作用を起こしていく際に重要なのが”文脈”です。 

 

相互作用は必ず後輩側(=”実践者”側)の実践の文脈の中で

起こされなければいけません。

ここがブレては、折角のやり取りが台無しになってしまうのです。

 

この原則を忠実に守った上で、

先輩・ベテランが様々な経験の知を開示することで、

 

必要な”細切れの知”のつかみ取りは可能となり、

また、有益な知が後輩たちの適切な知と”分子結合”を起こして、

活かされる知への再生が現実化されるのです。

 

 

様々な価値を生んだり、

困難な問題を解決してきた”実績ある”知も、

そのままの形で使おうとするとうまくいかないばかりか、

 

周囲と様々な摩擦を起こしかねない、という話を

前回お伝えしました。 

 

ではどうしてそうなってしまったのでしょうか。 

 

これは仕事に使われる知識自体が変化した影響も勿論ながら、

知の使われ方、活用のされ方が

変わってきたからではないかと、私は思っています。

 

実績を積んだ上司・先輩の知を丸ごと頂いてきて、

それを現場にフィットさせていく様な”調整的”作業で、

かつての仕事の多くは成立していました。 

 

例えば、ある製品を世の中に出していくためには、

性能を出すノウハウやコスト低減の方法など

 

先達がやってきたことの延長線に自分の仕事を考えることで、

大方の対応が可能だったのです。

 

ところが20世紀の終わりころからは、多様なテーマ、

 

例えば環境問題とか情報セキュリティーとか調達業者のモラル等、

複雑なファクターが様々な方面から注入され始めました。 

 

先輩方が経験してこなかった要素が入れ替わり立ち代わり、

ある時は主役として、またある時はわき役として表れるようになり

無視しえないインパクトを持つようになってきたのです。

 

この様な時代になってくると、

一つの体系として”完成”された先輩の知は、

体裁としてはまとまっていたとしても、そのまま使うのは困難です。 

 

しかしだからと言って、不必要になる訳ではありません。

 

蓄積された知には複雑な問題の本質を捉えたり、

未知の領域に入っていく際の道筋を示したりする、

根本において有益なものが凝縮されている状況に変化はないからです。

 

なのでいま求められてきているのは

体系”として完成された知よりむしろ、

 

実践者がニーズに応じて取り出し、

適当な形にアジャストして活用できる様な”細切れの知”、

いわば”かけらのような知”です。

 

実践者が

環境問題だ、セキュリティーだ、と多様な課題に直面しながら

仕事を進めていく際に、

 

有難い知恵として適材適所で活かされる

ような知

- 例えれば私達が日常でしばしば”ことわざ”や”格言”を

参照しているように – が、

求められ始めていると考えられる訳です。

実践を繰り返し、試行錯誤を重ね、失敗を反省し、
更に挑戦していく中で、仕事の力は磨かれていきます。

 

いくつもの場を経験し、数多くの問題を乗り越えてくると、
新たな状況に出会っても、自分なりに解決の糸口を見つけ、
何とかこなしていける術が身についてくるものです。

 

仕事には本来そういう側面があるし、
今もその本質に変化はありません。

 

だから様々な経験を積んできたベテランの知が、組織の重要な
資産であることは、いうまでもないことです。

 

とはいえ昨今の問題は、先輩方が長年蓄積してきた実践の知が
そのままの形では使い物にならなくなってきたこと。

 

世の中の変化のスピードがあまりに早く、組織が学習して得た
仕事の知の賞味期限が、どんどん短くなってきている現実です。

 

つまり様々な仕事は一見前例もお手本もない、全く新しいものに
見えるものばかりとなり、

 

そこに先輩の培ったノウハウや知恵を持ち込んでも、
殆ど的外れにしか見えなくなってきているのです。

 

だから過去の仕事ですばらしい実績を上げてきたベテランのお歴々も、
自分の知識がそのまま後輩たちの役にたつと考えているとしたら、
それは一刻も早く、修正しなければなりません。

 

ベテランがしたり顔で提示する知の大部分は、今や“検索”で
立ちどころに調べられるもので、情報価値は殆どないと知るべきです。

 

さらに、じゃあ、といって過去の成功物語を語られても、
これも聞く側からすれば、

単なる自慢話に付き合わされている感覚にしかならないでしょう。
(このあたりは今のベテランも経験済で、十分共感できるでしょう)

 

つまり、
ベテランを始め豊富な経験を持つ者が心得ておくべきは、
自分が「有益な知」と思っている知の大部分が、後輩・若手たちに
とっては大した意味を持っておらず、

 

逆に、
普段は自分の意識から殆ど外れている様な、
一見些末で何でもないと思える知識が、
若手・次世代にとっては、この上ない宝の山となりうる現実です。

 

学習というのは面白いもので、
相手が一生懸命“語ろうとしている”ことは、大して重要に思われない
一方で、

 

相手が何気なく、極くごく当たり前に語っている一言に、
心の底から“なるほど”と唸ってしまう瞬間を
私たちはしばしば経験しています。

 

こうした状態は、
日常しょっちゅう顔を合わせているやりとりしている同士では起こりにくく

むしろ、育った環境や住んでる世界に距離がある同士の会話から
生まれる傾向があります。

 

若手とベテラン、異なる世代間での仕事のコミュニケーションは
まさにそういう側面が強いと考えるべきでしょう。

 

ベテランに求められるのは、彼(女)らが持っている豊富な「知」を、
その「知」を活用する側のニーズに適う形で発信することです。

 

つまり「知」を活用する側、
すなわちリアルタイムで実践の場に立つその本人が、
ベテランの「知」を消化し、自らの血肉に出来るか否かが
問われているのです。

 

ベテランの豊富な経験の「知」が、若手・後輩等実践者のニーズに
応える形で供給されるなら、言うまでもなくその知は個人や
組織にとっての力となるはずです。

 

逆にそれらの「知」が、実践者のニーズとズレた形で与えられたり、
実践者が消化出来ない形で届けられるなら、時間は浪費され、


無駄にエネルギーも奪われ、
挙句は人間関係まで、おかしくなってしまうかもしれません。

 

それこそが最悪なのですが、
その最悪が今、いたるところで発生しています。

 

経験の「知」は力にも足枷にもなる。 
このことを私たちは、重々理解しておく必要があります。

 

 

 

昔と今とでは働き方がすっかり変わってしまった。

 

20年、30年と働いてきた人であれば、
そう感じたことが幾度もあるでしょう。

 

では一体何がどう変わったのか。
第22回「仕事知」探求セミナーでは、このテーマについて考えました。

 

そんなテーマだったせいか分かりませんが、
今回の参加者は仕事歴20-30年のベテラン揃いで、
各々の経験が色々と披露された、誠に味わい深い時間になりました。

 

仕事はどう変わったのか。 働き方はどう変化したのか。

 

「検索」、「MSオフィス」、「スマホ」等、
日常業務にもインパクトが大きそうな切り口をいくつか選び、
参加者のそれぞれが
それらの“普及前”と“現在”の働き方の違いについて
経験を出し合っていきました。

 

最初に考えてみたのは「検索」が無かった時代のこと。
どうだったっけなー、と、当初は中々思い出せません。
それくらい、「検索」は今や自然な動作の一部になっています。

 

「検索」が無かった時代は、新聞を読みあさったり、図書館に行ったり、
入門書を買ってまずは勉強したりしていた。

 

そういえば、‘90年代途中くらいまでは、それが当然でした。
分からない領域があって、辞書や百科事典にも書いていない
新しい情報なんかだと、途中で諦めたりもしていました。

 

知らない領域に入っていくことは、
大変な時間と労力、そしてしばしば無駄が強いられる事柄でした。

 

とはいえ、そうやって“無駄”に費やしている時間は、後で振り返ってみると
結構様々なことを勉強する時間だったり、ひとつのことを深く考える
契機でもあった気がします。 

 

意外な感じもしますが、これ、参加者に共通の了解でした。

 

MS オフィスも、今や仕事の全領域に関わっています。

パワーポイントが普及する前は、
プレゼンなんて言葉も、殆ど使われてなかったんじゃないか。

 

確かにそうです。 
会社に入った頃(私は’82年入社)には、“お客さんへのプレゼン”
なんて言葉、使ってませんでした。

 

パワポが普及するにつれ、グラフを入れろ、写真を使え、
フォントをどうしろ、アニメーションだ、何だと、
いつのまにかMS社の為に一生懸命やっている様なところがあります。

 

資料を作るにも、これらのソフトの特性に合わせて、
ああだこうだと思案している。 
気づいてみると、オフィスの「枠」が自分の思考の「枠」を作っています。

 

こんな具合に、暫くそれぞれの気づきを出し合ってみると、
驚くほど広い領域で、私たちの“行動”は、
技術革新の枠組みに“絡め取られてる”と気付かされます。

 

勿論便利な事柄も沢山あって、そのメリットを享受していると、
間違いなくそう言うことはできるのですが、


やはり“知らず知らずに”思考や行動が枠に囚われているのは、
気持ち悪い事です。

 

そして昨日の気づきの中で取分け印象に残ったのは、
「スマホ」が主役になるにつれて
どんどんフェードアウトを余儀なくされている“電話の会話”。

 

この件はもう指摘されて久しいテーマですが、
そのインパクトの大きさは、改めて意識しておく必要があると
昨日は痛感しました。

 

それはこんな問題意識です。

 

私たちが社会人になって、電話は多分最初の“難関”だったのではないか。
顔が見えない、始めて話す、更にどういう人だかまるで分からない相手と
きちんと意味を通じ合うことは、
実は相当のトレーニングが必要だった様に思います。

 

電話がビジネスの中核にあった時代は、誰もが日々一定の緊張感を
持って、そのトレーニングを受けることができました。

 

電話のやりとりから雑談を学び、言葉に出てこない相手の感情を察し、
言いにくい話の切り出し方を学習していたんではないかと。

 

その学びは、自分自身が体験する成功失敗ばかりでなく、
上司や先輩、しばしば隣の部隊のベテランなどから
吸収することが出来ていたものでした。

 

「スマホ」が多様なメッセージのやり取りを可能にし、大容量の
ファイルや画像も送付出来るようになり、“電話”はどんどん
窓際に追いやられてしまった。

 

音声情報の「電話」のやり取りが、文字情報中心の「メッセージ」に
変わっていった。


しかし、私たちの感じている変化は、明らかにそれ以上の
はるかに巨大なインパクトです。

 

生の人間の声は、リアルタイムの一期一会のやりとり。

 

その一瞬一瞬を生きる中にあった、感情のつかみ、
言いにくい何かを切り出す勇気、
戸惑い、後悔、突如現れる喜び、一体感、そしてそこからの展開。

 

更にそれらを通じての実践的な学習。

 

僕たちは元の黒電話の時代に戻ることはできないけれど、
黒電話時代に有って、今は無くなってしまったものを、
しっかりと意識し、

 

今の問題、
特に組織内外のコミュニケーションや関係性を復活していく上で、
必要な行動を探り、起こしていかなければいけないだろう。

そして昨日は、やるべきことのヒントが色々と現れてきた。

 

お陰さまで、誠に豊かな学びの時間を持つことができました。
沢山の気づきがありました。
改めて参加の皆さんに、心から感謝です。

 

2013年4月から、企業の定年は5年伸びて65歳になりました。


老舗企業の職場でも、年配社員が若手と机を並べて働いているシーンは
珍しくなくなってきました。

 

親子以上に年齢差がある同士が普通に並んで話しているのを見ると、
いよいよ多世代協働の時代が始まったと実感されます。

 

今60を少し過ぎた人たちの多くは、’70年代末頃に新卒で
社会人になりました。 


当時はハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授の書いた
“ジャパン アズ ナンバーワン”がアメリカでも話題になるなど、
日本人が自信を強めていける材料が豊富にあった時代でした。 

 

人々は年々豊かになることを実感できたし、
高度成長が過ぎたとは言え“頑張れば報われる“と、
当たり前に信じることのできた時代でした。

 

それから20年が過ぎた’90年代末に入社した人たちは、
現在丁度40を過ぎたあたりです。 


彼(女)らの新人時代は企業が苦境に喘ぎ、採用も抑えられていたので
同期の仲間も少なかった時代でした。 


社会全体が沈滞ムードに包まれ、先輩方が目の前で
リストラされていく姿を目の当たりにしながら、
結果を出さなければ生き残れない雰囲気の中で、
社会人としての“いろは”を学んだ世代でした。

 

そして今日、企業が人手不足となる中で思いがけず売り手市場で
社会人となった若手は、首尾よく志望先への就職がかなったものの、


先行きの不透明さや、目に見えない不安感に包まれ、
今よりBetter な何かを得よう、何かが得られるはずと、
多忙な中で心も落ち着かない日々を送っている様に見えます。

 

やるべきことが見えていて、「やれば出来る」と自分を鼓舞する
ことができた時代に育った60代。


「結果を出す」ことが強く求められる時代に育った40代。 


よりよい「最適解」を求めようと検索に明け暮れる20代-30代の若手達。 

 

新人時代の時代背景の違いを意識してみると、
仕事への向き合い方も、仕事とプライベートの線引きの仕方も、
知識習得に向けた感覚も、互いに大きく違うことは、
むしろ当然とも思えてきます。

 

例えば自らの経験値に基づいて市場の状況を判断しようとする60代の
人を見て、「少し検索すれば、もっといろいろなことが分かるのに…」と
20代の人々は感じるかもしれません。

 

逆に60代から見える20代の姿は、仕事の本質を理解しようとせず、
結果ばかり求めている様に感じるかもしれません。

 

何かと検索で“いい方法”を調べようとする若手を見た40代のマネージャーは、
「どうしてまずお客さんの話を聞きに行かないのか?」と、
不思議がるかもしれません。 

 

世代間でこれだけ大きな環境の差があると、
それぞれの行動がしばしば互いの想像力の範囲を超えて、
不可解なものになります。 

 

一体何を考えているのか分からない、という状況です。 


ですが、上記した通り、社会の雰囲気が異なる青年時代を送り、
環境も大きく異なる新人時代を送ってくると、一見では解釈不可能な
ほどの大きな認識のギャップが生まれうるという、

 

そのことに私たちは
そろそろ気づいておかなければいけなくなってきました。

 

同じ言葉を話し、同じ文化に育った同士であっても、
今の世代間ギャップは50年前のそれとは比べ物にならないほどに
大きくなっています。 

 

世代間協働は異文化コミュニケーションである。 


そのことを私たちは十二分に了解して、
次の時代に備えなければいけないのだと思います。

 

 

【第22回「仕事知」探求セミナー】のご案内

 

仕事の知を探求する第22回「仕事知」探求セミナーは

7月18日(火)です。 

詳しくは http://kokucheese.com/event/index/474868/

 

ご関心がありましたら、どうぞいらしてください。