チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる -15ページ目

チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

暫くお休みしていた『仕事知探究セミナー』ですが、

530日(水)に久々開催しました。

 

今回は私たちが普段使っている『直観』がどの様なものなのか、

これをパフォーマンス向上に繋げていくには、

どの様な方法が考えられるのか、

 

共に体験しながら考えてみました。

 

明治の大哲学者である西田幾多郎は、

人間の意識が統一されて

主も客も無くなっている状態を“純粋経験”と表現しました。

 

“純粋経験”の状態にある人は、

「知覚が厳密なる統一と連絡を保ち、

意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、

 

前の作用が自ら後者を惹起し

その間に思惟を入るべき少しの亀裂もない」

状態なのだと言います。 

 

我々もしばしば経験する“何かに没頭している”状態が、

“純粋経験”に近いのかもしれません。 

 

西田に言わせれば、

この“純粋経験”の状態こそが、

人間が真の実在として“世界”と一体となっている瞬間であり、

 

人間が持つある種“霊的な”力が発揮されうる状態である、

ということの様(難解な西田の本を、私はそう読んでいる、

ということですが)です。

 

今回このセミナーに備えるべく、

比較的最近話題になった以下の著書(いずれも米国で発刊)を

参照してみました。

 

 

1.『ファスト アンド スロー』ダニエル・カーネマン

2.『「洞察力」があらゆる問題を解決する』ゲイリー・クライン

 

2冊は“問題”に対処する際の「視点の置き方」や

「思考を活性化する」方法を豊富に示しており、

問題を解決に導く上で有益なものであることは、

疑いようがないものです。

 

例えばクラインの著書には、

“見えない問題を見抜く方法”として、

 

“出来事のつながり、に着目する方法“、

出来事の偶然の一致に着目する方法“、

”出来事の矛盾に着目する方法“等が

 

事例と共に紹介されていて、

身近な問題を考えていく上で、大いに参考となります。

 

これらが示している方法はいずれも、

起きている事象を観察し、

観察の中に見出せる特性や法則性を取り出して、

未知の領域の解釈に活用していこう、との方向を持っています。

(ただし『ファスト アンド スロー』はヒューマンエラーに

重点を置いています。) 

 

客観的に事態を捉え、何故なぜと、

問いを重ねて本質に辿り着いていこうという、

言ってしまえば“科学的”な姿勢が基盤にあると感じられます。

 

そうした姿勢は勿論外せないし、

大事であることは間違いないのですが、

結局私たちが“直観”といって期待している部分に

応えてくれるかというと、ちょっと違う気がします。

 

間違っているのではなくて、

それだけではまだ足りない、と思えるのです。

 

「木から落ちるリンゴを見て、ニュートンは万有引力を発見した」

という話は、

 

一時“作り話”といわれていたものが、

最近友人の日記が見つかって、

やっぱり本当だったことが分かってきているそうです。 

 

私もそうだろうな、と思います。 

 

その時ニュートンはまさに“純粋経験”の中にあって、

全く別物として認識されていた2つの事柄が

パッとつながる瞬間に出会ったのではないか。

 

ニュートンにとって既知の事柄であった天体同士の相互作用と、

目の前に展開しているリンゴの落下とが、

 

何かの拍子に一気に繋がりあった、

そしてニュートンはそのことの“意味に気づけた”ところが

凄かったのだろうと思うのです。

 

そんな仮説を基に、

今回参加者に体験してもらったワークを通じて得られた

“直観”についての私の解釈は、以下のような感じです。 

 

“直観”は、現実認識が“純粋経験”の中で

一気に化学反応を起こしている状態である。

元にある現実認識の水準が高ければ高いほど、

また、純粋経験の純度(密度)が高ければ高いほど、

“直観”の精度は高まる。 

 

よい直観は地道な現実観察が無いところには

中々働かないのだと思う一方、

観察や合理的な思考だけでは

たどり着けない領域を“突き抜ける”為には、

“純粋経験”という環境(状態)が必要なのだと、

そんな風に思えます。

 

ご参加いただいた皆様、

ワーク終了の後も貴重なご意見を下さり、

私自身の学習も大いに進展しました。 

 

上記の内容は、今回ワークで得られたところから、

思考を一歩進めた状態で書いています。 

有難いことです。

 

改めてお礼申し上げます。

 
”モノゴトを考える”とは、
自身の経験に根差した世界観の下に
「仮説」を立てていくことだと書きました。
 
そしてその世界観は、
自ら主体的に周囲と相互作用を起こしていく中にしか
形成されないものだとも、述べてきました。
 
“世界観”を形成していく上で、
先輩や上司という存在は極めて重要です。 
 
実践の場の相互作用に於いて、
環境の多くを共有し実践的にも様々な類似項を持つ先輩や上司からは、
共感を伴って伝わる情報が多くあるからです。 
 
以下世界観形成に不可欠な2つの要素について、
順に見ていこうと思います。
 
新しい職場に入った新人や若手が
先輩・上司に学ぶ際、
知識の基盤を作っていく第一の要素は「ことば」です。 
 
すなわち、
目の前で起きている仕事の展開や外部とのやり取り、
人々のふるまいや態度などを、
先輩・上司がどう評価し表現しているのか。 
 
組織の仕組みや業界の構造を、
どう意味づけし、いかに活用しているかが
「ことば」を中核に置いて学習されるからです。
 
実際、私たちの世界観は「ことば」を中心に構成されています。 
 
何と何を同じグループで括り、
どれとどれを分割して配置・階層化するかは
「ことば」の機能によって可能となるものです。 
 
こうした作業が
外界を理解する上で決定的に重要なのであり、
仕事の場面でのこうした「分別」こそが、常に求められているものです。 
 
特にキーとなる「ことば」は、
現実の中に起きる他者との相互作用でしか学習できないものです。 
 
ここは理屈だけでなくまさに身体感覚が重要で、
複雑なニュアンスを含めて現実を理解していく際には、
上司・先輩・同僚といった身近で経験を積んできている人の存在が
極めて重要になってくるのです。
 
「ことば」と並んで影響を及ぼす二つ目の要素は、
先輩方の「語り」です。 
 
職場はどこもユニークな集団であり、
その集団にいるからこそ経験出来る特殊な物語を
日々紡いでいる場でもあります。 
 
日常には様々なことが起こり、
その都度異なる対応を迫られている様に感じたりするものですが、

実はそこに繰り返されているパターンや、
同一の根っこを持った意思決定が為されています。 
 
このパターンの多くは無意識に学習されているもので、
現実に立ち会ったり、上司や先輩の「語り」を解釈したりする中で、
現れてくる価値観やパターンを私たちは身体化しています。 
 
「語り」のパターンは、
話の筋道レベルで理解したとしても不十分なものです。
 
より主観的で感情的なもの、感覚的なものまでを含んでいるもので、
だからこそ「共感」なしで「語り」に現れるパターンを
認識することは極めて困難です。 
 
この感覚には人との関係、信頼の築き方や距離の取り方など、
組織が継承する人間観や人間関係観も含まれてきます。
 
つまり様々な状況の中で他者とどのように信頼関係を築き、
その関係をどのように維持・発展させていくのか。 
壊れそうになった時にどうするのか、
どういう相手となら長く関係を継続できるのか、

といった組織の運命を決めるような中核的な知が
そこには含まれている訳です。 
 
「ことば」や「語り」、
またそれらの中から継承される人間観、人間関係観は
生の相互作用の中でしか習得されない種類の知です。 
 
そして「仮説」は理屈の上に描くものではなく、
「ことば」や「語り」に包み含まれた感覚やニュアンスと
整合して描かなければなりません。 

それが弱い仮説は「机上の空論」です。
 
強い組織は、こうした世界観を育むことができる仕組みを
備えているものだと、私は感じています。
 
上に説明してきた「ことば」や「語り」は、
相互的なやりとりの中に現れて始めて、
知識として伝播されていくものです。
 
相互的とは、
主体と主体が刺激しあって創造的な営みを成立させている関係です。
 
先輩や上司、ベテランという
職階的または年齢的に上の側にいる方々が、
 
相互作用の場をそう方向付ける”かかわり方”が、
今日重要性を急速に高めているのです。 

 

実践の当事者である個人が、

組織の知を受け継ぎながらも、ネット空間に広がる知とつながり、

 

従来の仕組みやプロセスを更新・発展させていく姿を

前回示しました。 

 

ネット上の知に信頼性の保証はないものの、

もっともらしい理論や、

即効性が高そうな代替案なども少なくないので、

 

個人がそれへの依存を高めていく傾向は

どうしても高まっていきます。

 

その際、

 

組織に蓄積されてきた知と、

外部の多様な知がバランスよく結合して、

新領域の開拓や個人の成長に寄与していくのであれば、

 

それはすばらしいことです。 

 

 

ですが現実は、

 

その場しのぎ的に知が消費されているケースが殆どで、

知と知がつながって創造的に…、という具合に進んでいくケースは

 

非常に少ない様に感じられます。

 

 

インターネットへの依存が高まるにつれて、

検索エンジンは仕事の中核ツールになってきました。

 

何らかの課題に出くわした際、

ちょっと検索にかければ類似ケースの記事や関連するデータ、

中にはズバリ解決策そのものが瞬時に示される時代です。 

 

 

人間の悲しい性というべきか。 

 

こうなってくると、物事の解決案が

”考えるべきもの”から”探すべきもの”となる傾向が

顕著に現れてきます。

 

 

その結果が、いま多くの若手・中堅に起こっている現実、

 

すなわち、

 

極度に失敗を恐れる傾向、

なるべく手間を減らそうという志向性、

安全・確実への志向性 などにつながっていると

 

私は感じています。

 

正解があるはずなのに誰も教えてくれない。 

自分に出来るのは、失敗しないようにすることだ、

という理屈でしょうか。

 

 

そしてそういった傾向が、

 

自らの頭でモノゴトを考えなくなる、

いや、考えられなくなるという、

何より深刻な事態を生み始めている様に思われます。

 

 

”モノゴト”を考えるとは、

 

単に特定の問題の解決案を見出す、とか、

新しいモノを作り出す、

というだけの話ではありません。 

 

それは、

自身の経験に根差した世界観の下に

仮説を立てる行為です。

 

そして

その世界観(=自らが住む世の中についての独自の解釈)は、

 

自ら当事者として関わる直(じか)の体験から構築される

ものの見方、考え方(すなわちパースペクティブ)の形成抜きでは、

絶対に得ることができないものです。

 

 

残念ながら、ネット空間に溢れる知をいくら吸収しても、

パースペクティブを形成することはできません。 

 

パースペクティブは自分という主体が、

自らを取り囲む社会や環境とのやりとりの中から、

 

また、自らが所属する組織を経由して、

その組織を取り囲む仕組みや制度と相互作用をしていく中でしか、

構築することができないものだからです。

 

上司/先輩といった人々が、

 

部下や後輩に伝えていかなければならない知とは、

その相互行為の中に伝わっていく類(たぐい)の知です。

 

そしてその知が、

若手、後進のパースペクティブ形成に寄与していくためには、

その形成を仕向けるようなかかわり方が、

今は求められてきています。

 

 

上司、先輩に”かかわりの技術が必要”と述べてきましたが、

 

それは、

”正解”をもらいに来た相手に材料(経験の知)を提供しつつ、

 

自分で答えを探し始めるように仕向ける技術、

といっても良いのかもしれません。 

 

次回に続けます。

 

 

 

 

 

 

インターネットが仕事の知に、

どの様な変化を起こしているのか? 

 

今日は、新入社員が始めて仕事を覚える際に

起きていることを探りながら、

このテーマに迫っていこうと思います。

 

今も多くの職場では、

まず上司や先輩が仕事のイロハを教え、

新人を徐々に実践の世界に導いています。 

 

新人はそこでトラブルに出会ったり、ミスで叱られたり、

分からないところを聞きまわったりしながら成長していく、

という展開が最も一般的です。

 

このパターンは、

多少仕事に慣れてからも暫くは保たれます。

 

ただ内容によって、

また新入社員が徐々に仕事に慣れてくるにつれて、

 

ITの活用、とりわけ”検索”を徐々に駆使し始める傾向が、

昨今はっきり出てきています。

 

つまりネット空間にある色々な関連情報を引き出して、

業務を効率化したり、

見通されるリスクを事前に確認したりと、

 

実務経験が浅い新人であっても

ネットにはしきりにアクセスし始めるのです。

 

当然ながらこうした行動は、

組織にも実践する本人にもプラスです。 

 

ただ一方でこの状況は、上司や先輩から提供された知が、

精度不明の多くの外部情報の中で

相対化される現実も生み出すことになります。 

 

ネットに現れる知は玉石混交ですが、

効率を高めるプロセスや、より安全な方法など、

実用に耐える工夫が溢れているのも事実だからです。

 

大量に入る外部情報との比較の中で、

先輩の方法が陳腐に見えたり、

 

自社のシステムが時代遅れに感じられる事態は、

今や避けられなくなっています。

 

こうした状況は、

学校を卒業して新たに社会に入ってきた人たち、

 

すなわち社会化の初期段階にある人たちに、

”集団的”より”個別的”に仕事の知を発達させる方法を

定着させていきます。

 

組織から提供される知と、

自らネット空間で拾い上げた知とを現実に適用させながら、

 

自身の知識体系を構築し始めることは、

まともな実践者にはごく自然に起きることだからです。

 

そして実は、ここで困ったことが起きてきます。

それらのアプローチが普通のこととなるにつれて、

 

組織内の協働の仕方や特有の管理手法に関する

組織独自の経験的な知までが、

相対化されてしてしまうことです。 

 

今日のネット空間は、

マネジメント論、組織論、リーダーシップ論に溢れており、

 

方々で紹介されている”成功の秘訣”が、

目前で展開している現実より上位のものとして認識される傾向が、

どうしても起きてしまうのです。

 

かつての組織の管理職 – 部長とか課長といった人たちは、

その組織特有のパースペクティブを、

比較的長い時間をかけて身に着け、

 

それが一定水準にあると認められて、

ポジションを任せられたものでした。 

 

それが昨今は、パースペクティブの独自性が薄められ、

外部にある”成功事例”や”勝ちパターン”などを基準に

行動を迫られる傾向が強まってしまいました。 

 

気の毒にも現在の管理職は、

外部で言及されている理想形との比較の下に、

多様な敵と戦って、頑張らざるを得なくなってきたのです。

 

ここで言うパースペクティブの変化とは、

情報環境の変化と殆ど同義です。 

 

かつての組織人は、その組織に特有の情報環境に囲まれ、

有形・無形のオリジナルデータベースを駆使できる熟達度合いが

ポジションに連動していたものでした。 

 

インターネットの普及は、

かつての情報環境の基盤にあった部分を崩してしまい、

 

働く一人一人を外部に広がる広大な知と結び付け、

仕事実践の空間を決定的に変えてしまったのです。

 

そして更に厄介なことに、

その変化は働く一人ひとりに根本的な変化を起こし始めています。 

 

かつての日本企業なら当たり前にもっていた

”集団的アイデンティティー”が急速に弱体化している現実です。

 

組織特有のパースペクティブ、モノの見方、考え方の共有

という現実こそが、

 

ほかならぬ”集団的アイデンティティー”の

ベースを形作っていたのですが、

今やその根底部分が、崩れてきてしまったからです。

 

”集団的アイデンティティー”

(=集団の中で合意をとるための知のデータベースの共有感覚)は、

 

何かを判断したり、意思決定したりする際の基盤となっていたものです。 

 

21世紀の社会人は、この”集団的アイデンティティー”を

育てることが難しくなってきており、

それに代わる個別アイデンティティーの構築が課題となってきています。

 

そしてこのことこそが、今の組織が直面している

困難の本質なのだと、私は考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事と呼ばれるものの多くは、

組織内部で分割されて担当レベルに”割り振ら”れ、

個別に役割や責任を分担される性格を持っています。

 

時々担当替えがあったりすると、

夫々の担当の間で”引き継いだり”、”引き受け”たり、

ということが為されます。 

 

そして、割り振られた仕事を実践するに際しては、

それを行う上で必要な「知」を”教え”たり”覚え”させたり、

ということも起こります。

 

それらの仕事が、

スーパーのレジ打ちとか、宅急便の配達業務のごとく、

作業として”標準化”された内容であれば、

 

引き受け”たり”覚え”たり、といった表現は十分適切です。 

 

しかし例えば、

多発するトラブルに悩んでいる顧客に独自の解決案を提示する

とか、

ユーザーの声を分析して新規サービスを考案する、

といった仕事を想定してみると、

 

教える”とか”引き継ぐ”と、一言で表現したとしても、

そう簡単に行きそうもないことは、大方想像がつくところです。

 

 

仕事で求められる知識やスキルを、

あたかもモノであるかの如く捉えて表現する仕方を、

ここでは”導管メタファー”と呼ぼうと思います。 

 

導管(パイプ)は、

入口からビー玉を入れてころがせば、出口からビー玉が出てくるし、

一定量の水を入口に流せば同じ分量の水が出口から流れ出てきます。

 

この考え方を仕事の知に当てはめれば、

 

ある仕事をこなしている人の知を別の人に移転させれば、

その別の人も同じ知を使ってその仕事ができるようになる、

という理解が可能になるわけです。

 

 

この考え方は、

上記のような標準化された仕事の場合には、よく当てはまります。

 

ただ、現実には必ずしもそればかりでなく、

比較的長い時間をかけて先輩から徐々に学んでいくような「熟達の知」にも

かなりの程度で適用可能なものです。

 

なので導管メタファーは、

仕事の知について語られる場面では従来から普通に使われてきたし、

人々もそういう表現に違和感を感じることもありませんでした。

 

ところが21世紀に入り、

仕事をとりまく環境が大きく変化してくると、

この考え方の欠点が徐々に明らかになってきます。

 

既に述べたごとく、

ベテラン・先輩の知がそのまま活かされるケースは

どんどん縮小してきました。

 

そこを無理に導管メタファーを適用しようとすると、

次々に想定外の状況が発生し、

混乱に至ってしまう様な状況が多発してきたのです。

 

 

ですが、にも拘わらず”導管メタファー”はしぶとく生き残っています。

 

人々の間には、どんな仕事も

ちゃんと教えればできるようになる”という、

必ずしも現実を反映していない考え方が共有され続けています。

 

自分たちが蓄積してきた知が”今も有効だ”と、

信じたがる勢力が、組織の中では依然優勢であることが

原因である様に、私は感じています。

 

 

ベテラン達の経験を”有益な知”とするには、

細切れの知”へと加工が必要です。

 

ですが残念なことに”導管メタファー”肯定派が、

その加工を妨げています。

 

その結果”導管メタファー”が優勢な職場では、

僅かに残っている”そのまま使える知”のみが

「伝承価値のある有益な知」とみなされる一方、

 

そのままで役に立たない知”が

「伝承価値のない無意味な知」として、

 

極めて乱暴に償却されてしまうという、

憂うべき状況が生まれてきているのです。

 

実績をあげ、様々な修羅場を経験してきたベテラン達が、

昨今現場で煙たがれ、

マネジメントからしばしば”教えるな”、”伝承は不要”などと

遠ざけられ始めている背景に

導管メタファー”の弊害があります。

 

自らを守ろうと”導管メタファー”に固執してきた人たちが、

結果として”導管メタファー”によって排除されてしまうという、

笑えない皮肉な事態が起き始めています。

 

 

組織の宝である有益な知が失われていくのは、

残念でもったいない話です。

 

仕事の知の性格が大きく変わり、

導管メタファーが弊害をもたらしている現実を、

私たちは明確に認識すべき時に来ているのだと思います。