チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる -14ページ目

チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

 

 

大学で私が担当している、メディア系授業の話です。

 

“作り手”の視点を学生に経験してもらおうと、

3-4人のチームで

2分程度の映像作品を作ってもらいました。

 

「私たちの2020は、こんな年でした」

 

というテーマで作ってもらったのですが、

 

コロナ禍という逆境の中、

実は皆さん、色々とエンジョイしていたのだ、

 

ということが分かってきました。

 

多くは家の中か、その周辺でしか動けていないものの、

映像に現れた学生たちの過ごし方は、

 

楽器、歌、作曲、映画(鑑賞)、ゲーム、(ウチで)サッカー観戦、

ダンス、ミステリー小説、勉強、料理、手品、コラージュ、

(近所を)ジョギング、(近所を)ウオーキング、等など。 

 

実に多彩です。

 

隙をつくように出かけた

ハイキングや旅行に行った映像もありました。

 

そしてほぼ共通して出てきたメッセージは、

 

“今だからこそ、できることをやる!”

 

語られているメッセージにも、力強さや活き活き度が

感じられます。

 

学生たちは、

想像していたより大分前向きだと思いました。

 

が、気になった部分もありました。

 

コロナが終結したら、何をやりたいか?と

問いを発していた

チームがあったのですが、これには

 

「海外旅行に行きたい」

「サッカーの試合を見たい」

「ディスニーランドに行きたい」

 

そういう答えが並んでいて、

分からないではないのですが、

さっきまでの個性が消えてしまって、

声にエネルギーも感じられないのです。

 

“今だからこそ”は、

コロナが終わっても、彼(女)らには開かれているはずです。 

 

ところが、コロナが外れたところで、

逆に多様性が失われてしまう。 

急に保守的な(と私には見える)発想が強まっていく。

 

と、考えると、彼(女)らの多様性は、

日常のシステムから外れてみて始めて、発揮されてきたのでは、

と、そんな気がしてきました。

 

それはつまり、日常のシステム(学校、等)が、

学生たちが本来持っているユニークさとか、

まだ開花できていない才能とかを、

封じ込めているということかも知れません。

 

本領発揮の種を、潰してしまっている可能性もあるのでは、

と感じます。

 

おそらくこれは、大学だけの話ではないでしょう。

 

20代~30代前半の若手社会人たちも、学生たちと同じような

感覚を持っているのではないでしょうか。

 

自由になった時間を多様に使う学生たちと同様、

現在の若手社員たちは、働く目的も、働き方に対する考え方も、

人生の意味や将来への期待も、実に多様になってきています。

 

ところが、多くの組織の体制は、その変化に追いついていない。

 

多様な若手社員たちの生きる動機を、

受けとめられている組織は、まだまだ少ないと感じます。

 

人が持てる能力をフルに使って、それなりのコトを成し遂げるには、

その人が本来持っている動力源が駆動しないといけません。

 

月齢給とボーナスの査定を上げることで本領発揮してくれる人は、

今はもう少数派でしょう。

未来を約束して、という空手形が有効だった時代も、

とっくに終わりました。

 

一人ひとりが持っている感動体験への共感や、

固有のリズムへの共鳴が、むしろ意味を強めています。

 

多様な生き方や、より人間的な発信を受容できる力が、

急速に組織に求められ始めていると感じます。

 

働く人々の、そうしたところを受け止められない組織は、

企業であれ、学校であれ、

これからは、どんどん厳しくなっていくのだろうと感じます。

 

 

「自律型人材」とは、

 

1.自分で考えて、

2.適切に判断して、

3.自分から行動する人材、

 

を指すのだと、友人の講師が教えてくれました。

 

1と3はまあ、そのまま受け取れるとして、

問題は2の“適切に判断”の「適切に」の部分です。

 

作業マニュアルに従う、社内規定に従う、といった

“適切さ”には、まず議論が無いと思いますが、

 

一般常識とか倫理観があるか、といった話になってくると、

研修で扱うには限界があります。

組織によって、分野によって、

常識も倫理も一様ではないからです。

 

それでも一般常識は採用の段階でスクリーニングをしたり、

面接で見極めていくことで、ある水準を目指すことは

出来そうです。

 

更に入社時の研修を通じて、組織に固有の“常識”を学んで

もらうことも、一定程度期待できると思います。

 

問題は“倫理”です。

 

どんな行動が評価に値するか。

何は是であって、何は非なのか。

罰則はどうするか、それらを決める基準は何か、

ルールの例外をどの程度まで認めるのか、など。

 

これらを伝えるために、原則となっている考え方を

教えているケースは、しばしば目にします。

 

・高い視座を持て

・スピード感を持って行動せよ

・オープンに話し合え

・セクショナリズムに陥るな

等々。

 

こうした立派な倫理規定は、確かに大事なのですが、

現実的な実効性があるかと言えば、大いに疑問です。

 

読んだ側、聞いた側の体に

これだけでは響いてこないからです。

 

私たちが未知の状況や困難な事態に出会ったとき、

実際に参照しているのは、次のような話です。

 

・納入した機械の性能が基準値に達せず、苦境に立たされたが

 色々提案しながら顧客との関係を保ち、損失を殆ど出さずに

 問題を収拾できた話。

・一番うるさくて厄介に見えたお客の担当者が、最終的には

最大の見方になって、自社を引き上げてくれた話。

・法律の規制ギリギリの認可申請を出し、役所の

 担当者を説得して、新製品を世に送り込んだ話。

・不祥事が公になって行った“社長の陳謝”が、意外に

 世間の共感を呼び、ダメージが最小限で抑えられた話、等。

 

倫理を考えていく上で大切なのは、因果関係です。

これが見えなければ、守るべき事柄のイメージは湧きません。

 

それも、ギリギリの状況に立った時に、何を守り

何を決断するか。

そこが見えてこなければ、判断の軸は定まらないのです。

 

今日の日本企業が失ってしまったものは、

このような、先輩方の経験を継承する仕組みです。

 

そして、そのことこそが、

多発するコンプライアンスの問題、

倫理観の欠如の問題を生んでしまっている。

 

これはもう、そう言い切ってしまって間違いないと

思われるのです。

 

今必要なのは、

 

“いい話”も、“悪い話”も含め、組織が経験してきた

様々なストーリーを「見える化」していくこと。

 

ストーリーが世代を超えて継承される仕組みを

作っていくこと。

 

「自律的人材」の育成、といって、

ああしろ、こうしろ、と言っているだけではだめで、

 

こうした部分に、日本の企業はもっと意識を向けていく

必要があると思うのです。

 

昨今の会社とか学校とか役所とか、そういう場で

起きていることを見ると、

 

まさに「物語」が、必要になってきていると感じます。

 

契約とかルールとか、合理性とか費用対効果とか、

そういう理屈から離れた価値観に目を向けないと、

もうダメなんじゃないか、と沢山の人が感じ始めている。

 

「物語」が求められる背景には、そういう変化があるのだろうと

思います。

 

『日本霊異記』という平安時代に書かれた、物語集があります。

 

薬師寺のお坊さんが、仏の教えを広げるために書いた本

だそうですが、実は日本の各地を回って、それぞれの土地に

伝承されていた民間説話をまとめたものとされています。

 

例えばこんな話。

 

ある夜、男が家に帰ると妻の姿が見えません。妻は仏を信じない夫の

罪を許してもらおうと寺へ懺悔しに行っていました。夫は寺に乗り込み、

妻を引きずりだします。僧がとりなすと、夫は僧を口汚くののしりました。

その晩、夫は妻を抱こうとします。
しかし妻は、今は願掛けの最中だから身を清らかにしておかなければならない

のだと夫を拒絶します。夫は嫌がる妻を無理矢理に犯してしまいました。
事後、眠気を催した夫のまわりに、どこからともなく蟻が集まりだしました。

その数は10匹、100匹、数100匹と増してゆき、夫の陽根(陰部)を

目指してたかりはじめ、そしていっせいに噛みつきだしました。
あまりの痛さに跳ね起きた夫の陽根は見るも無残に腫れあがって

いました。蟻はいくら払っても食いついて離れません、ほどなく

して、夫はその傷がもとで死んでしまいました。

和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com) よりの引用)

 

正直なところ、現代の私たちが読んでも、それほど面白みも

感じられない話ですが、当時はそれなりにインパクトが

あったのでしょう。

 

重要な点は、仏を信じないような人間(法=世界の秩序を大事に

しない人間)は、大変な目にあうぞ、と、そういう世界観が

社会に広く受けいれられていたらしいことです。

 

そういう発想は、何も平安時代まで遡るまでもなく、

江戸時代や明治辺りまででも、結構民衆の中には強かったと

言われています。

 

それが、20世紀になった頃から、殆んど無くなっちゃった。

直近の約1世紀は、「物語」がないがしろにされてきた時代です。

 

日本人は無宗教の人が8割などと言われますが、これは明治に

入ってからのことです。 多分偶然ではなく「物語」がないがしろに

されてきた流れとも繋がっています。

 

それより前は、超自然の力とか、人間の知りえない世界の存在とかは、

人々が自然に前提に置いていたものでした。

 

明治以降近代化が進む中で、科学が万能と捉えられて、実証主義が

世の中を支配しました。 どんなこともロジカルに説明が可能だし、

様々な問題は、科学の発達で必ず解決できるはず、と人々が

信じるようになりました。

 

でも、これが思い込みであることは、今の時代なら中学生くらいでも

気づいていることでしょう。

 

世の中には説明がつかないことが一杯ある。

スパッと割り切れるようなことは、むしろほとんどない、と

みんな、段々そう考えるようになってきました。

 

これが過去20年くらいで、起きてきているように感じます。

 

だから、「物語」はいま必要、というより、

人間にとってずっと必要だったものが、復権してきただけのこと。 

 

暫く“忘れていた”ので、そろそろ、元の姿に戻ろう、

という事なんだと思います。

 

このことは何も、科学や実証主義を否定せよ、というのではなく、

元々「物語」には、科学も実証も全部含まれているのだと考える

べきでしょう。

 

合理もあれば、非合理もある。人間の世界とは、そういうものだ

と、社会が気づき始めているのだと、思います。

 

 

 

中曽根康弘元総理の「内閣・自民党合同葬」が、

昨日都内のホテルで行われたそうです。

 

 

今の40歳以下の人にとっては、

殆どどうでもいい話でしょう。

 

この人が総理大臣だったのは

もう四半世紀も前のことです。

 

こんなご時世に1億円近くも使って、

やる必要は本当にあるのか

 

とか、

 

学校に対して国旗の掲揚とか、

弔意を示せ、とか

政府が言うのはおかしい、とか、

 

色々議論が起きています。

 

確かに弔意は心の問題なので、

“悲しめ!”というのは、相当に無理があります。

 

20世紀には通用していた、大きな「物語」。

 

敗戦から刻苦勉励、一所懸命学び働くことで

日本は、日本国民は、豊かになれる。

 

そういう成長の「大きな物語」を描いてきた

20世紀日本を作ってきたリーダー達。

 

その意味で中曽根さんは、

まあ貢献者というべき人なんでしょう。

 

それも、一市民的感覚をいうと主役はやはり田中角栄で、

中曽根さんは2段階くらい格下の感覚なのですが。

 

問題は、

もはや完全に崩壊しているといっていいい

20世紀型の「大きな物語」を信奉している人が、

政府の中核で、今も大きな力を持ってしまっていることです。

 

ただ現実には信奉している人は、大勢いるわけではない。

何となく変だなあ、おかしいなあ、と思っているけれど、

しぶしぶ従っている人が、大部分なのだと思います。

 

だから、この懐疑派がもう少し上がってきて

この辺の力関係が逆転していれば、

今回の合同葬の規模も、大分縮小されていたでしょう。

 

大事な点は、何故、こういう事態が変わらないか、という事で、

これはやはり「大きな物語」に代わる、「新しい物語」が

描けていないこと、だと思う訳です。

 

それって、国家観とか、世界観とか、労働のイメージとか

学問、教育、ジェンダーとか、結局全般に及ぶことに

なってきちゃうんだけど、

 

あまり大きな話でなくていいから、未来が開けていると

感じられる灯とか、

パッと希望が見える様なキラキラした提案が、

出てきてくれないかなあ、という風には、思います。

 

これは単に勘みたいなものだけれど、

「新しい物語」は、有能な政治家とか役人が絵を描く、

みたいな感じではなくて、

 

デザイナーとか、ゲームの開発者とか、美容師とか、

地域おこしのプランナーとか地質の研究者とか、

思いもよらぬところから、何かが飛び出してくる様な

気がしています。

 

勿論根拠なんかありません。

単に、“物語的な”期待に過ぎないのですが。

 

 

今週日曜日に第26回仕事知探求セミナーを開きました。

 

 

企業研修の世界では、

リーダーシップ開発、キャリアデザイン、組織開発等、

様々な領域で“ナラティブ”は頻繁に活用されています。 

 

今や定番メニューの一つと言っていいでしょう。

 

私自身も、自ら手掛ける伝承力研修やリーダーシップ研修の中に、

様々な形の“ナラティブ”を入れています。 

 

ですがそれが何故有効なのか、ナラティブのどんな特性が

どのような効果を生んでいるのか、

あまりちゃんと理解できていないままで、続けてきた感があります。

 

今回のセミナーでは、そのあたりの解明を(ほんの一部分ですが)

目指しました。

 

まずはセミナー参加者に、ペアでの語り(ナラティブ)を

体験頂きました。

今回の語りは「今の自分にとって重要だった学習体験」です。

 

“お一人18分づつ語って頂きます”

 

そうお伝えすると、

 

18分も一体何を話せばいいの??”

 

と、不安そうな声が上がります。

 

ですが、一旦語りを始めてしまうと、皆夢中に語り始め

終了のベルが鳴っても語りは中々止まりません。

 

場の空気も、じんわりと熱気を帯びてきました。

 

“思ったより色々話せるものだと思った”

“18分があっという間だった”

“問題は解決してないけど、話したらすっきりした”

 

ワーク終了後の感想です。

 

あるペアで一人の方が、

“パートナーの語りを聞いているのに、

その語りが自分のことの様に感じられた“

 

と話すと、

相方の方も、

“パートナーの話から自分の話が色々引き出された”

と語られていました。 

 

「共感」という言葉を私が使うと、

二人とも“んっ?”という感じ。 

 

どうも「共感」では言い表せない共感以上の感覚が

生まれていた様でした。

 

ナラティブの世界では、

「語りが“自己”を創る」とか、

「語りが“世界”を創る」などと、言われます。

 

語り手がパートナーに語っている内容は、

語り手が予め用意している(出来上がった)内容ではなくて、

 

語りながら自分が徐々に創られていき(物語的自己)、

語りながら世界が徐々に生み出される(世界が

どのように出来ているのかの了解が生まれてくる)

としばしば説明されています。

 

また、

「語る内容は“共同生成”される」とも言われます。

 

語る当事者は一人であっても、実はその場にいる聞き手の

影響の下に語る内容が創造されてくる、ということです。

つまり聞き手が違えば語られる内容も変わりうる、

ということになります。

 

上のペアのケースも、

語り手、聞き手の境界線が、途中から無くなって

相互に影響しあいながら、双方の語りが

共同で構築されていったのかもしれません。

 

上に「物語的自己」と入れましたが、

 

過去に起きた体験を語るなかで私たちは

 

様々な他者や外の環境とやり取りし、

都度不安になったり苦しんだり、

一方で喜んだり充実を感じたりした挙句の

“今の自分”が、見える様になるのだと思います。

 

語ったあとにすっきりするというのは、

語りの中で現れる物語の中の自分という、

 

“出来立てほやほや”の自分と出会って、

自己理解が強化されている感覚なのかもしれません。

 

リーダーシップも、キャリアデザインも、組織開発も、

いま現在の自分が素材になるので、

 

“出来立てほやほやの自分”

“出来立てほやほやの世界“(組織とか業界とか)を

 

しっかり捉えておくことが大切なのは、

言うまでも無いでしょう。

 

ナラティブの意義や効果を一義的に決めることは

出来ませんが、

今回セミナーで私が実感できた一つの収穫は、

 

“出来たてほやほや”の重要性でした。

 

ご参加の皆様、誠にありがとうございました。