チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる -13ページ目

チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

 

 

「言った/言わない」のやりとり、というのがあります。

 

「俺はちゃんと言ったぞ。お前だって分かってたはずだろう。」

「いやいや、聞いたのはそんな内容じゃなかった。…」

 

どちらも嘘は言っていないのかもしれませんが、

言った側の意図が、聞いた側に正しく伝わっていなかった、

という事が起きて、こんなやり取りになるのだと思います。 

 

会社などで時々あるトラブルです。

 

松下幸之助がどこかに、こんな話を書いていました。

 

ある日外出する先輩から、

「〇〇さんという人から電話があると思うから、

要件を聞いておいてくれ」と頼まれた。

その日ずっと注意していたが、結局電話は無く、

先輩も戻らなかったので、そのまま帰宅した…

 

これはNG!という話です。

 

電話がなかったとしても、例えば

「今日5時まで待ちましたが、〇〇さんから電話はありませんでした」

と、先輩にメモ一枚を残して帰らなければ

仕事とは言えない、(までは言っていなかったかもしれませんが)

そんな話だったと記憶します。

 

短いですが、

学生気分の新人に行動変容を迫るには、十分なメッセージでしょう。

 

“一枚のメモ”が想起させるものは、遅くなって事務所に戻った先輩が、

机の上のメモを見てうんうんと頷くシーンです。

 

そのイメージが思い浮かんでくれば、相手目線で捉えた世界が

無理なく意識に入ってきます。

 

冒頭の「言った/言わない」の争いは、こうした目線が内面化されて

いれば、かなりの確度で回避できるようになるでしょう。

 

このメッセージをパワフルなものにしている理由の一つは,

行動(しなかったこと)からの因果連鎖が示されていることです。

 

“電話番”という単発の役の完了に留めず、判断・行動が

生み出していくもの(=先輩からの信頼)を想起させるところに、

この話を印象づけるミソがあります。

 

そもそも現実の仕事(に限らず、どのようなこともそうですが)は、

様々な人々との関係性を含めた因果連鎖の中に

イメージされるものです。 

 

この因果には、外側から見えて理解できるもの ― 例えば事故が

起きてすぐに対処しなければいけない、の様なものもあれば、

 

心の中に起きていて外側からは見えてこないもの ― 例えば

“彼はこの間頼んだ仕事を一所懸命やってくれたから、

ちょっと儲けを分けてやろうと思った“

 

の様なものもあります。

 

この外見で動く部分と、心の内側で動いている部分を、

連動させつつ丸ごと伝える表現の代表が“物語”です。

 

シンプルな表現でも、文脈丸抱えでメッセージを伝えられる

ところが、物語の特性です。

松下幸之助の話は、その好例でしょう。

 

昨今は多くの仕事がシステムへの依存を強め、テンプレートも

豊富に揃い、PCやタブレットを経由したやり取りが常態化して、

こうした話の出番が失われてきました。

 

ちょっと嫌がられそうな中で無理してでも語らなければ、

こんな話が聞こえてこないようになってしまいました。

 

これは大問題だと思います。

 

マニュアルや作業手順書で仕事を覚えるのは必要なことだし、

ああしろ、こうしろと、指示を受けながら覚える仕事も

確かに存在するでしょう。

 

しかし一方で、

こんなことが起きて、その時に俺はこうやって、そしたら

こうなった、

 

とか、

 

担当したお客はこういう人で、こんな風に難しい人だったけど、

あんなこと、こんなことやっていたら

段々買ってくれるようになった、

 

の様な因果連鎖を含んだ語り(=主観的な了解を含めた体験の語り)は、

仕事の質を高めるためにも、人を育成していくためにも、

もっと見直されなければいけないと思います。

 

証拠がある訳ではないのですが、

エリートが揃う中央官庁などでの「信じられないミス」の

かなりの割合が、

因果的了解の欠落によるのではないか、という気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

知り合いのあるお医者さん(Sさん)の話です。 

 

高校時代に体操をやっていて、インターハイで入賞。

オリンピック出場の夢を持っていたが、

練習中のケガで引退を余儀なくされたそうです。

 

引退後は何もやる気にならず、こんなんじゃ生きてても仕方ない、

と抜け殻の様な毎日を送っていたそうですが、

 

癌で余命1年余と宣告された人が、生きた証を残したいと、

詩の勉強を始めた、という話をたまたまテレビで見て、

一念発起。

“医者になる”という目標を定めて勉強を始めました。

 

結果は第一志望ではなかったものの、私大医学部に合格。

そんなきっかけから医師への道を踏み出した、というお話です。

 

癌宣告からの余命を力強く生きた人の話を聞いて

Sさんに起きたことは、

 

現在=絶望、 その先=真っ暗, という状況から

 

現在=試練、 その先=頑張った先のご褒美が見えてきた

 

という変化です。

 

それまでの自分が受け入れていた自己物語から、

新たな自己物語へと

生きる物語がこの時に変化した、と言うことができます。

 

実はSさんが辿った新たな物語は、「英雄物語」と言われる、

世界中の神話等に見られる共通のパターンに合致しているものです。

 

英雄物語の典型的な型は、

 

安定→ 安定の崩れ→ 旅立ち→ 試練→ 闘争→ 勝利(英雄化)

 

というもので、Sさんのケースでは「ケガ」が“安定の崩れ”に、

「医学部挑戦の決意」が“旅立ち”、に当てはまります。

 

私たちに馴染みの“桃太郎”の話も、

村がオニに荒らされていた=安定の崩れ、

鬼ヶ島に鬼退治に出かけた=旅立ち

という具合に、この型に沿って捉えることができます。

 

様々な研究から「英雄物語」は、

人間の想像力やエネルギーを高める効果を

持っていることが知られており、

私たちが人生の転機に立った時などには、大きな支えとなる

可能性を持っています。

 

私たちは普段、日常を疑うことなく受け入れていますが、

実は無意識に、

ある世界観や因果で結ばれた物語の中に生きています。

 

そしていつの間にか、その物語の設定の中でしか

モノゴトを考えることが出来なくなっています。

 

新しく来た上司が嫌な奴だった、という現実に、

自分は何て運が悪いのだろう、という視点で捉えがちです。

そこで思考がストップしてしまい、憂鬱になったりします。

 

ストーリーテリングの領域では

こんな風に、知らず知らず自分が受け入れている物語を、

「ドミナントストーリー」と呼んでいます。

 

自分は運が悪い、と状況の変化をネガティブに捉える視点や

Sさんが最初に陥っていた視点は、これにとらわれたものです。

 

これに対し、その枠から外に出て別の視点で描いてく物語は、

「オールタナティブストーリー」と呼ばれます。

 

「英雄物語」の視点を得ると、やってきた嫌味な上司は、

未来を切り開くために乗り越えるべき試練となったり、

 

来るべきより大きな困難に立ち向かうために準備された

重要なヒントや学習機会と、

新たな意味を持って捉えられることになります。

 

こんな風に、自らオールタナティブストーリーが描けると、

多様な未来イメージの描写が可能になり、それは当に

多様な視点で現実を捉えることに繋がります。

 

「英雄物語」は、

「オールタナティブストーリー」を描いてく為の有力な方法の一つ

ですが、他にもいくつかの方法が知られています。

 

こうした方法は、“人生”の様な次元で勿論大きな威力を

期待できるものですが、

仕事や趣味、スポーツの領域でも活用が可能なものです。

 

多様なオールタナティブストーリーを描く能力を高める事、

そのために、物語の思考術により深く習熟していくことは、

多くの現代人に求められてきているのだと思います。

 

 

 

バイデン氏、第46代米大統領就任…

大観衆なき就任式で「団結した米国」へ決意

 

今日の朝刊第一面の見出しです。

 

トランプ前大統領との激しい選挙戦が

ずっと報じられてきたので、

 

バイデン氏が就任の場で「団結」を強調する事情は、

多くの人が理解できるものでしょう。

 

“団結”という表現には、

選挙戦を通じて進行してしまった“分断”の経緯があり、

 

報じる側は、既に共有されている過去の展開を

“団結”の前提として意識しながら見出しを考えたはずです。

 

そしてここには、もうひとつ重要な前提があります。

それは“分断”から“団結”に転換しなければいけない、

という方向性です。

 

アメリカ合衆国の国民は、団結しなければいけない。

そうじゃないと、我々の国は大変なことになってしまう。

 

誰もわざわざ言わないけれど、

その前提が共有されているからこそ、

“団結”が意味をもつ表現になります。

 

国家とは「そういうものでなければならない」と

皆が当然の様に思っている、

その前提が、背後にはある訳です。

 

当たり前、と思える話ですが、

 

こうした前提も、国家が基盤となっている

現代社会に始めて“あたりまえ”なもので、

縄文時代の人々には、まずピンとこない話です。

 

だからもし、縄文人に話を理解してもらおうとするならば、

現代人の日常世界がどのようなものなのか、

相当にかみ砕いて説明しなければならなくなるでしょう。

 

認知科学の世界では、

 

私たちが“未知な領域の出来事”と出会った際、

知っている出来事や聞いたことがある“物語”を参照して、

状況を理解しているらしいことが、指摘されています。※1

 

正直でこつこつまじめに仕事をこなすA君と、

嘘つきでサボりながらも、言い訳が上手なB君が現れると、

私たちは無意識に「金の斧と銀の斧」(⇒※2)の枠組みを取り出したりする。

 

ところがA君はいつまでたっても評価されず、

B君はどんどん出世していく、という現実に出会うと、

“理想と現実は違うねえ”という解釈に行き着く訳です。

 

ただここまでの話だと、

「金の斧と銀の斧」の物語を“知っていたこと”のメリットは、

意識できませんね。

 

せいぜい現実を理解する為の基盤として、記憶に残りやすくなった、

という程度の話に聞こえます。

 

しかし実は、この記憶に留められる、という部分が重要です。

 

例えばその後「スターウォーズ」を見て、

ヨーダの様な知恵者の支援を得て、

主人公(ルークスカイウォーカー)がみるみる成長していく、

といった姿に触れると、

 

ちょっと勇気を得た気分になるかもしれません。

 

そしてある日、身近なところで似たような状況が発生したり、

ひょっとして、自分が支援してあげることで、

B君の評価を上げてあげられるかもしれない、と思ったりしたら、

“ヨーダ“というモデルが、自分の中で俄然意味を強めてくる訳です。

 

つまり「金の斧と銀の斧」の展開が否定され、

その否定を克服する方策が発見され、

身近な現象を見て「金の斧と銀の斧」的世界の守護者としての

自分が浮き上がってくる。(無論、そういうケースばかりではありません)

 

私たちはこんな風に、物語の基盤を持ち、これを現実と繋げたり

別の物語と交差させたりしながら、

思考や行動の可能性を広げることができる。

 

と言うより、こうした半ば妄想的な思考の働きこそが、

人間の創造的な営みの本質だと、捉えられてきているのです。

 

ここで言う物語は、童話や映画や偉人の伝記などを指していますが、

仕事場の先輩・上司の経験談や、身近な人々の世間話も当てはまります。

 

ビジネスマンなどにとっては、

そういう実話は(実話らしく作った話であっても)

極めて重要な情報が詰まっているものだと

言うことができます。

 

多様な物語(モノゴトの展開パターン)を記憶にストックし、

新たな現実と出会っていくと、

自らが直面する現実を、主人口、傍観者、支援者、等々、

多様な視点で見ていくことが可能になります。

 

そして、数ある役の中から、自身がどの役を選ぶかも、

もちろん自らの選択肢に含まれてきます。

 

このことが現実を理解したり、自身の行動を選択していくうえで

大いに選択の範囲を広げ、更に展開の可能性を高めていくことに

なるのです。

 

世の中が複雑になればなるほど、

そして人の姿がリアルに見えにくくなればなるほど、

「物語」の知の重要度は増してくるのだと思います。

 

 

※1『インダクション』 J.ホランド、他(1991)

※2イソップ物語【語り】- 金の斧と銀の斧 - YouTube

 

 

 

 

私たちが休日に山登りをしたり、

雰囲気のよさそうなレストランを選んだりするのは、

 

開放的な気持ちを味わいたいとか、

普段とは異なる気分で時間を過ごしたい、と

思うからでしょう。

 

場に入って起きる心の躍動への期待であったり、

普段とは違う気分や想像の軌跡を味わいたい、という動機が

働いているのだと思います。

 

“場所”が自分の心の活動に影響していることを

私たちは当然のこととして、了解しているのです。

 

日常的なコミュニケーションの場では、

多くの場合、言葉を通じてイメージやアイデアが

交換されています。

 

言葉は個々の頭の中で、形象や場面に転換されているので、

 

話し手、聞き手のそれぞれの居る“場所”が、

コミュニケーションの「質」とつながることは

容易に想像できることでしょう。

 

昨年来、コロナの影響がモロ影響して、

テレワークが急速に普及してきました。

 

オフィスで机越しになされていた会話が、

それぞれの自宅の部屋を背景としたTeamsやZoomで

交わされるようになってきました。

 

実はこうしたテレワークの技術自体は、とっくに開発は

されていたし、随分前から「ホワイトカラーの間には在宅ワークが

一般化する」と、予測もされていました。

(アルビン・トフラー「第三の波」(1980))

 

普及が進まなかったのは、多くの人が“場所性”の重要度を自覚していて、

「そうは言っても、顔を合わせてじゃないと、ダメでしょ」と

消極的だったからです。 

 

しかし、コロナがこの歯止めを外しました。

 

テレワークについては、私自身も実際に使ってみて、

沢山のメリットを感じており、正直思っていた以上に“使える”という

感覚を持っています。

 

ですが一方で、やっぱり限界だなあ、という実感もあります。

 

企業研修でも大学の授業でも言えることですが、

やはりその場に立って話していれば、すぐにわかることがあります。

 

今話していることを、

みんなが“面白い”と思っているか“つまらない”と思っているか。

 

テレワークのしんどいのは、こういうところが見えにくい点です。

 

なので、時々個々の受講者に話しかけたり、

チャットに感想を入れてもらったり、

グループワークを挟んだり、と、

 

色々、ギャップを埋める工夫はしています。

 

しかし、“場所性の非共有”というデメリットが、解消される訳ではありません。

 

ここで「物語」の意義が高まってきます。

 

元々「物語」は、話の中に“場所性”の語り(世界観)を含んでいます。

桃太郎もシンデレラも、その世界観が共有される中で

成り立っています。

 

逆に言えば、「物語」を伝える為の世界観の解説は、

共有に不可欠な要素です。 

 

さらに「物語」が場所の隔たりを超えるもう一つの理由は、

行動や感情の動きが、展開の中に必ず語られる事です。 

 

場所性の共有は、実はこうした動きの中に起きてきます。

行動や感情には必ず、

そこで人間が捉えている“場所の意味”が反映されるからです。

 

イソップとかアンデルセンなどの異国のお話を3歳の子供が

理解できる秘密は、こうしたところにあります。

 

「語り」の技術を磨くことが、

場所を超えたコミュニケーションの質を高めうることが、

多少はイメージ出来たでしょうか?

 

今後世界中でテレワークが更に普及し、

ビジネスを中心に“脱場所化”が進むことは、まず間違いないでしょう。

 

 “脱場所化”によって

これまであたりまえ“だった沢山の情報が脱落することも確実で、

 

それによって沢山の損失やトラブルが起きたり、

仕事の質が低下していくことも、十分予測できることです。

 

“物語的“な説明力や、”物語的に“聞き出して事態を理解する力は、

テレワークの普及と合わせて、

今後、重要度が高まってくるだろうと思います。

 

いま座っているデスクの上にあるものを

挙げていくと、

 

コーヒーカップ

ペン

財布

ペン立て

眼鏡ケース

ペンケース

タブレット

ホッチキス

キーホルダー

・・・・・

 

書類を除いて、多分20品目くらいあります。

 

このうち、いつ、どこで買ったかを思い出せるのは

 

コーヒーカップと

ペンケース

のみ。

 

その他は、多分あそこで買ったんじゃないかとか、

アマゾンだったか、どこだったか忘れたけれど、

多分通信販売だった、

 

程度の淡い記憶になってきます。

 

思い出せる2つは、

 

それを選んだ理由や、

そのモノと出会った時の感覚とか、

その場の雰囲気も思い出せるもので、

その分、愛着も大きいと感じます。

 

この差は、どうして生まれるのか。

 

2つを除くと、殆んどのモノの買い方は、

 

とりあえず、買う

仕方なく、買う

買わないと困るから、買う

 

という買い方だった(らしい)ことが思い出されます。

買い方にイマイチ満足がない、納得が出来ていなかった気がします。

 

逆に2つは、買うまでのプロセスに満足がある。

モノと出会って、考えて、確かめて、決めて、買った。

 

自分とモノとの間で起きたストーリーが思い出され、

そこで演じた自分に対する満足感が、

モノに付与されているように思われます。

 

では、それ以外のモノとは、どうして何も起きなかったのか。

 

多分、購入したモノとそれ以外の(そこに並んでいた)モノとの

差別化が出来なかったからだと思われます。

他とは違う“それ”を選ぶ理由が、思いつかなかったのです。

 

必要があって買いに行く。

行くと、沢山の選択肢が現れる。

どれを買ってもニーズは満たされる。だから文句なし。

 

だが“これ”という一つを, 選ぶことができない。

基本性能はどれもが満たし、

プラスアルファ―の性能も決定的な違いは無い。

値段も決定的と言える差異は見つからない。

そこで, とりあえず“これにするか”となる。

 

その決め方にイマイチ納得がないので、満足がない。

 

昨今、製造業をはじめとして会社のHPに、

「製品開発者の想い」とか「〇〇研究秘話」とか

「△△開発ストーリー」の様な記事や映像が見られる様に

なってきました。

 

おそらく競合商品からの差別化を狙ったものでしょう。

 

似た製品がズラリと並んでいる中で、製品開発者(開発チーム)の

プロフィールだとか、開発に向けた想いとか、苦労談などが聞こえて来て、

そこに共感が湧いたりすれば、

 

購入者の意思決定が影響を受けることは、容易に想像できます。

 

伝えられたストーリーに共感できることは、購入者の納得を増します。

そんな決着の仕方ができれば、私たちは落ち着けるのだと思います。

 

私たちはニーズがあって商品を買いに行きます。

しかし、その商品を手に入れて満足しているかというと、

必ずしもそうではない。

 

ニーズは満たせても、満足は出来ていない。

 

私たちを満足させてくれるものは、購入した商品の先にある何か。

 

それは開発者の想いだったり、着想した人の苦悩だったり、

生みの苦しみへの共感だったり、実験で流した汗の匂いだったり。

 

おそらく、そういうものと共感的に繋がりあうことで、

ひとつの満足感や納得感を、得たいという欲求が、

私たちの底の方にはあるのだろうと思います。

 

ということが分かってきたとすれば、

私たちは、発想を転換していく必要があると、気づくべきでしょう。

 

製造業などの会社HPでの紹介の多くは、

見え見えのマーケティング目的で作られていて、

 

少し意地悪な言い方をすると、

広報担当が作ったシナリオを、開発者が暗唱して言っているだけ、

の様なものが多くあります。

 

そんな付け焼刃ではなく、

リアルな物語を、より高いリアリティーと説得力で発信していける

ようにしていくことが、いま大事になってきているのです。

 

つまり、

最初から「物語」を売り物と捉えて、製品開発をしていくこと。

 

この変化に気づくことが、いま求められているものなのだと思います。