自分の体験の語りは、
“ストーリーテリング”とか“ナラティブ”と呼ばれます。
ストーリーテリングは企業研修でも定番のもので、
キャリア開発、リーダー育成、
新人向けオリエンテーションなど、
色々な場面で使われています。
ある状況に直面し、その中で「私」が考え感じ行動し、
事態が展開して何らかの結果につながっていく。
そのプロセスが
ひとつの「物語」(意味のかたまり)になります。
“社会人になりたての頃の
印象に残っている出来事について語って下さい“
研修ではよく、こんな感じの問いが用意されます。
問いがあれば特段準備がなくても、
語りをスタートさせることが出来、語っているとまた、
関連する色々な出来事が思い出されて
語りを進めることが出来るものです。
私がストーリーテリングを始めて経験したのは、
20年務めた商社を退職後、
方々でセミナーや研修に出まくっていた頃でした。
その時はアフリカ駐在経験を語ったのですが、
ライバル企業同士でありながらも日本人同士という共通項に
安心を求めて寄り集まり、
固い殻を作って外部者の侵入を頑なに拒絶する
閉鎖的な“日本人社会”の姿が、
語る中で鮮明になってきたのを思い出します。
経験を言葉にすることで、
ぼんやりと持っていた自分の視点や価値観が明確に
なってきたのですが、
そんな発見を得て
語りが持つパンチ力に感動したものでした。
語る内容は勿論自分に関わることですが、
だからと言ってスラスラうまく語れる
訳でもありません。
言葉選びは中々難しかった。
語ってみたけれどどうもしっくりしない。
聞いてくれた人にイマイチ伝えきれていない。
語ってみて爽快になることもあるけれど、
意外にモヤモヤして終わることが少なくありません。
自分は色々な体験をしてきた。
その時はそこでの状況や立場に応じて、
考え行動したに違いない。
しかし、少し時間をおいて改めて語っていくと、
自分が何故そうしたのか、自分は本当はどうしたかったのか、
自分にとって何が大事だったのか、
案外整理出来ていないままに、過ごしてきたことに気づきます。
スラスラ語れないのは、
それだけ色々なことが分かっていなかった為なのでしょう。
というか、多くのことは語る行為を通して見えてくる、
という事実に、私達はやってみるまで気づかないものなのです。
日々忙しく仕事をしていると、色々な課題が次々現れて来て、
意識はどんどんそちらに奪われていきます。
その為に私たちは、
あれこれの体験や知識を“バラバラなままに”抱えてしまって
いるのかもしれません。
でもそのバラバラな状態は、
自ら語っていくうちに段々ストーリー的につながって来て、
意味あるまとまりの姿に安定していく。
私たちには、
そういう繋ぎ直しのプロセスが
必要になってきているのだと思います。
“バラバラな”自分をつなぎ直す方法は、
多分色々あると思います。
ストーリーテリングは比較的簡単に、
自分の中にある“意味の単位”を作りだす方法です。
そして何より、やっていて楽しいことが魅力です。
自分について知る、という意味で、
そして他者のことを知る、という意味でも。




