文献学的なアプローチは理性の限界をみて今限界を感じている
神学では実は神について直接的に
考えることをしない
神学はどちらかというと文献学みたいな
そんな形となっておりある種文学的な
アプローチをして聖書の中身が何を
言いたいのかという解釈をする
そういう試みは実にすくない
本当の意味を考えるとき
現代の哲学や量子論の一部で表現される
人の解釈の限界ということからして
聖書が受け取った啓示だと解釈するなら
啓示にも人の認識の制限があってしかるべき
それを考えないで啓示や預言をそのまま
文字的に考えることをしてしまうのが文献学的な
アプローチではえてしてあるものだ
これはカントがいうようにアプリオリ的に
何かをとらえるいわば古からあった
哲学者のある種の立場が現代において
貴重に思われなくなって蒙昧とするのは
わかるのだが一切無視するのは
人類にとってある種の可能性を据えてることでも
実はある
哲学者の原点がソクラテスやプラトンだと
するなら彼らさえも捨てることがなかった
その部分
私たちが個人としてソクラテスやプラトン以上の
哲学的な悟りを得ていてそれが蒙昧というなら
わかるのだがそうでなくて現代の今一般化された
認識の中でそれを蒙昧という文献学的な
解釈をしていては聖書の奥底に潜む行間を
読めなくなるのは確かだ
これらはすべてある種自ら神のごときものとして
解釈を行使しようとするそういう試みからでてくるものである
問題は簡単聖書に対する態度が神なのか人なのか
文芸復興以来の傾向として人は
世界をみるとき理性を通じてロジカルでないと
それが正しいと思わなくなった
理外のものだとしてもそれが
認識されないと正しくても正しいととりあえずされない
これは文芸復興のある種の弊害であるが
根本は何だろうかと思うとそれは
聖書とか何かの教本として第一のものにしたものの
意味する内容がどこからくるのかって
そのことにかかっているのだ
文芸復興的になるとそれは人が理性化できたもの
の範囲で物事をとらえるという立場になる
それ以前はそのまま受け入れるという神側のみを
強調する立場が確かに長く存在しておりこの不確定で暗喩や隠喩
ばかりの聖書の中で人々は暗黒時代ともいえる
そんな道筋をたどってきていたのだが
その反動でさらに文芸復興的なものだけを
主張して行間を読む可能性を捨ててしまうそういう立場が
一般として支配的になっているのは悲しい事実である
しかし現代は量子論ということで人々は
見えない理解できないものでも存在している
確かにあるということを受け入れるそんな
解釈もする向きもでてきた
聖書はもともと啓示だったのであり
人が解釈して刻むことができない
非偶像的なものであるからこそ
だから啓示だったのだ
啓示であることを解釈した時点で
なくなるということを人は忘れてしまった
これは重要なポイントである
勿論無知蒙昧に聖書の中身をそのまま信じるという
ことが啓示的な理解でもない
この二つを満たす解を持たない限り
聖書の真意はわからないし
現実の理性だけで物事捉えて神のごとくなる
暴走から人が解放されることもない
難しい問題だがそれは考えていかないといけないことだろう
