卑弥呼と神武天皇 | 直心會 武勝館

 


先日

ベトナムと日本の歴史の接点

について軽〜く書きましたが

日本の歴史で秘匿され

歪められてる部分は

大きく分けて、

超古代の部分と

卑弥呼や神武らへんの部分と

白村江の戦いから壬申の乱に

かけての部分です。

 

今回はこの中でも

一番みなさんが興味のある

部分であろうと思われる

卑弥呼と神武らへんの

本当の歴史を書きます。

 

細かく説明すると

何冊も本をかけると思うので

さらっと年表方式で

書いてみます。

 

それぞれ気になるキーワード

はググってください。

 

俺がいろんな書籍や資料を

読み漁って導いた


今のところの結論です。

 

参考になればいいと

思いますし、

意見があれば

ぜひお願いします。



将来、考古学的証拠が

隠されることなく発見

されればここに

書いたことが裏付けられる

と思います。


 
それでは本題に入ります。

 

 

 


 BC256年

アレクサンダー大王の東征に

従軍したユダヤ・シメオン族

族長の後裔で、ペルシャ・バ

クトリア王国の知事に就いて

いたディオドトスがクーデタ

ーにより大秦国を建国し、大

王の遺志を継ぎ10年後、精

強なペルシャ軍団(兵馬俑)

を率いて殷文化圏と称される

中国に侵攻

 

 

 
 

BC221年

ディオドトスは中国を統一し

秦帝国を建国し始皇帝となる

 
その影響で華北山西省に趙国

大扶余を建てていた伯族・ウ

ガヤ王朝は満州に逃れ松花江

河畔の農安に北扶余王朝・前

期王朝を建てる

 

BC213年

始皇帝は出自を粉飾するため

偽史を編ませる

 
これにより、歴史を熟知する

ガド族の孔子や孟子はシメオ

ン族と敵対関係になり、焚書

坑儒の対象となった
 

ガド族はユダヤ北朝系から南

朝系に衣替えし遼東半島経由

で朝鮮半島東岸に避難

 

 


  
BC210年

始皇帝が崩御し秦帝国は崩壊

シメオン族の遺民は遼東半島

に避難

 


BC86年

ガド族は対馬経由で博多に渡

来し伊勢国を建国
   

猿田彦一世が初代王に即位し

福岡市吉武高木に王宮を造り

ヘレニズム文化を持ち込み、

銅鏡、銅鐸、銅剣などを作り

祭祀を執り行う

 

BC74年

シメオン族は、筑紫の東表国

から、吉野ヶ里の土地の割譲


を受け、渡来し委奴国を建国

初代王は大国主命
 

※東表国とは

BC800年頃、フェニキア人・

エビス人が大分宇佐地域に

建国した日本最古の王朝

 

BC30年


薩摩半島にいたゼブルン族


400人が鹿島灘周辺に上陸

 

 

 


147年

後漢に圧された高句麗が委

奴国および東表国を攻撃

当時の東表国(エビス王朝)

は、金官加羅国とワンセット

の文化圏とする海人族の【天

の王朝】で、委奴国は同盟国
 

東表国は、高句麗と敵対関係

東アジアの覇権を競う【倭の

大乱】の始まり

 

163年

強大化したシメオン族の委奴

国は、東表国エビス王海部知

男命と連合して博多の猿田彦

の王宮を急襲し太陽神殿と超

大型青銅鏡などを悉く破壊し

伊勢国を滅ぼし、大国主命の

委奴国は博多に遷都
 

敗れたガド族達は日本海と瀬

戸内の二手に分かれて東進し

ガド族の先遺隊であった素戔

嗚尊が建国した出雲王朝に合

流し、もう一隊は大和に入り


東鯷国を建国
 

 
165年

東表国エビス王の海部知男尊

が高句麗を攻め次大王を殺害

そのため高句麗王には新大王

伯固が即位

膨張政策を強化

 

197年

東扶余王の罽須(神武天皇)

は遼東の公孫康を破るも、

その後、和睦し罽須は公孫度

(大物主尊)の次女アヒラツ


姫(卑弥呼の妹)を娶り、


公孫康は罽須の妹 武熾姫を


娶り義兄弟になり、南征に動


き出す

 


204年

北扶余後期王朝のニギハヤヒ

尊がマラ族とモン族と白丁隼

人等を率いてバカン(熊本)

に入り、陜夫が建てた多婆羅

国に参入

 

210年

高句麗の発岐王は五瀬尊を名

乗りウガヤ王罽須と共に「北

倭」を率い南下を始め、九州

博多に前線基地を築く
 

この時、罽須と同盟していた

公孫康(事代主命)もチャム

人を率い九州に渡来し日向西

都原に投馬国を建国

 

同年

五瀬尊・罽須(神武)が北倭

軍を率い、投馬国の公孫康と

連携し委奴国を挟撃

 

213年

大国主命は戦死

委奴国滅亡
 

委奴国の人々は二つに分かれ

て東へ移動

一隊は土師氏が率い日本海を

東進し、素戔嗚尊とガド族の

出雲王朝を侵略

もう一隊は大国主命の長男が

率い瀬戸内を東進

各地のガド族を討伐しながら、

20年掛けて河内湾に入り、

摂津の日下から猿田彦の東鯷

国を攻めますが、撃退され熊

野廻りで再び侵攻し東鯷国を

滅ぼし、大和の地に秦王国を

建国


罽須(神武)と公孫康は連合

してさらに南下し、ニギハヤ

ヒの多婆羅国を攻め敗北する
 

しかし、東表国エビス王の仲


裁で和睦

 

214年

罽須(神武)は博多に戻り旧

伊勢国(猿田彦)の領土に伊

都国を建国

王宮を須玖岡本に開き一大基

地を建設

 
伊都国王の神武は一族を二分

し王子達に東扶余と帯方郡伯

済国及び伊都国の支配権を委

任、自らは一大卒に就任し各

 

地を監察


アヒラツ姫の死後、神武夫


となった卑弥呼は委奴国の


旧都・比恵の王宮に居住し、

安羅国王であった弟の事代主

命が亡くなると安羅国を
相続


し支配者となり安羅国と投馬


国の首都西都原を行き来した


 
※安羅国

投馬国の公孫康(事代主命)

が支配していた日向・薩摩に

あった国

 

220年

中国では曹操の死によって、

曹丕が皇帝となり魏朝が建て

られ、後漢の滅亡によって

「三国時代」が始まる
 

 
221年

遼東に残留した公孫氏は公孫

康の弟・恭(建御名方命)が

即位

 

228年

公孫恭が死亡し、燕王として

康の子・淵が即位

 

234年

罽須(神武)伊都国王が崩御
(享年66歳)


神武の死後、一大卒の地位を

めぐって、再び「倭の大乱」

が起こるが、伊都国(筑紫)

多婆羅国(肥後)、安羅国

(薩摩・日向)及び東表国

(宇佐)の諸王が図って倭人

連合の「邪馬壱国」を建国し

神武王妃の卑弥呼(公孫度の

宗女)を女王にする




そこで、卑弥呼(46歳)は神

武と先妻アヒラツ姫(卑弥呼

の妹)との間の王子・タギシ

ミミ(季父)を伯済国から呼

び寄せて夫婿とし、都を安羅

国の首都・西都原に定め君臨

 

 

238年

魏の司馬懿仲達が公孫淵を殺

し、燕国を滅ぼす
 

 
239年

故国を滅ぼされた卑弥呼は魏

に朝貢


魏は卑弥呼を「親魏倭王」と

した

 

243年

卑弥呼は再び魏に朝貢し「邪

馬壱国・倭国大王」の地位を

公認させる

 

247年

卑弥呼は神武の博多侵攻の際

委奴国王・大国主命を支援し

た琉球の狗奴国王・長髄彦と

の戦いを始める

 

248年

卑弥呼は狗奴国王との戦いの

中、崩御(享年61歳)

直ちに、公孫氏の宗女・壱与

(13歳)が即位
 

ちなみに

卑弥呼の陵墓は大きな円墳
 

 

イッサカル族の手によって

西都原古墳群に建てられ、

男佐穂塚古墳

として現存

 

 


 

 

 

古墳の円墳部分は直径128m

高さ18mの四段式円墳でした

が明治時代に一部を削られ

変な方墳をつけられて前方

後円墳に改竄された。





何してくれとんねん。

 

俺は宮崎行ったとき

ちゃんと見てきたよ。

 

どうでしたか?

知った名前がいっぱい

出てきたけど

教えられてきた歴史と

全然ちゃうでしょ?



歴史はどの時代で判断するか

によって意味が変わります。



たとえば、この年表を見れば

がっつり日本の歴史、

さらに言えば皇統に

ユダヤ人が関係してきます。



日ユ同祖論というのは

正しくもあり不十分でも

あります。



確かに現代を基準に考えると

日本人の祖先の一部は

ユダヤ人だと言えますが、

鬼界カルデラが噴火した後の

BC5,000年頃シュメールに

居た人たち(ユダヤ人)から

見ればシュメール人の祖先の

一部は縄文人

という事になります。



じゃあ、噴火する以前の

縄文人はどこから来たの?



という事になれば

これもまたルーツが

あります。



だからきりがないのです。

要はみんな雑種。

混血しまくり。

濃いか薄いかだけのこと。



という結論になりますが、

それでも調べて事実が

分かってくるという事に

俺はロマンを感じます。



読んでいただき、

ありがとうございました。



ぜひ子供たちにも

伝えてください。