家には床の間をつくれ | 人が持つコミュニケーションの力を磨く・鍛える・呼び覚ますーコミュニケーション・ワークス公式ブログー

 

 

 

 

 

 

「言語技術が日本のサッカーを変える」(2007・光文社新書)

にこんなことが書いてありました。

 

 

 

 

 

 

U−17日本代表のヨーロッパ遠征。

朝食は、他国のチームとともに、皆でいただく。

 

 

 

欧州の選手たちが

整髪料で髪をぴたっと整え、

揃いのポロシャツをズボンに入れ、靴をきちんと履いて現れる中、

日本の選手だけが、

ジャージを着崩し、サンダル履きで、寝癖の髪でやってきたそう。

 

 

 

 

 

もちろん、

出発前に言葉使いや、髪型、服装

(ズボンの中にシャツを入れる、履物はきちんと履く…)

に至るまで、事細かに「指導」をした。

が、誰も「出来なかった」。

 

 

田嶋さん(著者・その時のU17監督)はこの瞬間

「…負けた!」と思ったそうなのですが、

その通り、試合でもぼろ負けだったそうで。

 

 

 

 

 

そして、田嶋さんは思うわけです。

「真のエリート教育(帝王学)」とは何か、と。

 

 

「大切な何かが、日本チームの若者たちに対してなされていない。

いわば、人間としての『基本的な訓練』がなされていない。

そうしたチームの限界を私はこの欧州遠征でまざまざと見せつけられたのです」

(田嶋さん)

 

 

 

 

 

 

 

日本では、

帝王学というような言葉は一般的でなくとも、

昔からちゃんと

「公の場での立ち居振る舞い」

というような感覚がありました。

 

 

 

けれど今、

例えば、若い人たちが多いカフェなどに行くと、

 

 

「総・自宅化」しているなあ~

 

 

と思うことが多い。

自分の家の居間にいるような雰囲氣。

空間の使い方と氣の使い方。

(つまり、氣を使っていない、ということなんですが)

具体的にいますと…

 

 

 

 

「横になるな!ここは君の家じゃない」

「通路に荷物が広がっていますよ」

「そんなに足を広げますか」

「ちょっと声を落としなさい」

 

などなど…。

「小うるさい大人」になっていることは

わかっていますが(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

だいぶ以前のことですが、

とあるホテル。

 

高校を出たばかり。

頭に殻を乗っけたひよこみたいな新入社員たちを

最前線に出してクレームを受け、

 

 

「あの子たちは研修を受けているのだからできるはずだ」

 

 

と言った管理職さんがいました。

 

確かに彼らは外部から呼んだ「立派な講師」の接客研修を受けました。

しかし、その回数はたったの1回。

 

 

 

その一回の中で、挨拶からフロアでの立ち振る舞いから

襖の開け閉め、畳の所作、お茶の入れ方出し方まで。

 

 

 

 

 

家に畳の部屋すらあるか怪しい。

お茶も一度も自分で言いれたことのない子ようなたちが。

これは無理だろう…

 

と内心思いながらみていましたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「歌舞伎とは何か?」

の問いに

 

「歌舞伎とは身体だ」

 

といったのは市川猿之助。

 

 

セリフや衣装や演目を真似れば

「歌舞伎」になるのではない。

逆に、歌舞伎役者がやると、ある意味なんでも「歌舞伎」になってしまう。

役者の身体に染み込んだものが「歌舞伎そのもの」なのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは何者か?

 

 

それは

「あなたの身体に刻まれたもの」。

それが答えです。

 

 

 

 

「お里が知れる」という言葉がありますが、

これはまさに

染み出す立ち居振る舞いに、

その人の育ちのみならず、精神性までがあらわれますよ、

という意味でしょうか。

 

 

 

いくら言葉で言っても無理なのです。

身体に「それ」が入っていないと。

日々の生活に「それ」が染み入っていないと、形にはならない。

 

 

 

 

 

 

 

さて。

今日のタイトル「家には床の間をつくれ」なのですが。

 

 

「実家の和室は、母がお茶をやっていたこともあって、

襖も特別。

その部屋には仏壇も床の間もあったので、

子どもはおいそれとは出入りできない雰囲氣で、

本当に特別な場所でした」

 

 

とおっしゃったのは40代前半の男性クライアントさん。

 

 

 

 

 

家の中に特別な空間がある。

「フォーマル」な空間がある。

 

それは、とても大切な氣がしています。

立ち居振る舞いを身につけるといった意味もありますが。

 

 

 

 

 

あそこには、神聖にして犯すべからざるものが、ある。

常に丁寧に掃き清められた、

「精神」の住まう空間がある。

 

 

 

 

 

それを

「身体が」知っていることが。

そういう空氣の中で育つことが、

 

 

 

「お天道様が見ている」

「だから誰も見ていなくても、頑張る」

「誰もみていなくても居住まいを正す」

「それが当たり前だから」

 

 

 

 

そういう「身体」に。

 

私たち日本人が、

ずっと受け継いできた、その

「美しさ」

につながって行くと思うからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*    *    *

 

 

「自分たちの中の『宝』を思い出す」

 

◆「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。身体の通りになるのだ」◆

ー他者に影響を与えるニッポンのリーダーが知っておくべきコミュケーションのための

身体と声の基礎知識ー

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他者とのコミュニケーションは

自分自身とのコミュニケーションの映し鏡。

全ての答えは自分の中にある、

 

これは、コミュニケーションの基本原則。

 

 

その考え方でいうと、

「わたしたち」の中にも、答えはある、ということになります。

「日本人であるわたしたち」の伝統文化。

 

 

以前、教えを請うた合氣道の先生が

こんなことをおっしゃっていました。

 

 

「かつて、戦争中に日本人が世界から恐れられたのは、

『肚に重心を持つ人(胆力の人)』だったからだ。

思考(損得)でも、感情に振り回されるでもない、

もっと深いところに根っこを持ち、そこからの『動機』で

動くのが日本人なのだ」

 

 

 

維新から150年。そして戦後73年。

 

あまりにも大きな生活スタイルの変化とともに、

日本人の「あり方」の根幹をなしていた

プレゼンスを形作っていた「身体の叡智(日本人の身体技能)」

のいくつかは、

確かに、息も絶え絶えとなっているのが正直なところ。

 

 

あまりにも身近にあるため氣づかぬまま忘れかけている

「わたしたちの身体に刻まれた感覚」にこそ、

 

この激動の時代を生きる「プレゼンス(あり方)」の

種子があると感じています。

 


 

 

 

 

 

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