2013年12月23日(月)

親も子も失敗する。

テーマ:子供と大人

親も子も失敗する。
人間は、失敗する生き物だ。


・・・そのような認識を、
親は子に対して持ったほうがいいし、
子も親に対して持ったほうがいい。




「じゃあ、失敗してもいいんだ」
と、すべてを投げ出してしまう子がいるかもしれない。
その子は、きっと失敗の意味 をよく理解していない。


「失敗してもいい」と考えてする失敗も、ある意味では失敗だと言えるが、
やはり、まず先に成功しようとする姿勢が必要なのだと思う。




わが子の失敗を認める。
それは、「失敗しても意に介さない」ことではない。
成功して欲しい。
成功させてやりたい。
そう願うのは、親として自然なことだ。
・・・しかし、成功しない時もある。失敗する時がある。
そうなったら、次の成功のための材料にすればいい。
というより、もう、そうするしかないのだ。


親の失敗も認めよう。
親は神ではない。人間だ。親も失敗する時がある。
「何の失敗も犯さない」・・・そんな気色悪い人間は存在しない。
自分が、そんな化け物の子でなくてよかった。
人それぞれの形があるにしても、人間らしく個性的な経験ができたのは、
親の失敗があったからこそ。
これは、解釈ではない。現実なのだ。


そして、
親の子であり、子の親である自分の失敗を認めていこう。
繰り返しになるが、
成功しない時もある。失敗する時がある。
そうなったら、次の成功のための材料にすればいい。
というより、もう、そうするしかないのだ。
いつも何度でも。

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2012年04月11日(水)

親子と言えども他人同士

テーマ:子供と大人

「親なのに気づかなかった」

・・・我が子が抱えていた問題を知った時の、親の言葉だ。


それは、
本当にその親が自発的に思い、語った言葉なのだろうか。
ひょっとすると、
周囲の人々の心情を察して、
いわば、多少なりとも"周囲の目を気にしながら"語った言葉ではないのだろうか。


文化が違えば、基準も変わってくる。
例えば、
ある文化圏では"過保護"のほうが問題視され、
ある文化圏では"放任"のほうが問題視される。




我が子の変調に気づかない親に、責任がまったくない
とは思わない。
しかし、親子と言えども他人同士である。


何もかも気づくのが当然、と思うことのほうが不自然だろう。
いくら我が子のことでも、
あらゆるすべてを予測しようなど、根本的に無理がある。
わからないのが当然、と思うところから出発するのが妥当だろう。


基本的には、わからない。
けれども、単に「わからない」で終わらせるのではなく、
何とかして、そこを乗り越えてわかろうとする。わかろうとし続ける。
それが親の、子に対する眼差しなのだと思う。

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2011年02月16日(水)

先生と生徒

テーマ:子供と大人

先生とは、文字通り、「先に生きる人」。
他方、
生徒とは、「徒(いたずら)に生きる人」なのだと思う。
(語源をきちんと調べたわけではありません。語源をご存知のかた、もし違っていたら教えてください。)




先生も生徒も、そのことをよくわきまえておいたほうが良い。


先生とは、基本的に、先に生きているだけの人である。
“だけ”と言っても、時間的な経験量の差は決して小さいものではない。
人間一般にとって、この差はとても大きい。
だからこそ、後から生まれてきた人に、ものを教えることもできるのだ。


しかし、基本的に、それ以上の“特別な存在”ではない。
「先に生きる人」、それが先生である。


生徒の「徒に生きる人」というのは、少し響きが悪い気もするが、
ここは
「無為に生きる人」
「自然のままに生きる人」
などと言い換えても良いだろう。


つまり、先生から“教わる存在”であることが前提ではなく、
基本的には、単純に「徒に生きる人」、それが生徒である。




先生も生徒も、そのことをよくわきまえておかないと、
何か根本的な勘違いをしてしまう恐れがある。


特に、生徒は、時間的な経験量がまだ圧倒的に少ないこともあり、
「先生も、ほんの数年前までは未熟だったし、今でも未熟なのだ」
ということに思い至ることは、なかなか難しい。
生徒から見て先生は、なんだかんだ言って“偉く”見えてしまう。


だからこそ、どちらかと言えば生徒よりも先生のほうが、
まず、このことをよくわきまえておく必要がある。
そのことを踏まえた上で、「先生と生徒」という人間関係を健全に保つ。
それが、先生と呼ばれる人の務めなのではないかと思う。

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2011年01月07日(金)

目が合うと

テーマ:子供と大人

目が合うと、僕の子が笑う。


何がおもしろくて笑っているのだろう。
お父さんが僕を見てる、嬉しい、
・・・なんてことを、まだ半年も経たない赤ん坊が思うとは考えられない。
もっと単純なレベルで、
ただ何かに反応して笑っているような気がする。


そもそも、
「お父さん」という概念も、
「見られて嬉しい」という感覚も、
はっきりと自覚してなどいないはずだ。
それは大人が“解釈”することであって、
この子は、もっと単純に、ただ笑っているのだと思う。


笑っているから楽しい気分になるのか、
楽しい気分だから笑うのか。
・・・ナンセンスな問いかもしれない。




一つだけ確かなのは、
僕の子が僕を見て笑う、その様子が、
僕にとっては訳もなく嬉しくてたまらない、ということだ。
何がおもしろくて笑うのか、僕にはさっぱりわからないけれども、
僕も嬉しくなって、つい笑ってしまう。


僕が声を出して笑うと、
僕の子も声を出してさらに愉しそうに笑う。
そうして、しばらく笑い合戦が続く。




何の前触れもなく、突然笑い始め、ただ笑いあうだけのコミュニケーション。
(コミュニケーションなのだろうか?)


街中で、見知らぬ人に対してそんな態度を取ろうものなら、
警官を呼ばれてしまう可能性だってある。
僕も、もし、通りすがりの人に急にゲラゲラと笑いかけられたら、
見なかったふりをして足早に逃げる。


それと同じことが、我が子との間では楽しくてたまらない。
相手も(たぶん)楽しいのだと思う。笑っているのだから。


・・・生後半年で早くも「愛想笑い」を覚えた、
というわけでは決してないと、僕は断固として信じている。

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2009年05月19日(火)

大人らしさ

テーマ:子供と大人

大人が、「大人らしい」わけではない。


ましてや、
子供が大人になれば、「大人らしく」なるわけでもない。




子供の頃の個性は、大人になってもそれほど変わらない。
大人になれば、大人としての“役割”を与えられる。
ただ、それだけのこと。


子供の頃の個性を、大人になっても持ち続けている。
その個性を、与えられた“役割”の中に、うまく落とし込んで生きる。
それが、「大人」という姿。




子供から見れば、
個性もひっくるめた、その姿全体が「大人」に見える。
目の前のその大人が、大人としてのその役割を与えられていなかった頃のことなど、
後から生まれてきた子供には、当然、知る由もない。
だから、もともとの個性と、与えられている役割を区別して見ることも、もちろんできない。


子供から見た「大人らしさ」とは、そういうものなのだ。


僕が子供の頃に思った「大人らしさ」も、
きっと、そういうものだったのだと思う。

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2008年09月16日(火)

子供の不利につけこんで

テーマ:子供と大人

忘れちゃいけない。
みんな、あと数十年も生きれば、死んでしまうのだ。
その間にできることは、限られている。
何もかも知り尽くして生きている人なんて、どこにもいないし、
誰もが手探りの朝を迎えている。


ほんの少し前、赤ん坊だった頃には、
右も左もわからない状態で生まれてきた。
その状態から始まって、自分なりの生き方を身につけながら、
なんとか数十年を切り抜けてきた。
それが大人たちだ。


大人だって、好きで「大人」と呼ばれているわけじゃない。
そう呼ばれる年齢になり、そう呼ばれる立場になった。
人と人との繋がりにおいて生きている以上、
「大人」としての役割を放り出すわけにはいかない。
初めから大人であるわけではない。「大人」として生きているのだ。


本当はね、
こういうことこそを、大人が子供に教えなきゃいけないんだと思う。
子供が生まれた時に大人だった人は、
ほとんどが、先に死んで居なくなってしまうからね。
だから子供は、いつまでも大人に頼っていられないし、
大人だって、ほんの少し前までは子供で、今も手探りで生きている。
そのことを、いつか子供は知らなければいけない。


でも、こういうことを、大人は子供に教えたがらない。
大人も、格好つけたがるから、
「自分がほとんど子供と変わらない」なんて、あまり言いたくないんだよ。
それに、そう思いたくない。
自分が生きてきた時間には、それなりの意味があり、その時間を通して人生について学んできた、
・・・そう、思いたい。
子供よりも長く生きたし、それだけ経験も多い、
という自覚が、先輩気取りで教えようとする態度に表れる。


もちろん、ほとんどの場合、悪気はないよ。
むしろ、相手のためになると思って教えようとする。
でも、自信を持って教えられるほど確信が持てているのかと言えば、そうでもないのさ。
希望的観測で言っている場合が多い。
つまり、
「こうであって欲しい」と世界に望むことを、まるで最初から事実であったかのように言う。
そうすることによって、
自分が、世界のことを理解しているような気持ちになれるからね。




そして、ここからが一番大事なところ。
自分が言ったことに共感してくれる人が増えれば増えるほど、自分は生きやすくなる、
・・・ということを、
「大人」と呼ばれるようになるくらいまで生きてきた人は、たいてい肌で感じて知っている。
それに、大人だって人間だし、必死に生きているから、
少しでも、世界を、自分の望むような状態に変えていきたい。
だからこそ、自分の人生経験を軸にして、子供にいろいろ教えようとする。
そうやって、自分の人生を、ますます意味のあるものにしようとしている。


子供は、その点ちょっと不利だよね。
教えてもらうことの中に、
生きるために本当に必要なことと、大人が望む世界のウンチクとが入り混じっていても、
そもそも自分の人生経験が短いから、どこからが相手のウンチクなのかを判断することは難しい。
だから最初は、大人の言うことを信じ込むしかないんだ。
時には、信じ込んだ子供がそのまま大人になって、さらに子供に伝えていく場合もあるよね。
キリスト教も、イスラム教も、仏教も、そうやって広まったんだと思う。


この記事も、同じだよ。
まるで、この世界全体の仕組みをわかっているような書き方をしているけど、
ただ僕がそう思っているだけであって、
今まで書いてきたことが本当にこの通りである保証なんて、どこにもないからね。
(「保証なんて、どこにもない」と言っているのも僕だから、それも間違ってるかもしれないね。)
僕が書いた記事を読んで共感してくれる人が増えれば、きっと僕は生きやすくなる。
自分が生きやすくなるために書いているようなつもりじゃないけど、
意識しないまでも、僕がそのことを肌で感じて知っていることは間違いない。


そう思うと、
ちょっと悔しいけど、このブログも、僕の限られた人生を生きやすくするための手段に過ぎないのだろう。
本当は、ちっとも考えすぎなんかじゃないのかもしれない。

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2008年08月06日(水)

「わかるよ」

テーマ:子供と大人

僕の考えていることくらい「わかるよ」と、
あの日、親に言われて悔しかった理由。


それは、
わからないくせに「わかるよ」と言ってきたからでも、
その言い方が僕を見下しているようだったからでもない。
親が、
本当にわかっていたにしても、
本当はわからなかったにしても、
そこで「わかるよ」と片付けられてしまったことが、悔しかったんだ。

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2008年07月19日(土)

今の人は・・・

テーマ:子供と大人

昔の大人には、もっと迫力があったよ。
お年寄りにも、もっと深みがあった。
でも、今の人には、それがない。


子供も、
最近の子供は、昔に比べると幼い。
昔は、子供も子供なりに、もっとしっかりしていた。




・・・なんて、いつの時代も言われてきたよね。
その時代に生きた人が、それよりも昔のことを振り返って吐いてきた言葉だよ。


だけど、そりゃそうだろう。
それだけ自分も歳を重ねているんだ。
当時のことを思い出しているのは、今の自分。
今の自分の頭で焼き直した記憶と、目の前にいる人々とを比較すれば、
目の前にいる人々のほうが圧倒的に頼りなく見えてしまうのも当然だろう。


“あの頃”の「自分」や、「大人」や、「子供」は、
焼き直された記憶の中で、
実際以上に美化され、理想化され、
あるいは、印象的な場面だけが強く残って象徴化されている。


そんな、オハナシの中みたいな人たちと比べられてしまったら、
今、目の前で生きているナマミの人間は、
誰だって、未熟で幼くて半人前に見えるに決まってるじゃないか。




それでも、たまには、今の人も、
迫力があって、
深みがあって、
しっかりしているんだよ。


たまにある、そんな場面が心に強く刻まれた今の子供たちが、
将来、大人になって、
きっと言うんだろう。

「今の人は、2008年のあの頃の人に比べて、だらしなくなった」


決して、そんなことはないのに。

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2007年08月02日(木)

子供は考える

テーマ:子供と大人

実際、子供のほうが、しっかり考えている。
むしろ、大人のほうが、何も考えていないような気がする。


子供は、世界に慣れていないから、
いろいろな場面でつまづく。
つまづいた子供は、世界と自分のギャップをひしひしと感じ、
世界について、自分について、あれこれと考えを巡らすようになる。


もちろん、すべての子供がそうなるわけではないだろうけれども、
少なくとも世慣れた大人よりは、そうなる機会が多いに違いない。




大人は、人生のことだとか、世の中のことだとかを、
しっかり考えているつもりでいる。
けれどもそれは、考えているのではなくて、
継続的に意識しているだけだと思う。


「人生をどうしたいか」
「世の中はどうあるべきか」
・・・大人の心の中では、もう、ある程度決まっている。
こうしたことを、わざわざ改めて考えたりはしないのだ。
するのは、ただ、その目標に向けてやるべきことを意識し続けること。
世の大人たちは、このことを指して「考えている」と言っているのではないかと思う。


もっとも、広い意味では、意識することも考えることのうちに入る。
だから、世の大人たちの自覚も完全に間違っているわけではない。
ただ、子供の「考える」は、
大人のそれよりも、もっと根本的な「考える」であり、
「考える」「考えない」ということだけで言えば、
むしろ大人よりも子供のほうが、よく考えているように見える。


大人の多くは、
子供の頃に比べて考えなくなった分を、経験から培った知識でカバーする。
そして、知識を転がしながら、ただそれだけで、
「自分は考えている」と思い込んでいるのだ。

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2007年04月30日(月)

「自発的な行動」の意味

テーマ:子供と大人

大人は言う。

「他人から言われてやるのではなく、自発的に行動しよう」
と。


しかし、実際に子供が自発的に何かをやっていると、
「それをしてはいけない」
「そのやりかたは間違っている」
と、いろいろケチをつけるのも大人だ。
(大人にとっては、教育やアドバイスのつもりなのだけれども。)


大人は、自発的に行動しろと言うくせに、
いざ、子供が自分で考えて何かをやっていると、今度は口を出す。
しかも、子供がそれに耳を傾けないでいると怒りさえする。


・・・こうした矛盾に、子供は非常に敏感だ。




理解に苦しむ矛盾。
やがて子供は、こう解釈するようになる。

「自発的に行動すれば何でもいいわけではなくて、ただ、大人が望むような行動を自発的にして欲しいだけなんだ」


この時、大人と子供の心の間に、小さな、しかし埋めがたい溝が生まれるのだ。

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