2006年10月23日(月)

ロック

テーマ:西洋哲学史

デカルト は、
思惟ひろがりをはっきりと認識している」ということを、
ひろがりの存在の根拠としました。
つまり、
「まず先に思惟(主観的な世界)が存在し、その思惟に支えられてひろがり(客観的な世界)が存在する」
という考え方です。


この考え方は、プラトンイデア説と構図がよく似ています。
プラトン は、
「世の中のあらゆるものはイデアを基準に作られている」
と考え、イデアを捉える“理性”を重んじました。
これに対してアリストテレス は、
「馬を一頭も見たことがない人には、馬のイデアなどわかるはずがない」
と反論し、世の中のものを捉える“感覚”を重んじました。




ロックも、
アリストテレス と似たような観点から、デカルト に反論します。


そもそも、生まれたての赤ん坊の心に、初めからひろがりのような観念があるでしょうか。
あるはずがありません。
どのような観念も、感覚的な経験なくしては手に入らないはずです。
ですから本当は、こう考えるのが自然です。
「まず先にひろがりが存在する。思惟はそれを、感覚的経験を通して認識するようになる」


感覚する前の、いかなる観念もない心。
ロックは、それを
「白紙(タブラ・ラサ)」
と表現しました。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年09月23日(土)

スピノザ

テーマ:西洋哲学史

デカルト は、
思惟ひろがりは、まったく別のものである」
と考えました。
この考え方を人間に当てはめると、
「心と身体は、まったく別のものである」
という、心身二元論に行き着きます。


しかし、この考え方では、
人間の心と身体の相互関係をうまく説明することができません。
そこでデカルト は、仕方なく、
「特別な脳組織によって、心と身体がつながっている」
と説明しました。




一方、スピノザは、
思惟ひろがりも現れ方が違うだけで、もとは同じものだ」
と考えました。
こうした考え方を、心身並行論といいます。


例えば、おいしそうな食べ物が目の前に置かれた場合。
人間の思惟は、「食べたい」と思うでしょう。
人間のひろがりは、つばを出すでしょう。
あるいは、不眠不休の仕事からようやく解放された場合。
人間の思惟は、「眠りたい」と思うでしょう。
人間のひろがりは、あくびをするでしょう。
結局のところ、
思惟ひろがりの違いとは、単に自然法則の現れ方の違いに過ぎないように思われます。


心を持つものも、心を持たないものも、
世界という巨大な機械を構成する歯車の一つである、という点では同じです。
スピノザによれば、
人間の意志も、実は、自然法則に従っていて、
ただ、本人にその自覚がないだけなのだということです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年09月07日(木)

デカルト

テーマ:西洋哲学史

Aさんからは○に見えても、
Bさんからは△に見えるかもしれない。
何が正しいのかは、目の付け所(視点)によって違ってくる。
だから、絶対的に正しいものなど存在しない。
・・・これが、プロタゴラス らソフィストたちの、相対主義の考え方です。


しかし、プラトン は、「絶対的に正しいものは存在する」と言いました。
絶対確実なもの。
それは理性で捉えるもの(=イデア)なのだ、と。


一方、アウグスティヌス は、「人間の理性には限界がある」と考えました。
そして彼は、すべてを知り尽くしているのは(キリスト教の)神をおいてほかにない、と説きました。


また、トマス・アクィナス は、
理性を研ぎ澄ませることも、神を信仰することも、どちらも大切なのだと述べました。




プラトン も、アウグスティヌス も、トマス・アクィナス も、三者三様です。
これでは、どれが本当に正しいのかわかりません。
結局、最初の相対主義に戻ってきてしまいます。


もし仮に、絶対的に正しいものがあるとするなら、
それは、誰にとっても絶対確実なものでなければなりません。




そこでデカルトは、まず、あらゆるものを疑ってみることにしました。


イデアは、本当に存在するのでしょうか。
神は、本当に存在するのでしょうか。
・・・そもそも、この世界は本当に存在しているのでしょうか。
すべては夢かもしれません。


ところが、このように疑えば疑うほど、実は、疑う余地のなくなっていくものがあります。
それは、まさにこうしてすべてを疑っている、思惟(=自分)の存在です。
また、こうして疑いぬけば、誰もがこの同じ結論に到達できるはずですから、
思惟の存在は、誰にとっても絶対確実なものだと言えます。


とは言え、ただ思惟が存在しているだけでは、何も始まりません。
思惟の存在が絶対確実なら、思惟がはっきりと認識している事物もまた絶対確実なもののはずです。
思惟がはっきりと認識している、もう一つの絶対確実なもの。
それは、長さや幅や大きさのような、ひろがり(=空間的な拡がり)の存在です。


なお、思惟には幅も大きさもありません。
また、ひろがりそのものが何かを考えることもありません。
このことから、デカルトは、
思惟ひろがりは互いに独立した別の存在である、と考え、
思惟を主観的なもの、ひろがりを客観的なものとして、諸学問の出発点に位置づけました。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年06月29日(木)

トマス・アクィナス

テーマ:西洋哲学史

アリストテレス は、注意深い観察の積み重ねによって世界を解明しようとしました。
この姿勢は今も、多くの学問に共通しているものです。
天文学、物理学、生物学、医学、心理学、言語学、考古学、・・・。
どの学問も、注意深い観察から始まって、今日まで発展してきました。


しかし、アウグスティヌス が言ったように、
キリスト教会は、「人間の知には限界がある」と説いています。
もし、その通りだとすると、
人間の知的営みの権化ともいえる諸学問は、いったい何のために存在しているのでしょうか?
この巨大な体系も、実は無意味なものだった、ということになるのでしょうか?



神学者トマス・アクィナスは、
信仰はもちろん大切だが、学問も大切だ、と考えました。


そもそも一体、この世界を創った神の目的は何でしょうか。
それを知るためには、アリストテレス のやり方で世界を解明していくことが大切です。
しかしながら、世界はあくまで神の作品に過ぎません。
作品そのものをいくら研究しても、作者である神自身についてはわかりません。
そこで、神自身について記されている聖書の研究が大切になります。


つまり、
学問的な研究も、聖書の研究も、どちらも大切な研究だ、ということです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年06月06日(火)

アウグスティヌス

テーマ:西洋哲学史

キリスト教の教義は、多くの非合理な点を抱えています。


たとえば、
「無限の存在である神が、有限の存在である人の子イエスとして現れた」
という説明や、
「全知全能の神が作ったはずのこの世界に、多くの罪が存在している」
という事実など。



初代キリスト教会の教父アウグスティヌスは、
こうした非合理さをめぐる問題ついて、プラトンイデア説を借りて次のように解説しました。


そもそも、イデアを完全に知っているのは神だけである。
人間は不完全な存在であるから、
疑い得ない真理を知りたければ、神に頼るほかない。


・・・つまり、
神は人知を超えた存在であり、その全貌を人間の理性だけで理解することは到底不可能だから、
人間は、ただ神を信じるほかない、
ということです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年04月17日(月)

アリストテレス

テーマ:西洋哲学史

プラトン の門下生アリストテレスは、
「理性」も大切だが、その前にまず「感覚」が大切だ、
と考えました。


例えば、「馬」という概念は、
個々の馬を実際に観察してから初めて作られる概念です。


たてがみがある。
ひづめがある。
面長で、胴長。
筋肉質。
足が速い。
・・・こうした共通点をつなぎ合わせることによって、典型的な「馬」という概念ができあがります。
プラトンイデアと呼んだのも、このような概念でした。
一方、アリストテレスは、「典型的な特徴」といった意味で、これを形相と呼びました。


馬を一頭も見たことがない人には、馬の形相などわかるはずがありません。
ですから、理性も大切ですが、その前に世の中のものをよく観察することが大切です。
つまり、まず感覚が大切だということです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年03月13日(月)

プラトン

テーマ:西洋哲学史

ソクラテス の弟子プラトンは、
「感覚」は相対的なものだが、「理性」は絶対的なものだ、
と考えました。



確かに、プロタゴラス の言う通り、
同じことでも、人によって感じ方はさまざまです。
ですから、感覚で捉えるものはあてになりません。
・・・しかし、理性で捉えるものは絶対的な基準になります。


例えば「三角形」なら、誰でも「三本の直線で囲まれた図形」をイメージします。
これは、慣れ親しんだ文化に関係なく、正しいイメージです。
ところが、
紙の上に描かれた三角形はどれも歪んでいて、厳密には「三角形」ではありません。
なぜならこれは、理性で捉えた「三角形」というイメージに“似せて”描かれたものだからです。


プラトンは、このような原型となるイメージまたは概念をイデアと名付け、
「世の中のあらゆるものはイデアを基準に作られている」
と考えました。
例えば、世の中の「馬」は、「馬のイデア」を基準に原子が組み合わさって作られます。
だからこそ、変な物体にはならずに、ちゃんと「馬」になるのです。
(→デモクリトス の「原子論」を参照)
この考え方は、ちょうど、
今日の自然科学における「DNA(あらゆる生命の設計図)」の考え方と、よく似ています。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年03月03日(金)

ソクラテス

テーマ:西洋哲学史

プロタゴラス の主張は、次のようなものでした。
「正しいことは人によって違う」
・・・このような物事の捉え方を、相対主義といいます。


ソフィストたち(プロタゴラス を含む)は、この相対主義の観点から、
状況に応じて違ってくる「正しいこと」について、人々に説きました。
言わば、生活の知恵として。


しかし、ソクラテスが知ろうとしたのは、
個々の「正しいこと」ではなく、「正しさとは何か?」ということでした。
ソフィストたちは、「正しいこと」の実例を挙げることについては得意でしたが、
「正しさとは何か?」という彼の問いにはどうしても答えられませんでした。


正しさについて知らない、という点では、結局、ソクラテスもソフィストたちと同じでした。
しかし、そのことをよく自覚していたという点で、彼はソフィストたちとは大きく違っていました。
彼は、このことを次のように表現しました。
「無知の知」




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年02月22日(水)

プロタゴラス

テーマ:西洋哲学史

人助けは善いこと。正しい行為。
人殺しは悪いこと。間違った行為。
普通、そう考えられています。


しかし、世の中には「人食い人種」と呼ばれる人たちもいます。
彼らにとって、人肉は食料です。
人肉を食べるために人を殺すこともある。
・・・つまり、彼らにとって人殺しとは、
牛や豚を殺すのと似たようなことであって、特に間違ったことではないのです。


何が善くて、何が正しいのか。
その人が慣れ親しんできた文化によって、物事の捉え方はさまざまに違ってきます。
・・・正しいことと正しくないことの絶対的な基準なんてあるのでしょうか?


プロタゴラスは言います。
「人間は万物の尺度である」
つまり、
基準は人間の数だけある、ということです。
どんな基準も、あくまで相対的なものでしかなく、人それぞれだということです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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2006年02月05日(日)

デモクリトス

テーマ:西洋哲学史

ヘラクレイトス は、自然の変化を積極的に認めました。
一方、パルメニデス は、何かが変化すること自体を認めませんでした。
この二人の物事の捉え方は、真っ向から対立します。
ところが、この二つの捉え方は両方とも正しい、と考えた哲学者がいました。
デモクリトスです。



彼は、最初に「原子論」を唱えた人物として、よく知られています。
その基本的な考え方は、今日の自然科学における「原子」の考え方とほとんど同じでした。


現在、中学や高校では、「原子」について次のように教えられています。
原子とは、それ以上分割されないような、物質の最小単位である。
原子には、「水素」「酸素」「炭素」「鉄」など、様々な種類のものがある。自然界のあらゆるものは、これら原子の組み合わせから成っている。例えば、「水素」原子2個と「酸素」原子1個が結合すると、「水」分子になる。
原子の組み合わさり方が変われば、違う物質になる。例えば、空気中で炭が燃えると二酸化炭素を生じるが、これは、空気中の「酸素」原子2個と「炭素」原子1個が結合して「二酸化炭素」分子になるためである。


つまり、パルメニデス の言う通り、存在する「原子」はあくまでも存在します。
消えることも、急に現れることもありません。
ただし、その組み合わさり方は、刻一刻と変化していきます。
だからこそ、ヘラクレイトス の言う通り、自然は目まぐるしく変化するのです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

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