2014年07月21日(月)

でも僕は書くことにした

テーマ:生と死

ベロニカは死ぬことにした
でも僕は書くことにした。


ベロニカは、すべてが見えてしまい、厭世的になり死を望んだ。
僕は、何も見えていないのに、死が怖くて死を見つめた。
わからないくせに見つめることがやめられなかった。
でも見つめるだけではいけない、と思った。
だから僕は書くことにした。
きっと、「書く」ということも行動の一つには違いないと信じて。


最近、『アルケミスト』を読み終えた。
二回目か、三回目だ。
もともと持っていた本は無くしてしまったので、仕方なく買い直して読んでいた。


その途中、一冊目はある人に貸しっぱなしになっていたことが判明した。
たまたまその人と話す機会があり、まったく別の話をしていたのだが、
「ところで・・・」と、そのことを教えてくれたのだった。


判明した・・・というより、単に僕が忘れていただけなのだが、
これも何かの前兆なのだろう、という気がしている。




インプットでもアウトプットでもない、ただ自分のための時間の持ち方がある。
・・・先日、そう気づかされたことがあった。
以来、僕は、「自分のための時間」を意識するようになった。
もともと、何かに没頭するとすぐに我を忘れてしまう性分なのだが、
その我のために、あえて時間を用意してみようと思うようになった。


それで何が大きく変わったか、というと、
正直なところ、実感としては僕自身は特に何も変わっていない気がする。
ただ、自分を見つめるようになった分、
ここ数年減っていた「死を見つめる」時間が増えたのは間違いない。
「今日も生きた」
「自分の今を見つめよう」
と思えば思うほど、やはり、死を思わずにいられなかった。




先週、死が怖い理由と、虚しい理由について考えていて、重要なことに気が付いた。
それは、
人間にとって未知なる自由は怖い、ということと、
人間にとって不可避の運命は虚しい、ということだ。
この二つの人間の特性を先に理解しておいたほうが、
闇雲に死を見つめて恐怖するよりは、まだ、くみしやすくなると思った。


その一方で、かめさんが書かれたこの記事には、
「やはり、死を真正面から見据えることも忘れてはならない」
ということを、改めて痛感させられた。
別のルートから死を探ろうとすると、
死の本質や、その質感がわからなくなってしまう危険性が増してしまう。
やはり、それではいけなかった。


そこで僕は書くことにした。
「本当のこと」を言うと、誰かの恨みを買いやすい。
「それでも書くべきだ」と、僕の心は言っていた。
「宣伝したくない」と思ってしまうのは、他人の枠組みの中に組み込まれてしまうことが嫌だったからだが、
現に与えられている時間には限りがあり、
僕は、そんなことを言っている場合ではなかった。
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同じテーマ 「生と死」 の記事
2014年07月13日(日)

死が怖い理由と、虚しい理由

テーマ:生と死

僕は、中学2年になってから 、急に死が怖くなった。
以来、この恐怖感に襲われては激しく動揺し、取り乱す、
・・・ということを、たびたび繰り返してきた。


でも、(当たり前の話だが)まだ僕は死を経験したことがない。
「経験したこともないくせに、どうしてこんなに死が怖いのだろう」
と考え始めると、怖いながらも釈然としなかった。
だから、死が怖い理由 を時々考えてみたりもしてきた。
いろいろな可能性を考えてみたものの、
どれも僕自身の勝手な思い込みのようにも思えて、結局、腑に落ちなかった。




最近、ふと、
選択肢がある、というのは どういうことか」
と考えたことがあった。
考えていくうちに、あることに気が付いた。
選択肢があることは、一見するととても自由なことのようにも思えるが、
「そのどれかを選択しなければならない」という意味では不自由だった。


しかし、同時に、
その一定の不自由さが人間には必要なのだ、とも思った。
なぜなら、未知なる自由は、怖い からだ。
既に知っているものの中からどれかを選ぶことの難しさと、
まったくの未知の中から一つを見つけ、信じることの難しさは、
心理的なハードルの次元がまったく違う。
前者は、それほど難しくないし、むしろ快適で自由だとさえ感じるが、
後者は、実際には完全な自由であるにも関わらず、
その怖さゆえに身動きが取れず、かえって不自由に感じるのだ。


そして、おそらく、
死は未知なる自由の極致だろう。
人間が、あらゆる制約から解放される瞬間が「死」なのだから。
人間は「死」を経て、生物から永遠の無生物へと変化する。(→『はざまを生きる存在』
人間にとって、死は最大の謎であり、永遠の未知である。
死をどのように解釈するのも完全に自由なのだ。
そこには選択肢さえ存在しない。
だから、怖い。
補助輪のない自転車に急に乗せられたら、怖くてペダルに足も乗せられない。


・・・これが、死が怖い理由だ。
人間が何を怖いと感じるか、ということに焦点を当ててみれば、
死がとても怖いことであるのは当然だった。




・・・実は、僕にとって死は怖いだけではない。
死を思うと、僕はとても虚しくなる。


「いつかは必ず死んでしまう」
という避けられない現実が、虚しい。
どんなにあがいても、この現実は変えられない。
それは必然だった。


「偶然」は、次第に自由になり、楽しいものになっていく(→『偶然とは』 )が、
「必然」は、極めて不自由で、虚しい。
いつかは必ず死んでしまう、
という現実は必然であり、不自由の極致だ。




死そのものは未知なる自由の極致だが、
「死に至る」というこの不可避の運命は、不自由の極致だ。
このことが、死を、とても怖くて虚しいものにしていた。


総合的に考えると、
やはり、死は、(体感的には)人間の自由を奪うものなのだと思う。
しかし、それは死ぬことが必然だからだ。
もし、「どうしても死ねない人」が存在すれば、
その人にとって、死は、自由の象徴に見えるのかもしれない。


「いつかは必ず死んでしまう」ことの絶望と、
「決して死ぬことができない」ことの絶望。
・・・そのどちらのほうが大きいのかは、
まだ人生経験の乏しい僕には、とても推し量れない。
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2013年11月25日(月)

続・死が怖い理由

テーマ:生と死

『死が怖い理由』

この記事の中で、僕は
死によって失うもの、失われるものに焦点を当てていた。


それは、つまり自己意識の過剰。
己の死後も世界は存在し続けるのに、
その世界よりも、(己という)特定の生命や、(己の人生という)限られた時間を重視していた。


世界から見れば、死は「変化」でこそあれ、決して「喪失」ではないし、
むしろ、「新たな始まり」である場合さえ少なくない。




本当に不幸なのは、この世界と一体になれないこと。
一体の関係を築けないこと。
一体感を持てないこと。


死が怖いのも、実は、世界と一体になれていないからだ。


もし、己の死に意味を見出すことができ、
その後の世界に(たとえ己は存在しなくとも)意味を見出せるならば、
死は決して怖くないはず。


世界よりも己の生命の価値のほうが大きければ、きっと、いつまでも死は怖い。
・・・少なくとも、死ぬまでの間は。




※ 2014年2月8日 追記

『死と喪失』 という記事を書きました。

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2012年06月26日(火)

一度きりの冒険

テーマ:生と死

『死が怖い理由』 という記事。
7年前に書いたものだが、今でも時々コメントを頂く。


コメントをくださるのは、いつも違う人だ。
試しに、「死が怖い」でgoogle検索してみると、
1ページ目に表示される。
「死が怖い」で検索して来られるかたが多いらしい。


一昨日も、この記事にコメントを頂いたので、
昨日、(一日遅れながら)返信した。
その時、コメントを書きながら、自分の中で何かがクリアになるのを感じた。




僕は、こう書いた。

「死があるからこそ全身全霊をこの一瞬に込めることができる」


また、こうも書いた。

「自分で答えを出すか、答えに辿り着くかする以外にない」


そして、上記を踏まえ、死について
「人生を賭ける価値のある課題だ」と述べた上で、
こう締めくくった。

「二度と来ない、一度きりの冒険を今、しているんですよ。あなたも私も。」




自分で語ったことだけれども、改めて、
「ああ、そうだったのか」と納得した。
たぶん、これは前から感じていたことなのだけれども、
うまく言葉にできずにいた。


それが今回、ようやくクリアになった。

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2012年02月20日(月)

「いつ死んでも後悔しない生き方」の意味

テーマ:生と死

いつ死んでも後悔しないように生きる、
と言う人がいる。
僕は今まで、その意味を
「いつ自分が死んでも後悔しないように」
ということだと理解していた。


でも、それだけじゃなかった。


いつか必ず死ぬのは自分だけじゃない。
他人も同じだった。
人生そのものを病に例えるなら、その致死率は100%だ。
あの人も、この人も、いつか必ず死ぬ。
・・・それでも、いつ死んでも後悔しないように自分が生きる。
そういう意味もあった。


「不謹慎だ」と思われるかもしれないけれども、
死なない人はいない。
人は必ず死ぬ。
それは1年後かもしれないし、今日かもしれない。
だから、自分や他人がいつ死んでも後悔しないように生きるのだ。


言うのは簡単で、実行するのは難しいことだけれども。

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2011年05月02日(月)

死を意識して生きるサンプル

テーマ:生と死

そう。
Angelaさんが、この記事『生き見本』 でも書かれているように、
僕も、
死へのカウントダウンを生きているからこそ、毎日がかけがえのないものとして実感できる
と、つくづく思う。


僕は、Angelaさんと違って、
死ぬことが怖い。
とてつもなく怖い。
だから、僕とAngelaさんとでは、根本的なスタンスが全然違う。
(以前、Angelaさんと『死についての対話』 という対談をさせて頂きました。)
でも、
「死を意識するからこそ、今ある生の輝きがわかる」
という気持ちは同じだ。


いつか死ぬ、ということを思うと、
今まで考えていたことや、悩んでいたことの多くが、瞬間的に遠のいてしまう。
その代わり、
今この瞬間にどうにもならない心や痛みが、
自分の手には負えない勢いで噴出する。


僕は、頭でっかちだから、
その勢いに自分の身を任せることができない。
身を任せてしまうと、自分がどうにかなってしまいそうで怖い。
でも、理性で制御できる範囲内で、
「このかけがえのない生を、この一瞬を大事にしよう」
と、強く思う。




だからこそ、こうして記事も書く。
他のことよりも、こうして書くことを今、僕は選ぶ。


そして、少し欲を言えば、
こうして生きている僕も、何らかの形で生き見本になれればいいな、
と思う。

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2009年11月29日(日)

死に対する意識

テーマ:生と死

会社の飲み会で、上司と「死」について話した。
その人は還暦近く、僕と同じくらいの年齢の子を持つ親でもある。
クリスチャンだが、
「子供の頃は、日曜日に教会に行かされて、遊べなくて本当に嫌だった」
とあっさり白状してしまうような、思ったことをはっきり言う人だ。
今となっては、
静かに教会で自分を見つめ直す時間を持てるようになって良かった、と思っているらしい。




僕が「考えすぎ」だと思われる大きな要因の一つに、
やたらと死について考えてしまう(そしてそのことを露骨に相手に喋ってしまう)ことがある。
大抵の人は、普段、死のことをあえて考えることをしない。
なんとなく生き続けることを前提にものを考え、喋っている、・・・のではないかと思う。
でも、そのことが僕には不思議でならない。
いつか必ず死は訪れるのに、そのことを度外視して物事を捉えるなんて変ではないのか、と。
しかしそう思う僕のような人間は、むしろ少数で、
だから僕の見方のほうが、世間的な標準に比べればきっと極端なのだろうと自覚している。


・・・といったことを、飲みながらその上司に打ち明けた。


上司は言った。
まこっちゃ君は、幼い時にお兄さんを亡くしているから、
他の人よりも死を身近に経験し、強く意識しているのだろう。
その若さで死を意識するのは、一般的には、まだ早すぎる。
皆、死ぬのは怖い。俺も死にたくはないが、それを考えていたら生きていけない。
死なない人は一人もいないし、
死ぬまでの間にどう生きるかが大事なのだと思う。


「死後の世界はあると思いますか?」
と尋ねたところ、
魂は残ると思っている、という答えが返ってきた。
生きている間の行ないによって、魂が残るかどうかも決まる。
・・・そう思っているらしいが、最後にこう付け加えたのが印象的だった。


いざ、死に直面したら、やっぱり怖くてたまらないだろうな。

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2009年10月17日(土)

グアム旅行を終えて

テーマ:生と死

今週、結婚旅行でグアムに行ってきました。




行きの飛行機も、帰りの飛行機も、
搭乗前から手先が痺れるように痛み、からだ全体で飛行機を怖れているのがわかった。
もっとも、このようにからだ全体が極端に怖れてしまう原因を作っているのは、
「飛行機が落ちる可能性」を考えている頭のほうかもしれなかった。
いずれにしても、
これが単なる空想遊びではない、からだ全体の本物の恐怖だったことは確かだ。


自動車よりも事故率も死亡率も極めて低い飛行機が、なぜ怖いのか。
・・・そう訊かれた時、僕の答えは、いつも決まっていた。


自分の知らない所で、知らない人に、自分の人生を預けてしまう状況が耐え難いのだ。
例えば僕は、飛行機が飛ぶメカニズムを詳しく知らない。
飛行機は、流れる空気に支えられて飛ぶ物体であり、
そのメカニズムは、物理学のうちの「流体力学」という分野で説明されている。


しかし、流体の力学は、剛体の力学と違い、無数の複雑な動きから成っているため、
まだ解明し尽くされていない部分も多いという。
それはそうだろう。
世界中の人が毎日のように注目している天気予報でさえ、よく外れている。
バラバラな無数の空気の動きと、その動きを作り出す数々の要因を、すべて計算に入れることも不可能なら、
どの要因がどの程度の影響力を持って相互に絡み合っているかをすべて計算し尽くすことも、また不可能だ。


ただ、現に実績としては、飛行機は“ちゃんと”飛んでいる。
だから、人々は飛行機に乗る。
でも、だから、僕は怖い。


僕は、コックピットも見たことがない。機長がどんな人なのかも知らない。
酔っ払ったままコックピットに入った機長や、居眠りしていた機長もいたと聞く。
整備不良による事故も、時々ある。
いざという時、
僕の知らない場所で、知らない人が操縦している飛行機に、
自分の命を預けてしまっている、という状況が僕にとっては怖くてたまらない。


電車や自動車なら、地面の上に乗っかっているから、
非常事態にも、自分で何とかできる余地がある、と思える。
しかし、何もかも勝手が違う空の上では、
自分の命がかかっている状況下でも、自分の力では為す術がない。
そのことも、恐怖感を増長させている。


その証拠に、離陸直後と、機体が旋回して傾く時が一番怖い。




しかし、それなら、どうして他のことは怖くないのだろうか。
電車や自動車なら、自分の生命を脅かさないと言い切れるのだろうか。
メカニズムにしても、それほどよく知っているわけではない。
地震が起きた時には、むしろ空のほうが安全だ。


結局、“地上の生活”に慣れているから、
慣れていない環境に身を投じることが、直感的に怖い。
それだけではないのか。


さらに言えば、
“慣れている環境”の中では滅多に死ぬことはない、と盲目的に信じているのだろう。
そして、そのように盲目的に信じることができない環境に入った途端に死を急に怖れてしまうのは、
日頃から、それだけ「死に対する心構えや気持ちの準備」がまるで出来ていないからだ。




おかしいのは、飛行機に乗る時ではなく、むしろ普段のほうだ。
・・・とは言え、普段から死を怖れてばかりいたら、とても、まともに生きていけない。
だから、今回、飛行機に乗った時のように、
覚悟の決まらない中途半端な覚悟を胸に抱きながら、不安の中、揺れつつ生きていく。


それが本当の生き方なのだ、
ということを、実感としてちゃんと思い出すための今回の飛行機、・・・だったのかもしれない。




ちなみに、帰りの飛行機の中で、
『最高の人生の見つけ方』
という映画を観ました。
この映画、前にも(深夜テレビか何かで)ちょっと観たことがあり、少し印象に残っていたのですが、
タイトルは知らないままでした。
何の因果か、今回、たまたまタイトルが気になって選び、機内で観賞して、
この映画のタイトルを初めてはっきりと知りました。


と言っても、機内だったこともあり、途中までしか観ていません。
主人公の二人にとって、「最高の人生」がどういうことなのか、まだ映画の中で総括されていない所までしか観ませんでした。
前に、最後まで観たかどうかもあまり覚えていないので、もう一度観ようと思います。


この映画を観ていたこともあるかもしれませんが、
帰りの飛行機は、行きに比べれば、怖さを感じませんでした。
行きが「日常からの離脱」であるのに対し、
帰りが「日常への帰還」であることも心理的に影響していた気がします。
また、グアムでは写真やビデオを撮り、おみやげも一人一人渡す相手を思い浮かべながら買いました。
頭の中で、帰国後のイメージがしっかりとできていたことも、
「帰国できない可能性」が意識の中に入らなくしていた気がします。


行きも帰りも、手先が痺れて傷んだのは同じだったけれども、
行きの恐怖感は、「もしかしたら落ちるかも・・・」であったのに対し、
帰りの恐怖感は、「まさか落ちないよね・・・」でした。


そんなこんなで無事、帰国して、いま僕は東京にいます。

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2009年07月27日(月)

白骨死体の残酷

テーマ:生と死

白骨死体を、テレビ画面以外で見たことはない。
ドキュメンタリー番組や映画、ニュースでなら見たことがある。


カメラワークのせいもあるのかもしれないが、
多くの場合、
白骨のまま晒されている様子を、「無惨だ」と感じる。
死んでも死にきれない魂が、そこに残っているように見える。


でも、おそらくそこに、魂は、既に無い。
魂を宿していた頃の面影を残す物体として、
カルシウムの塊が、そこにあるだけだ。




人間の中心部である(はずの)魂は、既に存在しなくなってしまった。
・・・実は、そのことが一番残酷なのだと思う。


白骨は人間の中心部ではなく、抜け殻に過ぎない。
中心部は魂であって、
死、すなわち魂が消えることが残酷なのだ。


抜け殻を目の当たりにして「無惨だ」と感じる本当の理由は、
かつて魂が宿っていたはずの場所から既に魂が消え去ってしまった、
ということを(その抜け殻を見て)想起させられるからなのではないか。


そういう捉え方もあるのではないか、・・・と思った。

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2009年07月24日(金)

両輪

テーマ:生と死

どうして、皆、死が怖くないのだろう。


多くの人の場合、
重病や重傷などで、死を目前に控えた(と意識した)時、初めて怖くなるらしい。
でも、
死が「近い」か「遠い」かの違いは、
死が「ある」か「ない」かの違いに比べれば、塵のようなものだと思う。
遅かれ早かれ、死は「ある」、もしくは「来る」。
・・・そのことを考えれば、
死を目前に控えなくても、同じくらい怖くなるはずではないか・・・?


しかし、そのようにして日頃から死を怖れている人を、あまり見かけない。
それどころか、
僕自身もまた、目先のことに気を取られて「死」を忘れていることが多い。




僕が死を強く意識し始めたのは、中学2年生の頃。
当時は、毎日、毎秒、常に「死」のことばかりを考えてしまい、
何をしていても、そのことが頭から離れなかった。
ところが、今は、そんなことはなくなっている。


もちろん、何かの弾みに「死」を意識すれば、
僕の心の中で、ほかのあらゆる問題を跳ね除けて、「死」が最重要課題として鎮座する。
解決できないその課題に押し潰されて、
いつも僕は、怖ろしさに耐え切れずに叫び声を上げるか、
あるいは(悲鳴を上げると周囲の人に変に思われると考えて)叫ぶのを我慢するか、
どちらかの行動をとる。


「死」を意識した時こそそうなってしまうが、
しかし、僕にも「死」を意識しないでいられる時間がある。
最近で言えば、日中の働いている時間がそうだ。




仕事に忙殺されているからかもしれない。
それが良いことなのかどうかはわからないが、
理由はどうであれ、死が怖くなくなる時間を持つことができる、
ということに、
(自分自身を含めた)人間の心の営みの不思議を感じるし、
「死」との向き合い方のヒントが隠されている気がする。


僕の、「死」を怖れる心。これが核であることは間違いない。
しかし同時に、
僕が「死」を意識せずに過ごせる時間がある。
そのおかげで、僕は平静な心で自分の生活を成り立たせることができていて、
生きていくこともできている。




「死」を意識してばかりの生き方は、かえって死を早めやすい。
かといって、
「死」と向き合い、これを自分なりに解決していかなければ、
いつか必ず来る「死」を自分の人生の中に落とし込むことができない。


一見、矛盾するようだけれども、
「死」への意識を持ちながら、しかし意識し過ぎることなく目前の生活を懸命に生き続けることで、
そのうち見えてくる、重要な何かがありそうな気がする。

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