考えすぎ -214ページ目
2005年04月27日(水)

得るもの、失うもの

テーマ:矛盾/逆説

何かを得ると、その代償として何かを失う。
失ったものの本当の大切さに気づくのは、いつも、それが失われた後だ。


でも、それを失ったからこそ、それの本当の大切さに気づくことができたのだ。
だから、こうも言える。
何かを失うと、その代償として何かを得る。


僕は、自分のことを、まだまだ未熟だと思っている。
つまり、自分にとって得るべきものがたくさんあるし、それを得なければならない、と思っている。
・・・でも、もしそうだとすれば、僕がそれらを得るのと同時に失ってしまうような大切なものが、
まだ今の僕には残っている、ということだ。


それが何なのか、今の僕にはわからない。でも、その存在に思いを馳せることはできる。
いつか、僕が自分のことを未熟だとは思わなくなった時、
それが何だったのか、わかるようになるのだろう。


その日が、今から楽しみだ。

2005年04月25日(月)

心、ここにあれ。世界を愉しめ。

テーマ:『ダムの決壊』 更新情報

4月25日の『ダイモニオンの声』 です。



幼い子供は、世界そのものを愉しむ。
そもそも世界とは、愉しいものなのだ。
余計な付加価値が世界をつまらないものにしているが、
もともと、世界それ自体は面白い。


ほら、こうやって手を動かすことができるでしょ。
手を使うと、いろいろなものを好きなように動かすことができて楽しいよね。
首をぐるぐる回すと、空が見えたり自分の足が見えたりする。
やり過ぎると目が回ってフワフワした感じになるけど、それもまた面白い。


言葉って、すごいね。
離れた所にいる人を呼べるなんて、まるで魔法。
子供は用もないのに人を呼んで面白がるけど、確かに面白いもんね。
なんだか魔法で人を操ってるみたいで。


世界がつまらなく感じられたら、たぶんそれは、余計な付加価値に縛られてしまっているからだ。
世界そのものはこんなに不思議なことだらけで面白いのに、
そこに何か意味をこじつけようとするから、だんだん世界が単調なものになってしまうのだ。


だから時々、この原点に返ろう。
・・・心、ここにあれ。世界を愉しめ。




ところで、
単に「世界を愉しめ」と言う場合と、
「心の持ちようによっては世界は愉しいものだ」と言う場合では、
目指す方向は同じでも、随分と雰囲気が違う。


たぶん、後者のほうが説明としては正しいし、親切なんだろう。
でも、後者の言い方だと、あんまり世界を愉しめそうな気がしない。
「どうせ、そんな心は持てないよ」
と、呟きたい気分にさせられる。


伝えたい内容は同じでも、言い方によって、伝わり方が随分違ってくる。

2005年04月24日(日)

オン・オフ・オフ・オン・オフ・オン・・・

テーマ:今日の「まこっちゃ」

復学して授業が始まってから、もう二週間が過ぎた。
今のところ、特に苦もなく大学に通えている。


「今年は、何も考えずにやってごらんなさい」
とか、
「いつもオンじゃなくて、オン・オフ・オフ・オン・オフ・オン・・・ぐらいで行けるといいよな」
とか。
大学の先生には言われた。


確かに、気が付くと、ちゃんとやっておこうとしている自分がいる。
その自分が一番危ない。
いつの間にか、少しずつ自分を苦しめていってしまう原因だ。
だから、そもそも最初から、ちゃんとやろうとはしないことが大事。



今年は、アーゴノミクスという講義を履修している。
日本語に訳すと「人間工学」なんだけど、
同じ人間工学と言っても、西洋とアメリカでは目的がまったく違うらしい。


こんなふうに習った。
アーゴノミクスは、Ergonomicsと書く。
これはギリシア語の"ergo"すなわち「労働」と、"nomics"すなわち「科学」の合成語であり、
「労働の科学」を意味する。
Ergonomicsの根底には、「快適な環境で働くことによって、人間の能力は高められる」という考え方があり、
労働環境の改善を最大の目的としている。
しかし、Ergonomicsという言葉が使われているのは主に西洋であり、アメリカでは、Human Factors Engineeringという言葉がよく使われている。
日本語に訳すと、「人的要因の工学」となる。
Human Factors Engineeringの根底には、「人間と機械を一体化させることによって、作業の効率は高められる」という考え方があり、
作業効率の向上を最大の目的としている。



今年は、Ergonomicsで行こうと思う。
自分にとって快適な一年にするよう心掛けて。

2005年04月23日(土)

人は何でも記号化してしまう

テーマ:人間/人生

ほとんどの大人は、まるで小説を読むように生きている。
今日は、昨日のページの続き。
そして今日は、明日のページに向かって進んでいく。
大人がそんな風にして生きているのは、
世の中がそうなっているからでもあるし、人間がそうやって文明を築いてきたからでもある。
と、思う。


広大な宇宙のなかで、ある時、突然、意識を吹き込まれ、
ただ一人立ち尽くしている、この今。
「今」は、本来、ものすごく不安定なものだ。
何でもできる、ということは、何をしてよいのかわからない、ということでもあるから。


「無分別に何でもやってしまう」のが子供なら、
大人の条件は、
「やるべきことをわきまえる」
ということだ。


思春期にある人の多くは、
「自分はどうしたらよいか」と真剣に悩む。
でも大人たちは、そういうことをあまり真剣に考えていないように見えるし、
自分たちの真剣な悩みと真剣に向き合ってくれないことが多い。
だから、大人に絶望して、
「ああいう風にはなりたくない」
と、思うのだろう。


大人も、いつかは思春期を通り過ぎてきたはずだ。
その頃の真剣さは、いったい、どこへ行ったのだろう。
まるで小説を読んでいるような、現実感に欠けた生き方をするようになったのは、
いつの頃からなのだろう。


人間は、ものごとを記号化するのが得意だ。
五本のヒダが器用に動く木の枝の先のようなものも、
そういう風には捉えずに、ただ「手」だと思うことで片付ける。
ものごとをそうやって捉えることで、煩わしい思考を省略することができるのだ。
記号化することと省略することは、かなり似ている。


大人が、かつて思春期の頃に真剣に悩んでいた、
「自分はどうしたらよいか」
という思考も、考えがまとまってくるにつれて、だんだんと記号化されてしまったのだろう。
そもそも、
「自分はどうしたらよいか」という悩み、
という表現自体、既に記号だと思う。
思春期の真っ只中にある人が、
「君は、自分はどうしたらよいかと悩んでいるんだね」
なんて言われようものなら、
「知ったようなことを簡単に言わないでくれ」
と思うんじゃないか、という気がする。僕自身の過去の記憶をたどってみると。


本来なら、今、僕は、今すぐにでも、
このパソコンの電源を切って、
着の身着のまま、戻ってこようとは思わずにどこかに行ってしまうことだってできるはずだ。
でも、普通、そんなことは考えもしない。
いつの日からか、
「ちゃんと家に帰らなきゃいけない」
が、わざわざそう考えるまでもなく、当たり前のことになってしまったのだ。
こうして、かつて真剣に新鮮に捉えていたことも、人は次々と記号化していく。
そうすることで、効率的に生きていけるようになるわけだけど。


僕は、時々、我に返ってしまう。
今まで当たり前だったことが当たり前でなくなって、改めて新鮮なものになってしまう。
そんなことを繰り返してるから、
僕の生き方の効率は、とても悪い。
他の人が普通つまづかない所で、すぐにつまづいてしまって、気が付くと集団の流れから取り残される。
授業中も、気が付くと白昼夢に陥っていることがよくあるし。



そんなこんなで、まだ大学を卒業できないでいます。

2005年04月23日(土)

仮面がとれた自分を知る瞬間

テーマ:自分(自己認識)

本当の自分を知る瞬間がある。
・・・こう言うと実はちょっと正しくなくて、もっと厳密に言うなら、
「本当の自分がわかった」という気持ちになる瞬間がある。
今回書くのは、こういう気持ちになる時の自分の話。


大抵の人は、自分の心に仮面をかぶせている。
誰にも絶対知られたくないようなものほど、自分でも無意識のうちに、かぶせている。
でも、その仮面が剥がれる瞬間がある。
それは、自分の内面を深く深く直視した時かもしれないし、逆に、急な事態が起きて自分を振り返る余裕がまったくない時かもしれない。
どちらにしても、普段の自分があまり経験しないような状況に直面した時、仮面は剥がれることがある。


だから、普段から活発に動き回っていて、いろいろな経験をしている人は、
あまり仮面が剥がれない。
既に多くの仮面を剥がしてきたからかもしれないけど。


反対に、普段あまり動き回らなくて、経験する範囲が狭い人は、
何か一つでも大きな経験をすると、
自分でもはっきりそれとわかるくらいガラガラと、仮面が剥がれていく。
今まであまり剥がれてこなかった分、余計、新鮮に自分を捉え直すことができるのだろうと思う。


どちらのほうがいいとは、一概には言えない。
普通は、一気に仮面を剥がすよりも、少しずつ世界に順応しながら剥がれていくほうがいいのかもしれない。
でも、僕は、自分の経験から言って、
一気に仮面を剥がすのも悪くないんじゃないかと思う。
それは劇的な変化だから、自分の記憶に必ず深く刻まれる。
その記憶は、後で宝物となる。
少しずつ剥がれていった人にとっては自分でも気づかなくて記憶にも残らなかったそれが、
僕にとっては、こうして言葉で再現できるような宝物になる。
それはそれで、ありがたいことだと思う。

2005年04月22日(金)

「もう決めたこと」だなんて、随分と偉そうじゃないか。

テーマ:『ダムの決壊』 更新情報

4月21日の『ダイモニオンの声』 です。



どんなに決意が固くたって、世の中、そんな簡単に決められるほど単純じゃない。
今の自分に、いったい未来の何がわかると言うのだ。
どうして、自分の決意が絶対に変わらないと約束できるのか。


杜子春は、いかなる状況であっても意志を貫こうとしたが、遂には貫き通さなかった。
初心を貫き通すことなんかよりもずっと大切なことが、生きていればたくさん出てくる。
それなのに、予言者か神にでもなったつもりか知らないが、何を偉そうに。
・・・というわけで、今回のダイモニオンの声。


「もう決めたこと」だなんて、随分と偉そうじゃないか。

2005年04月21日(木)

信ずるまでもなく現実

テーマ:現実

『ダムの決壊』の2003年の主張の、6月23日『信ずれば現実』に関して。


「これが現実だ」と信じたとき、それは現実となる。
・・・そう書いた。
つまり、それが現実なのは「これが現実だ」と信じているからだ、という説明だった。


でも普通、人は、そういう順序で現実を現実として捉えているわけではない。
普通は、それが現実だから現実なのだ。
わざわざ信じるまでもなく現実だ。それが、普通の意味での現実のあり方。
つまり、信じるか信じないか以前に、それが現実なのは当たり前のことなのだ。


だから、こう言い換えたほうがよさそうだ。


「これが現実だ」とわざわざ信じるまでもなくそれが当たり前であるとき、それは現実である。




この記事は、lincaさんのブログの記事『現実と夢との境』を参考にして書きました。

2005年04月20日(水)

眠い!

テーマ:今日の「まこっちゃ」

最近、この時間になると眠くて仕方がない。
日付が変わる前にこんなに眠くなるなんて、久方ぶりだ。



今のところ、休むことなく大学に通えている。
今年の目標。それは、下に書くような優先順位をとりあえず守ること。
まず、出席する。
それができたなら、提出物を期日までに出す。
それもできたなら、予習・復習など、授業の内容に関わることをやる。
それらが全部済んでから、初めて自分の興味に力を注ぐ。


今までは、この優先順位がまるで逆だった。
でも、このままでは延々と単位がもらえないままだから、
今年は、社会的な優先順位を肝に銘じて臨むことにした。



そういう心境になったのは、この一年間の休学経験によるところが大きい。
必要なこと(だと自分が信じていること)に充分に力を注げていない現状の自分でも、
(自分で思っていたよりは)自分なりの役立ち方ができる、という実感を得たことが一番大きい。



そういうわけで、これからも、
未熟な途上にある自分の言葉をそのまま吐き出すような、無責任な日記が続いていく。
おやすみなさい。

2005年04月19日(火)

喪失感の記憶

テーマ:記憶/記録
アーティスト: レミオロメン
タイトル: 雨上がり


この歌の、あるフレーズが忘れられない。
「移る景色変わる僕ら 思い出だけが増えていく 何に悩んだか忘れながら」


本当に、その通りだ。
大抵の人は(そして僕も)、子供の頃の心の世界を失いながら大人になる。
そして、失ったことに気づいた時にはもう、引き返すことができない場所にいる。
子供の頃の世界を無理に思い出そうとしても、それは生々しい感覚としては決して蘇らない。
一度失ったものをわざわざ呼び起こそうとするのは、所詮、どこまで行っても意図的な想像にしかならないのだ。

でも、「何かを失った」という喪失感の記憶だけは、なぜか残る。
肝心の、「何を失ったのか」ということは思い出せないのだけれども。



脳科学によると、
人が忘れるのは、記憶そのものが失われたからではないそうです。
失われたのは、記憶そのものではなくて、記憶を呼び起こす道すじのほうだといいます。
デジャヴ(既視感)が起こるのは、
忘れ去られていた過去の諸々の記憶が突然、無意識のうちに繋がって、
目の前の光景をかつて見たことがあるかのように錯覚させつつ、思い出されてしまうからなのだとか。
実際、これについては諸説あるようですが。
ただ、要らなくなった記憶も全部いつでも呼び起こされてしまう状態にあると、
脳の負担が大きすぎて混乱を引き起こしてしまうから、それを防ぐために、
「忘れる」というのは重要なことだそうです。



でも、そんな脳科学であれこれ考えて喪失感を味わっているわけではないんです。
むしろ、『雨上がり』で詠われていることが(僕にとっては)まさにその実感です。



なお、『雨上がり』という歌は、上で述べたような心境を盛り込みつつ、
雨上がりの一瞬の”感じ”を、飾り立てず、ありのままに詠った歌です。
・・・と、僕は感じました。
特に、曲からその”感じ”がひしひしと伝わってくるので、
もし興味があれば、一度、聴いてみてください。


ちなみに、僕が持っているのは『朝顔』というアルバムで、
その中に『雨上がり』が収録されているので、僕はそれを聴いています。


アーティスト: レミオロメン, 藤巻亮太
タイトル: 朝顔 (CCCD)
この記事に点数をつける
2005年04月18日(月)

現象学

テーマ:今日の「まこっちゃ」
著者: 竹田 青嗣
タイトル: 自分を知るための哲学入門


ちくま学芸文庫の、250ページほどの本です。
今日、読み終わりました。
以下、率直な感想。


これは、代表的な哲学者の哲学を平易に解説した本です。
用語や専門知識の解説に終始するのではなく、著者自身の言葉で実感を込めて書かれています。
そのため、西洋哲学史をおおまかに掴むのに向いています。
ただ、全体を通して、もっぱら現象学の観点から述べられている感が否めません。
著者自身も、現象学との出会いは自分にとって非常に大きな出来事だった、という主旨のことをこの本の中で述べています。
そのことを踏まえれば、なおさら、この本は「現象学という観点から見た西洋哲学史」だと考えたほうがいいかもしれません。


逆に、現象学のことは、とてもわかり易く解説されています。
個人的には、現象学というものの輪郭を掴めた気になれたことが、この本を読んでの一番の収穫でした。


つまり、現象学というのは・・・
すべての人に共通の絶対的な真理があるわけではない、ということが前提。
だから、真理や正しさといった概念は単なる思い込みかもしれないし、見えている光景も錯覚かもしれない、ということに一応はなる。
でも実際には、誰もが真理や正しさといった様々な概念を持っているし、目で見ているものは確かにそこにあると思いながら生活している。そこで、(絶対的かどうかはともかく、)人にとって確かにあるこれらのことを「現象」と呼び、現象がどのようにして作り上げられ、また信じられていくのかを研究する学を「現象学」と呼ぶ。


現象は、他の人とのコミュニケーションのなかでその現象に対する確信が少しずつ深まることによって、確かなものになっていく。平たく言うと、自分が見ているリンゴを他の人も「リンゴ」と言うのを何度も聞くうちに、それがリンゴであるという確信を深めていき、「リンゴがある」という現象が確かなものになる、というようなことらしい。
これはこれで、大変説得力があると思う。
ただし、自分にある程度の自信がある人にとっては。


僕の場合、いつもではないものの、
自分がいま確信を持っているのかどうかすらもわからなかったり、
相手が「リンゴ」と言っているのは本当に自分が見ているリンゴだろうか、ということを疑い始めてしまったり、
どうもその辺で自信がなくなることが多い。
早い話が、僕は非常識なのだろう。
非常識な僕にとっては、現象学もまた疑わしいし、
そして何よりも、そうやって何でもかんでも疑ってしまう自分の神経を疑っている。んです。

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