共有欲 | 考えすぎ

共有欲

意味を見出すのは、たのしい。
見出した意味を伝えるのも、おもしろい。
でも、
もともと意味があったり、意味を与えられたりするのは、つまらない。


きっと、ここにも
目には見えない弱肉強食の世界がある。
価値観と、価値観とのぶつかり合い。せめぎ合い。


自分が見出した意味を、自分の世界の基準にしたい。
貫きたい。通したい。誰にも侵されたくない。
・・・自然な気持ちでしょう。




人は、それぞれのやり方で、
自分なりの意味を築き上げ、それを守ろうとする。
僕も例外ではない。


まさに、上に書いたようなことを、僕が意味付けしているのだ。
「意味を見出すのは、たのしい。」
とか、
「見出した意味を伝えるのも、おもしろい。」
とか。
そうは思わない人だって、いるかもしれないのに。


つまり、(僕が書いている)この文章も、
決してフェアな立ち位置で書かれたものではない。
僕が、僕の価値観を正当化し、守ろうとする意図が少なからずあるのだ。




僕は、
「もともと意味があったり、意味を与えられたりするのは、つまらない。」
と思っている。
他の人がすべてそう思うわけではないのかもしれないけれども、
僕自身がそう思っている。
だから、そういうつまらない伝え方は、どうしてもしたくない。




たぶん、価値観の共有欲が強いのだろう。


「価値観の共有なんてできない」
と言う人もいる。
僕も、その考えは的を射ていると思う。


でも僕の場合、
「価値観の共有なんてできない」
と言いつつ、
「価値観の共有なんてできない」ということを共有しよう
と、密かに目論んでいるような所がある。