死ぬ瞬間 | ALS記

ALS記

2023年2月13日に診断されて、現在進行中。とりあえず仕事は続けています。進行がとても遅い症例のようで、その状況を記録して発信していこうと考えています。

 大学の途中ぐらいから明確に意識しているのが「死ぬ瞬間は誰にも見られたくない」ということ。死ぬ前は別に人がいてもいいし、死んだらもう物体になって意識もない訳だからどうでもいい。ただ、自らが生を手放す瞬間を見られるのはたまらなく恥ずかしいと思ってしまう。

 

 ALSになってから「独りで死ねるかな」とよく考えるようになってから気づいたのだけど、この「死ぬのを見られるのは恥ずかしい」というのは中学生の頃に原因があるようだ。

 

 母方の祖父は明治生まれの昔気質な人で、怒ると結構怖かった。その祖父が確か八十代で亡くなった時のこと。ちょっと前から具合が悪く寝たきりになっていたのだが、危篤と聞いて一族郎党三十人くらいが祖父宅に集まった。まだこうした大往生が風習として残っていた頃の話だ。

 

 そして死に水を順番で渡していったけど、脱脂綿に水を浸して祖父の口元をぬぐうみたいな感じで、もう祖父も力が抜けて横向きに寝た顎が落ちてずれてしまっていて、端的に言えば不格好な表情になってしまっていた。

 

 そうやって皆で祖父の逝去を待っているような感じになり、あっちこっちで世間話が始まってしまった。とその時、脈をとっていた伯父が「●●時■■分、亡くなりました!」と宣言して、集まった一同が一礼して合掌した。しかしその直後、伯母の一人が「まだ生きてる! 息をしてる!」と指摘して、皆が失笑という一幕があった。この時に中学生だった私は「うわあ、こういう死に方はしたくないな」と強く思ったのを覚えている。

 

 その後にこの出来事を忘れることはなかったものの、多数の小説を読んで多くの死に様を疑似体験する中で、祖父と結びつけることもなく、自身の奇妙な感覚として「死ぬ瞬間を見られたくない」という意向が出てきたようだ。

 

 ALSになったからこそ、より切実に死を意識するようになって因果が繋がった。これは良かった。

 

 まあ実際には「見るなよ恥ずかしい」とか言える状況じゃあなくなるんだろうけど。