A Pluralistic Universe

『息衝く』


2016年完成、2017年12月2日(土)初上映。

自主上映会募集中。

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『愛のゆくえ(仮)』

『愛のゆくえ(仮)』公式HP

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『へばの』
□2008年 第32回 カイロ国際映画祭 上映
□2009年 第38回 ロッテルダム国際映画祭 bright future部門 上映
        東京 ポレポレ東中野 1ヶ月公開より全国上映、
        青森・harappa映画館 上映 
□2010年 群馬・高崎映画祭、
        大阪・NDS 合同上映、
         東京渋谷・アップリンクX 一週間公開 
□2011年 5月/大阪・シアター7にて特集上映
        6月/山梨・シアターホトリニテ 上映
        7月/富山・富山大学、高岡駅前芸文ギャラリー上映 名古屋・『ランドマーク』併映
        11月/岡山・岡山人民映画会(主催;ローザ・ルクセンブルク研究会+「重力」編集会議)
           『アヒルの子』アップリンク ファクトリー 合同上映
        12月/HOWS 『映像から原発問題を考える』上映
□2012年 5月/京都・みなみ会館 Mögen Sie Kino? 映画は好きですか? vol.1
       11月/佐賀・唐津上映 主宰・吉田晶子

□2013年 3月/東京・東中野ポレポレ坐 『愛のゆくえ(仮)』連続上映 Vol.1

□2014年 3月・5月・11月/東京・東中野ポレポレ坐 『へばの』連続上映

        『祝の島』『花火思想』『倭奴へ-在韓被爆者無告の二十六年』と併映

『へばの』公式HP

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二年前の文章の謝罪 『童貞。をプロデュース』について

『童貞。をプロデュース』2017年8月25日よりの上映中止につきまして、

私は8月27日に当該の文章を記載しました。

当時書いた内容は、然るべきタイミングで考えています本blog自体の閉鎖まで、変更加えずに当時の私の浅薄さ・誤りも含め、そのまま残しておきたいと思います。

この文章の「内実は聴いた限りですが、知っている」記載部分について強い批判を、何度か受けました。

当時、書いた背景をまず説明させて頂きます。

私のなかでは「公表できない内実」とは、ここでは映画がどのようにつくられたか、ということとして書きました。

これは私が知る限りでは『童貞。をプロデュース』以前の作品から、松江さん達はお客さんの前では決して映画がどのようにつくられたかを明かさない姿勢を取ってきたと思います。

加賀さんが告発された内実に、彼らはこの姿勢から2017年のあの場で反証できない状況にあると当時判断しました。

反証できないと同時に、彼らにも彼らの「出せていない内実」がある、それを知っている人間もいる、ということを書こうとしました。

一方の内実が反証できない状況下にあって、もう一方の告発する内実が信じ込まれていくことに2017年8月当時に危機感を覚えてしまった、ということがありました。

この点は、2017年当時の私の倫理観で最後まで迷った点でした。「反証できない」(当時判断)状況の延長として「出せない内実がある」、聴いている、と書いた点はぎりぎりの線と当時判断しましたが、二年の時間が経過しても反証の時期は訪れていません。

そしてまずそもそもが、「公表できない」と前置きした上での内実を書き込んだ私のあり方が、

自身の思いに無根拠な説得力を持たせようとする卑しいもの、多くの非を認めるものであったと思います。

 

加賀さんには、その内実の実態が公表されえない、検証されえない以上、

加賀さんとしてももう一度確認も反証できえない―…結果として印象操作と悪しき誹謗中傷になる、とのご批判を受けました。

真っ当なご批判で、そういった印象操作のまま二年留まっていたことを遅ればせながら、謝罪いたします。

申し訳ありませんでした。

 

 

もう少しだけ、書かせて頂けないかと思います。

『童貞。をプロデュース』が公開された2007年は、私が関西を離れて東京に上京してきた年でした。

働きながら自主映画に関わり、自作の制作を模索しながらスタッフとして関わった映画の上映・宣伝に参加していました。

松江さん、直井さん、しまださんには当時より丁寧に助言や宣伝に力を貸して頂き、作風も捉えている客層も全く違えど、

松江さん達のチームに頂いた時間は、私にとって本当に、大事なものでした。

全員ではありませんでしたが、彼らの出演者・スタッフは私が関わっていた映画の公開初日にもお見舞いで鑑賞に参加してくださり、

短い時間ではありましたが、かけがえのない交流を持たせて頂きました。

 

松江さんにお会いしたのは、2006年の夏。関西においてでした。

当時の私は、大阪の映画館での駆け出しのスタッフでした。

初対面から敢えてひとに嫌われかねない本音も伝える松江さんは、しまださんと並んで、言葉がぼんやりした私には当初は胃が重くなる来客でした。20代も半ばを過ぎながら、やりたいことを言葉に出せていない私が話す映画の話や、企画構想に対して、彼らは「やってみな」と優しく微笑むタイプの大人では決してなく、徹底にのっけからダメ出しをして反論を待つタイプの印象で、しかしこちらの出した考えに対してはじっと記憶を長く留めてくれ、一度協力すると決めると、徹底して付き合ってくれる方でした。

言ったことのリスクや記憶は自身も負う、というのが当時私が一年ほどお仕事をし思った印象でした。

しまださんは普段は毒舌家でありながら、こちらが何かをお願いする電話をかけると、お願いしているのはこちらなのに、向こうが慌てたように上手く応えられるかバタバタと動き出して協力してくれる、新宿の機材屋に歩いて連れて行ってくれたり、関西から受けた仕事に必要な機材をわざわざ部屋まで車で運んでくれたりする、部屋に上がり込んでから私の本棚の本に毒舌をつぶやく、どこかユーモラスで、本当に最後まで不思議な方でした。

松江さんは、私が何か大きな仕事に取り掛かると都度都度に、それに接している私の印象を冷静に厳しく伝え、そして足繁くこちらの場に通ってくれる方でした。私の初長編監督作公開の際は、劇場に何度も足を運んでは、打ち上げまで残りその日の感想を伝えてくれました。

そうした熱心さの恩義以上に、私が彼を信頼していたのは、彼は自身のものの観方・批評を厳しく一貫し持っていてその時節時節の状況で、これは褒めたり批判したりした方がいいなどという状況判断は無く、独自の一貫した考え、お客さんとの関係を考えている方でした。それは状況によってはご自身を不利に追い込んだり、上手く持っていけない状況にも持ち込んだと思います。

私は松江さんのコミュニケーションの強さ、私には割り切れない仕事の早さなども違うものとして感じてきましたが、私の中では必ずすぐに返ってくる優しさがあった。根底における無心さ、公平さにはいまでも信頼を置いています。

 

今となって書いてもなんら信憑性も公正性も欠くことになるかもしれませんが、

2006年当時、ガンダーラ映画祭上映準備で初めて観た『童貞。をプロデュース1』について気になった点は無かったわけではありません。

私にとって当時は、むしろ問題となっている当該シーンがどのように撮影されたかということもそうですが、加賀さんのその拒否に対して「僕の仕事を汚いと思っているのか」とある台詞でした。私の硬いアタマではその論理の急な飛躍、また書かれた台詞でないのでならば、現実に接している人間関係間の言葉のやりとりでとしては若気の至り過ぎた「反論の封じ込め」の印象に映ったのです。加賀さんが感じていた違和感はそこではないと当時思い、その点などを当時、松江さんやガンダーラのスタッフに聴きました。松江さんもガンダーラのスタッフも、一スタッフの私の問いに色々討論し、真剣に答えてくれました。

しかし最後まで観た映画は面白かった。私のここでの面白い、とは笑えるということだけではありません。

加賀さんの表情、周囲の人間とのやりとりは非常に魅力的だった。

予想や自分が見聞きしているもので想像できない、やりとりがあった。

2の続編の梅澤さんに引き継がれてからは、それは増した。

2017年時までの私の偽らざる印象です。

 

私が加賀さんと初めてお会いしたのは2007年の春の、新宿でのある特集上映の打ち上げになります。

これがあの方か、と…映画で観るよりずっと若い印象でした。

上手く表現できないのですが、彼には当時、どこか観られることや話しかけられることなど色々なものに慣れ切ったところがなく、

その前にご自分の気持ちやひとへの心遣いを、まずそのままに出される方の印象でした。

印象的だったのは、東京に出てきたばかりで知人も少なく、話もまともに出来ないで宴席の隅にいる私を、加賀さんは最後まで気遣ってくださり、話しかけてくれました。

年齢は少し下なはずなのに、私はこの際、非常に恥ずかしさを感じたことを強く記憶しています。

2007年時、恐らく直井さんが先頭に立たれてからの『童貞。をプロデュース』の宣伝戦略は当時の私の眼には見事で、映画界隈の方々から一歩も二歩も出た広がりをもち、話題性をつくっていきました。

シネマ・ロサに当時観に行った折には、加賀さんは既に大勢のお客様に囲まれていて、私はこのときは挨拶をするも「あのときの…」とまで会話を続ける気概がありませんでした。彼らの熱狂、囲まれている拍手がどこか眩しいものに見えました。正直申し上げれば、もう図々しくスタッフの方々の中心に歩いていく気力が私には無かったのです。

どこか自分にはつかめない、遠いものだと感じていました。

 

松江さん達の『童貞。をプロデュース』チームとお付き合いがあったのはこの夏までです。

私はそれから自作の撮影に忙しくなり、松江さんとはお互いの新作を観に行って感想を交わすお付き合いになりました。

集まる場所場所で、梅澤さんの姿は時折お見掛けしても、加賀さんのお姿をもう観ることがなくなった理由に、疎い私は気づいていませんでした。

それでも2009年頃には、松江さんの人々とのお付き合いにも変化が出ていることは、私にも雰囲気としてわかってきました。

私の印象では、松江さんはひとと笑い合う・喧嘩する・嫌われる・好かれるを非常に濃厚、短い期間で集めすぎてしまう印象があり、同時にファンの方や全国各地の上映者の方も非常によく覚えている印象がありました。優しいと同時に厳しく、本来はとても人見知りで気性も激しい方という印象でした。その当時の松江さんは、何故だか私には少し寂しそうにも思えました。

その日の帰路、あの盛り上がった2007年頃までに、あまりに多くのひとを集めすぎ、付き合い過ぎたのだと思いました。

 

それから。

2010年、2011年、と私は実作と生活も苦しくなり、2012年を最後に、松江さんとも長い間お会いしない―、というより西東京の端に引き込んで長い制作期間に苦しみだし、同時代の映画制作者とはほとんど交流を持てない時間が続きました。

2017年の8月。

ネットで『童貞。をプロデュース』の10年目の上映がされたことを知りました。「ああ、10年経ったのか…」私は自室でその報をみながら、そんなことを思いました。そしてSNSに誰かが流した、当該の舞台挨拶の動画をみました。

最初は10年目のパフォーマンスだと思っていたのですが、そうではないことが、徐々に分かりました。

ネットに次々と拡散の投稿が広がっていくのを目の当たりにしました。

その際に遅ればせながら初めて、私は加賀さんと松江さんが10年前に喧嘩別れされていたことを知ったのです。

一日、二日と続いていく騒動に、夏の暑さとは違う、絶望的な汗を身体からかいていく、苦しい時間でした。

例えではなく、叫びだしたい思いを抱きました。

持永さんを亡くし、しまださんを亡くすもっと前に、加賀さんと別れていたこと―

あれだけ多くの関係者やお客さんがいた光景が昨日のように瞼に浮かぶのに、ネットに飛び交う証言や言葉が、バッシングの嵐ばかりに染まっていくこと。

そうした苦しい時間のなか-これはあくまで私の印象ですが、「変わってないな」と思ったことは、松江さんが「それは言わない、(ここで)言うわけないだろそんなこと!」と発言されたときでした。ああ…このひとは変わっていない。長くしっかりお話していないが、お客さんの前で映画の秘密やスタッフ・共演者とどう揉めたり何を話したかを、明らかにできるひとではない…若い頃から映画の制作/上映を様々な場所で仕掛けてきて、それが未だ譲れない矜持なのではないか、と思いました。あくまで2017年8月25日時点の彼の対峙の仕方に対しての、私の印象です。それから時間が数日、数年経ってからの議論とはまた違う、私の当時の印象です。

 

本当に耐えられなかったのは、あの動画自体のネットへの拡散でした。

私はじつはこの舞台挨拶を知った、一ヵ月前に松江さんに5年ぶりに再会していました。それは共通の知人である、大好きな映画監督の葬儀の場です。その葬儀と喪失は、私にとって本当に耐えがたく、何度もこれが夢であってほしいと願うしかない、夏の時間でした。そこで私は初めて、松江さんの息子さんにお会いしました。正直呆然自失の状態で言葉も上手く出てこない状態で、松江さんと挨拶し、そして初めて観るご子息が非常に大人しく、その場でお父さんを困らせないよう付き添われていた様子をみて、私は「本当に偉い子だな」と思ったことを覚えています。

 

あの子が、成長してからこの動画をみてしまうこと。あるいは、友達に教えられたりすること。そのときに負う傷を思うと、絶望的に暗い気持ちになりました。

 

加賀さんが映画の公開において、ずっとそれをされてきたのだ、というそもそもの批判が私に刺さりました。

10年間のあいだ、加賀さんの最も近しいご隣人が伝える言葉、加賀さんがそれにどう応えていいのか分からない時間の苦しみも、あったかと思います。

この件以来、私はAV業界の問題についてもより気をつけて、読むようにしました。

例え当時合意で撮影されたものであっても、女優の方が現在の人生を考えてこの時期のキャリアのものの配信は、もう取り下げて欲しいとお願いすること。

何より私自身、20代の頃に俳優養成のワークショップの事務をしていたことがあるので、6年後に当時の参加者の女性から「いまはもう旦那さんもいて、家族もご近所とのお付き合いもしっかりしているので、俳優をやっていたことをネットには残しておきたくないんです」という丁寧なご連絡を受けたこともあります。

すべての映画、映像においてそれがすぐに要請において出来るかは分かりませんが…ひとが映ったものに負うものが大きい場合は、それは話していけないのかといま思います。

そうしたご自身の、若い頃の志をどう残すかの交渉を、無下にされることの暗さや絶望のようなもの―加賀さんが長い間追われていたであろう、苦しみへの想像は、想像が追いつかなくても出来たはずなのに、

私が問うていながら、結局自分のなかで浅薄なものとしてしか実践できていない想像力とは、自分が観て想像できた想像力にまず支配されてしまうことです。

しかしこの動画を公開されるに等しいことが、加賀さんと松江さんの間にあったのか。そこは本当に―明らかになってからにせめてしてほしかった、いや、明らかになってからでも、これは許されるのか。何より、もう少し双方の言い分が判断される場所で話し合いがあってほしかった。そうしたことを考えれば考えるほど、パンクしそうになりました。

私はあの当時、ひとつの怒りに負けてしまったと思います。

目の前で行われている「これは、あまりに、あんまりだ」という暗さに負けてしまったと思います。

 

私が見聞きした内実とは、2006年から2007年の一年頃まで、かけがえのない交流を持たせて頂いた『童貞。をプロデュース』の方々からお聴きしたもの、なにより当時の会場の様子、その時期を知っている方々との追憶の話、でしかありません。

2017年から二年、時折うなされたように苦しみだす加賀さんに、こちらの想像力の公正さが足りなかったことに長く直視することもできず、どう言葉をかければいいか分からなかったというのが正直な心情でした。そして松江さんとも、年末年始のご連絡はしても、私の方から連絡を控える時間がつづきました。ただこのことを、思い出さなかった時間はそんなにありません。

 

あれからの時間、いまは公開されていない松江さんのblogを読み返したりしていました。

読み耽り、笑ったりもし、当時を思い出しもし、言い難い時間でした。

そのままに残っている私への言葉。なにを食べたか、今日誰と話したか。そういえば2007年の夏、大阪に3人で公開で行かれていたな、私の元上司から連絡があったなとか。当時、誰それが松江さんの宴席に合流されて、こんなくだらない話で盛り上がっているのを読んだな、とか。私自身も忘れていた記憶が符合されました。

私はたぶん、この時期が好きだった、楽しかった。

非常に無力感、自分にはなにも出来ていないという思いはあったけれど、

この人たちとの交流が好きだった。楽しかったのだ。そうしたことを認めたとき、どういっていいか分からない、涙が止まりませんでした。

ただそれは自身の勝手に思い描く幻想のままであってほしいという暴力的なエゴと、そうではなく、その観てきた充実があったからこそもっと詳細に話してほしい、ということの領域は、気をつけていなければ容易に溶解してしまうものにも思えました。

そして当時私が記憶している、松江さんと加賀さんの表情の記憶はあっても、当然ながらその胸中までを知っていることではありません。自分はいったい何と付き合い、何を知っていたというのか…そんな心情に負けそうになるときもありました。

 

長く観ることが出来なかった舞台挨拶の動画を今回やっとみても、改めて気づく点があります。

例えば加賀さんが「絶交していたんです…」とお話されてから…「(松江さん)あ、怒っています?怒っているパターンの顔してますけど…」と問いかけるまでの時間には、不思議な振幅のようなものを感じました。「許しにきた」という言葉の前に、私はなぜかここにそれとは外れた余剰を覚えるのです。これは…もちろん相当な覚悟で準備し臨んできたのだろうけれど、前日まで書いた怒りのシナリオを読み上げようとする人間の態度には見えない、…あのとき加賀さんが発した「許しにきた」は、モノローグ(台詞)だったのか、ダイアローグ(問いかけ)だったのか。例えばダイアローグとして用意していたものだとしたら、どの瞬間でモノローグに切り替えなければならない反応だったのか。それとも最後までダイアローグだったのか。これは、私が2006年時に『童貞。をプロデュース』鑑賞時に感じた、件の「僕の仕事を汚いと思っているのか?」の台詞にもつながる謎になりました。

 

対して松江さんが、加賀さんの怒りを受けての「あっち行こう」、三度ほどだったと思います。その表情―これは裏で話そう、と第一の意味の印象がまず強くなっていますが、ここに、私は一抹の寂しさを見てしまいます。2009年に松江さんにお会いし、帰り際に思った印象です。そりゃ私が知っている松江さんは、あっち(楽屋)に行ったらまずはメチャ怒るのは想像できるけど、「今日は、話したいと思っていた」「話そうよ」という声かけにも見えたのです。

悲しい、というのは私の勝手な思い込みかもしれないけれど、このときあまりに悲しいのは、お二人はこのとき何年ぶりに会われたのでしょうか、それでもお互い恐らく、話そうと思っていたと思うのですが、このときは話す場が双方どうしても譲れなかった。

加賀さんはここで話したかった。松江さんはここでは話せなかった。

加賀さんにしてみればいつの決死の訴えも、彼の中で公正に聴き入れてもらえなかった、というトラウマに近い記憶があったのかと想像します。これには私は、勝手ながらシンパシーを覚えます。映画に限らず、主義主張がぶつかるスタッフがいて、論理や公平性上、いくらこちらに正当性があると思っても、どうしても取られる(政治・言語上の)力の立ち位置で勝てないスタッフがいる。大組織でやっている仕事以上に、小さなコミュニティで制作していく自主制作映画などは、恐らくそういったことが起こりやすい。それならば戦法を変えていくしかない…対立するスタッフともうやらないと決めるか、こちらが受け入れられない主張を強行されそうな場を延期するか、こちら側の仲間を増やすか…そしてそれでも当然ながら、結果的に要求戦で勝てるようになったからといっても、それが作品の強度や充実を約束するわけではない。私のような者にとっても、この10年はそういった時間の連続でした。

2007年のあの折の彼には、時間がもう無かった。そして自身が負うものが大きすぎた。私の言葉では浅薄かも知れませんが、そう想像します。

 

 

長々と私のただの印象しか書けず申し訳ありませんが、最後に一つだけ私事を追記させてください。

私には2009年より10年近く、かつての仲間を相手取り、裁判等の時間を過ごしてきた一人の友人がいます。相手を交えての話し合いに同席した時間も、各地から友人が集っての地裁での公判に同席した時間もあります。

交渉や話し合いが進まないことに彼が苛立つ言葉に、付き合う時間もあった。高潔で大変尊敬している友人から、憎悪の言葉を聴く時間は正直つらいものだった。

いろいろな方法を考えた時間もあった。私も怒りに負けて、相手を恫喝し醜態をさらした時間もありました。いまとなってはごめんなさい、本当に笑えない話ですし不謹慎な話なのかもしれませんが、相手が出る場に殴り込むと、私に言葉で告げてきたときもあり、私はその時間が決まったら頼むから教えてくれ、一緒にいるから、と返した記憶があります。彼はでもそれを選ばなかった。いまになって状況と関係性がまた変わり、いまも話し合いを続けています。

私はその10年経ってしまった時間を、彼とすべての一歩一歩を歩めたわけでは全くありませんし、彼が助けや言葉を求めてくるときに言葉を返す、こちらからは折をみて心が別にいくような連絡をする、あるいは単純に話したいから話す、そうした付き合い方をしてきました。

私はその10年が、彼から若さを奪ったことが本当に悔しかった。悲しかった。才能が溢れる方で、できればその才能を仕事に向けることに時間を使って欲しい-と告げたときもありましたが、彼にはその問題に取り組むことをやめることはできませんでした。

同時にやってほしい、という願いもありましたが、若さも時間も徐々に無くなっていく彼にそこまで強いるのは酷な話でした。

ですが…それでもいまは不思議と、それを相手への憎しみにだけはいまは還元できない思いがあります。ひとを憎み続けていると、知らずに憎み続けている自身をも無意識に憎んでいる、という言葉を最近になって知りました。これは私個人の近年の人間関係でも気づかされる言葉でした。

 

通り一遍のお話の帰着になってしまっていたら申し訳ありません、それでも私は、松江さんと加賀さんにお話ししてほしい。

二人がお話できる場で。すぐの決着などをそこでしてほしい、ということではありません。

お二人のタイミングで、話をしてほしい。

 

『息衝く』最初の上映は、2017年12月2日になります。

この5年ほど取り組んできました、私の最新監督作『息衝く』の最初の上映が決まりました。
地元の青森県・弘前市harappa映画館での12/2(土)になります。
弘前市で、映画の様々な挑発的な打ち出し方をされてきたharappaには、遠目から一ファンとして参加はしつつも、2009年より『へばの』上映からお世話になってきました。

映画『息衝く』は、ずっと私が撮りたかった映画でした。
個人が個人以上のことを考えることが難しく、同時に「個」以上を考えることが制御しきれないエネルギーに向かっていく―20代を過ごした2000年代より10年以上、そうした二極に引き裂かれるようなバランスの実感のもとに生きてきた気がします。政局や世の流れ―もう少しで何かが変わりそうでありながら、しかし予期せぬ方向に変っていく。それはどこか、映画をつくりつづけてきた自分達の姿にも重なるものでした。みえない未来に向かい、小さくてもいい、これではないかと思える姿を形づくたりたい。そのはざまでいま生きる人間の姿を、映画になんとか記録できないか、その思いのもと、俳優・スタッフを広範囲から探すことから取り組んできました。
そうした思いの始点ともいうべき結実であった『へばの』と、問いを続行してきた『息衝く』とをいま、地元・弘前で最初に上映して頂けることを、心から嬉しく思います。

12月2日(土)の弘前市harappa映画館上映は、
初回10:30の上映後、主宰・三上雅通さんのご提案も頂き、地元・弘前でいま生活している30代の様々な職種の方々と、映画じたいからもむしろ離れて、青森で生活していることから鼎談できないかと思います。鼎談相手は、近日発表いたします。
14:30からは、『へばの』を8年ぶりに弘前で上映します。
16:30からは、『息衝く』をこの日最終上映し、harappaの主宰メンバーとこの映画について、徹底討論を交わさせて頂きたいと思います。

年の瀬ですが、どうかお越しください。
お待ちしております。

『童貞。をプロデュース』2017上映中止、舞台挨拶動画アップロードに強い違和感を覚える。

『童貞。をプロデュース』上映中止、先日8/25の舞台挨拶動画アップロードに強い違和感を覚えます。非常に我慢できないことなので。

 

疑問点がいくつかあります。

あのシネマ・ロサで最初から舞台挨拶を回していたカメラ、最初からかなり作為的で、はっきり言って、物凄く気持ち悪い。喧嘩を売る側の仕込みだとさえ思えた。

で、ないにしても、名前を名乗っているひとが、名前を名乗っているひとに暴行を振るわれている映像を、「名前も顔も明らかにしていない人間」が撮影し、ネットに上げているのは相当な問題だと思います。卑怯です。彼は、映画でも同様のシーンがある、と反論していますが、ネット動画を観る人間は「その映画」をここでは観ることができません。判断しようがない。気持ち悪い、というのはその判断できない、という点でもあります。

それよりもまず、第一に、映り手当事者双方との「公開する」との同意を得ていない。

それが何より、双方言い分はあるにせよ、「公開する」の同意のもとに10年公開されてきた『童貞。をプロデュース』との決定的な違いでしょう。

即刻、取り下げるべきだと思います。

 

主な疑問点

1)『童貞。をプロデュース』の強制AV出演の件について。

これ真偽の判断が現時点でできません。果たして、8/25のシネマ・ロサでの暴行と、本当に同様の内容だったのか。撮り手と、映り手とのやりとりはなかったのか。加賀賢三さんは、「本来の自分が思っていない」台詞を渡され、言っているシーンもある、とblogで当時書いている。演出が随所にあったということです。というよりは、これがフィクション/ドキュメンタリーのはざかいにある作品、というのは当時から作品解説にあったことです。

というより、もう少し正直に言います。内実は、聴いた限りだが知っている。でもそれは言わない。制作陣が明らかにしない、と公開時に言っているから。

 

2)加賀賢三さんが、続編で親友の梅澤嘉朗さんを紹介し、その後、舞台挨拶に共に何度も出ていること。

撮影時に暴行され、作品の公表を望まなかった、と主張していますが、この活動との整合性が自分には分かりません。

 

 

 僕は正直、松江監督の「撮影時の自分と君の関係と、いまの自分と君の関係は違う」。  ここに尽きると思う。撮られる側が―撮影時。公開時。10年の上映の間、で自分の仕事への印象が揺れていくのはあり得べきことだし、そのとき目の前の人間にどう向き合うべきだったかが、年月と共に変っていくのはそうだと思う。それは撮る側だってそう。

 でもそれを「いじめられていた側は、10年間忘れられなかった」だの「撮影時に受けた暴力を、いまやっとやり返した」て誰もが食いつきたいような分かりやすい文脈にして、作品ごと抹消するのは全く違うよね。主演と監督が、仲が悪くなって付き合わなくなった、ていうんなら話はわかる。

 問題が生じて―そこに演出があったのか、同意があったのか、双方どういうやりとりをしたか、はもっと綿密に検証すべきであって、それをどういう場でやり、どう人に知らせていくかはせめて合意を取るのが、当たり前でしょ。どの場なら、それが正確に検証していけるか、ということも含めて。でもそれも、10年前に映画を上映した時点で、腹を決めている問題なのかもしれないけれど。

 

 現時点の自分の結論からいえば、10年間、主演2人をはじめ、様々な関係者が尽力して上映してきた経緯があって、そこはまず知ろうとしてから、考えるべきなんじゃないかと思います。

 それを、10年前の一本のブログと、先日の舞台挨拶の動画1本だけを拡散させて、分かりやすい「暴力と復讐、謝罪」の文脈に流し込もうとする。

その程度の想像力で満足するなら、映画なんか観なくていいでしょ。観るのも語るのももうやめた方がいい、と思います。

 

※当該記事は、二年の考察と2019年の加賀賢三氏とのやりとりを経て、一部記載を謝罪させて頂くこととなりました。

2015年9月19日_安全保障関連法案 強行採決まで

2015年9月19日(土)未明に、違憲戦争法案が可決された。

色々反省しなければならないことはある。結局、軍拡がこれからの日本/世界安全保障にとって必要であるという与党側の議論と、軍拡を現状以上せず 外交等によって安全保障を考えるべき、という野党側/反対運動がわの議論は平行線に終わった。
単に結果論を考えるならば、これは分からないままだ。
 この両端の結節点が、本当にわからなかった。

 国会での議論をみても、与党 自民党側に議論をする気がない態度があった。「どうせ理解は得られない」「学者より、我々の方が考えている」は衆愚観そのものだった。今回の一連が茶番であると揶揄をするなら、そもそも茶番をしかけたのは、明らかに政権側だ。
 全部が茶番であるなら、我々にはどの茶番を支持するか、という話だけだ。

 素人考えでも、正直、安全保障て 最初は各論で考えることじゃないの、と思う。対アジア-中国、北朝鮮に関しては外交と現日米関係で対応を考えることであり、中国の方がこれだけの大人数日本で働いている現状を踏まえ中国とのやりとりを考えていくべきだと思う。
 中東の安全保障に関しては アメリカの、中東へのここ10年の対応は、明らかな否の部分を共有しなければならないはずであり、それなくしてイスラム国やテロへの対策は出来ない。日本は必要な距離を取るべきだ。必要最低限なら国連への関与か、あくまで人道支援でいくか。
 その情勢を見ての国の選ぶ、態度があるのではないか。
 それを全体的に、先制攻撃・武器輸出、そして自衛隊派兵までリミッターを外してしまう、この法案には反対しかない。

 しかし可決したなら可決したなりの方策を考えなければならない。
かつての自民党の重鎮・山崎拓が 政権が変われば、集団的自衛権の解釈は従来通りに戻るはずだと発言した。
 
 選択肢は
・可決してしまった法案を、どれだけしっかりしたものに牙抜きし、軌道修正するか。
・政権交代を目指し、従来通りに戻すか。
・違憲立法審査の連発を目指し、廃案にするか-
 しかし、日本には統治行為論(国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論)が根強いので、これにはハードルがある。

…ここまで考えたとき、やはり憲法の問題に戻ってしまう。
 この間、やはり、憲法9条という、戦後短期間で暫定で決められたものが矛盾をはらみながら動かせない状況にあるものについて考えざるを得なかった(日本は戦力を持たない。交戦権もまた認めない。しかし自衛隊はある。_そもそも戦力とは何か?)
 そして、これに対して統治行為論が、安易に 安倍などによって活用される状況がある。(憲法9条は天然記念物であるから、現実問題 行政は行政でやる。憲法の縛りを認めない)
 そして、長年 左派が、憲法についての国民投票/議論を禁じてきた歴史がある。
 9条と統治行為論との並立は、さすがにああこりゃマズいよな…と今更ながら考えざるを得なかった。議論の停滞以外、なにものでもないのだ。

 とうてい今後護憲派にはつけない…というのがいまの正直な実感になってしまったが、かといって現状では改憲側にも動けない。
 今回安倍晋三がやったこととは、日本にとって、改憲論さえ無効にしてしまうことではないか?と思うのだ。
実際、これだけルール無視になってしまうのであれば、日本人は改憲などについて議論がまず始められない。今回の国会議論同様、明らかに平行線で終わる。

 安倍晋三は、改憲議論を、歴史的に退行させた、大罪たる政権としてあったのか。まずはそこで記憶すべき政権なのか。
 それともあるいは、逆説的に改憲議論を切磋琢磨する存在としてあったのか。
憲法議論よりもなにも、どこかに献上させる結果を優先した。

 日本のいまの 憲法、法律では”軍人”は存在しない。
 そして自衛隊は、今後限りなく軍事的な役割を強いられることになる。
 自衛隊が駆けつけ警護などで誤って民間人を殺してしまえば、”殺人罪”に現行日本では捉えるしかないということ、裁判も用意されていない。

 「…現在、国会で繰り広げられている安保法制関連法案の議論、特に『存立危機事態』を巡る与野党の攻防が続いていますが、実は、極めて基本的な論点がひとつ抜け落ちている。それは、自衛隊は軍隊ではないため軍法会議が存在しないという点です。軍事機密の保持という理由から、本来、軍法会議の審理はどこの国でも非公開で行われている。つまり、軍法会議もない今の状況で、安倍政権が想定している米軍との連携を行うとなると、任務不履行が起きたときに対応できない。なぜなら、日本では自衛隊員の裁判も原則公開となっているため、共同で任務に当たっている米軍の機密に触れることになり、裁判が成り立たない可能性が出てくる。隊員が敵前逃亡したときの罰則規定もないようでは、軍の規律が徹底しているとは言い難く、混乱を極める紛争地に派遣されてもリスクが大きくなるだけ。やはり、先に憲法改正を行った上で、自衛隊を国軍化する必要があるのです」

安保国会終盤で再注目される三島由紀夫の「自衛隊二分論」とは?

 

そしてもうこういうロジックがもう用意されている。
 安倍晋三に敬遠されていた、石破茂からの祝辞。
 まあ、合憲だと言っているんでしょう。この人は徴兵制も憲法上の"苦役"には当たらない、と主張してますし。

 石破茂は、安倍真三ほど手つきがバレる器でもないだろうし、タイミング悪く政権につくのが本当に恐ろしい。

『一昨年自民党が党議決定し、総選挙において有権者に示した自民党の安全保障基本法案も、総理の私的諮問機関であった安全保障と防衛力に関する懇談会の報告書も、「憲法上、集団的自衛権は全面的に認められるが、その行使は法律によって厳しく制限される」との考えでしたが、今国会において政府は「集団的自衛権の行使はこの法案に示されたもの以上は現行憲法上認められず、これ以上の行使を可能とするためには憲法の改正が必要」との立場を明らかにしました。
 法的安定性と、憲法第9条に関する今日までの答弁との整合性を重視したものですが、一方において今回の安保法制によっても「米国は日本を防衛する義務を負う。日本は集団的自衛権の行使としての武力行使が出来ないので、国土を米国に対し基地として提供する義務を負い、これによって(非対称的)双務性を確保する」との日米の関係には何ら変更はありません。この議論は今後の課題です。
 法案成立後は憲法改正を目指す、というのが総理のお考えであり、もともと自民党は自主憲法の制定を党是の一つとして結党された政党です。
 私は日本国憲法は大日本帝国憲法の改正手続きに則って成立したものであると考えており、形式論としての無効論には立ちません。しかしその内容については改正すべきと考えます。』

『国連憲章上、何故わざわざ集団的自衛権が明記されたかは以前に論じたとおりですし、民主党の諸兄姉が「集団的自衛権は他国の戦争に巻き込まれ、他国と組んで侵略戦争を行う危険で邪悪な権利だ」と本気で思っておられるのなら、次期参議院選挙の公約に「民主党が政権を取ったら、国連において集団的自衛権の国連憲章からの削除を求めます」と掲げられればよいのです。』 

 『安全保障関連法案成立など』

2015年8月30日について

 先週2015年8月30日(日)に、国会議事堂前で 政府のいう安全保障法案への反対デモが行われ、前後差で大雑把に10~15万人前後の人が参加した。

 これは、1960年の安全保障条約への反対デモ参加人数と匹敵する人数だという。
 その翌日に、かつて「しばき隊」などでレイシストへの抗議運動の前線に立ち、いまは袂を分かった清義明氏が『国会議事堂前の「敗北主義」 -最後に笑うものが最もよく笑う・・戦後左翼史のなかの市民ナショナリズム』をblog投稿した。

 非常に真摯な文章だと読んだ。この間読み砕いているものと咀嚼するのに時間がかかった。また、いまの社会運動がはらんでいる非常な問題についても、重要な指摘があるように思った。正直、この一連の“問題”についてまで意見を投げる時間までは自分には無いので、最後までこの点については触れるのを避けるつもりでいたが、もう時間もない。そろそろネットで文章を書いたりすることも出来なくなると思う、いままでどうしても単発投稿だったが、一度振り返ってまとめたいと思う。

 清氏の文章は長文だが、主張は序文で述べられる。おそらく、いまデモの主導になっている若い人、いや正直言えば僕らの世代、それ以上の世代に対してのことなのかもしれない。序文にはこうある。

 『この法案は可決されます。間違いありません。そして、このことは国会議事堂前に集まったすべての人は皆知っているはずです。この類のデモというのは基本的に議会制民主主義の中では最初から敗北しています。法案を提出した自民党が議席の絶対多数をもっているのですから当たり前です。そしてそれでもやるというのは「敗北主義」です。 
 ここでいう敗北主義とは、負けるとわかっていてもやらねばならないという態度のことです。なぜならばそれが次につながるからです。そうすると、この敗北主義というのは負け方が重要なことになります。いかにうまく負けるか、それが焦点です。
ここで負けても実は最後には勝っている・・・それを目指すのが敗北主義の目的です。議会制民主主義を肯定するならばそれは当たり前の態度です。ここで安保法案が成立しても、次の選挙で勝てばいいだけですから。よって負け方が次につながらないと如何様にもならない。ところが往々にして敗北主義なのに本気で戦って敗北してしまう人がいるのは政治の世界ではよくあることです。勝てるはずもない戦いに勝とうとすれば、それだけ傷も深くなる。もちろん動員のために、タテマエとして勝利を目標にするのはあるでしょう。だが、それをタテマエだとわからなくなってしまう人がいるのもよくあるパターンです。』

 ただ、最後まで勝つと思ってやらなければいけない、と感じる思いもある。

 違憲戦争法案の参議院採決は、9月16日(水)になされる。

 議会制民主主義の“数”の問題でいえば、現在 参議院の議員数のうち自民、公明、安倍晋三シンパと言われる野党の合計が149人【自民;114人+公明;20人+次世代;6人+元気;7+改革;2 =149人 / 242人】、全員出席したと仮定したら、法案賛成派と予想される議員は過半数越え。

【※前回衆議院の
可決した衆議院の議員数衆院の現有議席数は474人【自民;294人+公明;31人+日本維新の会+α…】(欠員1)であり、安保法案に賛成した自公や次世代、無所属の議員は327人とされる。過半数でいいところを、3分の2以上。
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参議院が採決をしない場合の60日ルールによる衆議院の再可決には、3分の2以上、つまり316人以上の「賛成」が必要。全議員が出席すると想定した場合、少なくとも1度目の衆院採決に「賛成」した議員から12人の「造反」が出れば安保法案は廃案となる。2005年の郵政国会の自民党造反者(37人)と比べると半数以下。決して実現不可能な話じゃない。【日刊ゲンダイ】
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 “数”でいえば、9/16-18の参議院採決で、公明・安倍シンパの野党からの造反が最低限必須、それでなくては自民党からも造反が出なければならない。創価学会の組織磐石さは、非常に厄介に切り離されて、公明党の遠山清彦を中心に一枚岩に残ってしまっている。
 それがこの間の世論の可視化で、どれだけ影響となっているか。確かに容易なことではない。ここまで無言である池田大作氏は、「武田信玄」状態なのか。

 ただ予断は許されない状況にある、と思う。

 僕はデモがあることは素晴らしいこと、効率でいえば「挨拶のようなもの」と表現されたこともあったが、確実に何かの変化につながっていくものと思う。
 「挨拶」ではあるが、あの大事な2014年東京都知事選の投票率が過去3番目の46,14%であり、期限前投票にどうしても行けなくて、当日残業終わりに投票所が閉まる5分前に全力で駆け込んで、投票所を出る5分後に勝負が決まっていた。分かってはいるが、正直、もうどうにでもなれ、勝手にしろ、と思ったものだ。
 衆議院議員選挙の投票率などは、小選挙区2012年、2014年と戦後最低だ。要は国民の半分が投票に行っていない。
 そして投票率が低いのは、ダントツに20代、30代である。

 政局が安定している国ならまだしも、これは本当に、絶望的なことだ。
「挨拶」なら「挨拶」から始めておけることがある。「権利の実行」がこれだけ、組織票を前に無気力であり、議論もなされずに過ぎ去っていくなら。

 デモは意思表示行為であるから、一人で行くよりは意思が共通する複数と参加した方がいいと考えるし、参加したもの全部そうしているわけではないがSNSやネットで個人報道するのは全うなことだと思う。君が代斉唱で、起立しなかった同級生に、あいつもか、と思えるように、映画関係者でもその態度を確認できるのは大事なことと思う。
 そしてデモ行為はうるさい。うるさくする行為なのだから。植木鉢を人の頭上に落とすことは絶対に許されないが、毎週毎週、ネットに報道されるものを見ながら「うるせえな」「他に方法ねえのか」、いくら“友達”であっても、これも全うな反応なのだと思う。うるせえなと思って、確認するなり消せばいいと思う。
 このあたりの話は、きりがないのでもう止める。

 ひとつに触れておきたいのは、「デモ・アレルギー」も全うな反応としてあると思う。
清氏の発言に、こういったものが確かあった。昨年であったか、安倍晋三政策への反対デモで、「安倍しね」というコールをデモで連呼する場面があり、ひとりの女性がこんな声のために抗議をしているんじゃない、と声をあげ、これを周囲が議論で袋叩きにした、という光景があったという。それを見てこんなものに民意はついていかないだろう、と。僕は撮影準備 - 終了までは他のものにほとんど行かないので、この時期のデモは実際に目にしていない。
 しかし、いまのデモにはこういった声は全くない。無くなった、無くしたのか。しかしそれが、前線に立っている若い人たちの周囲との自省の時間によって浄化しているなら、それは本当に情けないことであると思う。

 しかし声をあげている現場で 攻撃的であり、全員が殺気だっている、というのもまた、“盲目”に基づく攻撃の目線であると思う。
 10万人ないし、12万人が全員そういった顔をしているわけでは、当然ない。
 黙って観ている人もいれば、座り込んでいる人もいる。
 

 なぜ「武力が安全保障上の抑止力」の序論で、議論が終わってしまわなければいけないのか。
 自衛隊員の人権保障について、議論は終わっているのか。
 そして何より、とうとう日本人は戦後の憲法自体について議論をすることなしに、いまの統治行為論で進んでいくのか。
 それは挫折以外のなにものでもないんじゃないだろうか

国会議事堂前の「敗北主義」 -最後に笑うものが最もよく笑う・・戦後左翼史のなかの市民ナショナリズム

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