A Pluralistic Universe

『息衝く』


2016年完成、2017年12月2日(土)初上映。

青森県・弘前harappa 映画館上映
公開時まで、映画製作サポーター募集中

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『愛のゆくえ(仮)』

『愛のゆくえ(仮)』公式HP

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『へばの』
□2008年 第32回 カイロ国際映画祭 上映
□2009年 第38回 ロッテルダム国際映画祭 bright future部門 上映
        東京 ポレポレ東中野 1ヶ月公開より全国上映、
        青森・harappa映画館 上映 
□2010年 群馬・高崎映画祭、
        大阪・NDS 合同上映、
         東京渋谷・アップリンクX 一週間公開 
□2011年 5月/大阪・シアター7にて特集上映
        6月/山梨・シアターホトリニテ 上映
        7月/富山・富山大学、高岡駅前芸文ギャラリー上映 名古屋・『ランドマーク』併映
        11月/岡山・岡山人民映画会(主催;ローザ・ルクセンブルク研究会+「重力」編集会議)
           『アヒルの子』アップリンク ファクトリー 合同上映
        12月/HOWS 『映像から原発問題を考える』上映
□2012年 5月/京都・みなみ会館 Mögen Sie Kino? 映画は好きですか? vol.1
       11月/佐賀・唐津上映 主宰・吉田晶子

□2013年 3月/東京・東中野ポレポレ坐 『愛のゆくえ(仮)』連続上映 Vol.1

□2014年 3月・5月・11月/東京・東中野ポレポレ坐 『へばの』連続上映

        『祝の島』『花火思想』『倭奴へ-在韓被爆者無告の二十六年』と併映

『へばの』公式HP

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2017-10-28 21:03:48

『息衝く』最初の上映は、2017年12月2日になります。

テーマ:ブログ

この5年ほど取り組んできました、私の最新監督作『息衝く』の最初の上映が決まりました。
地元の青森県・弘前市harappa映画館での12/2(土)になります。
弘前市で、映画の様々な挑発的な打ち出し方をされてきたharappaには、遠目から一ファンとして参加はしつつも、2009年より『へばの』上映からお世話になってきました。

映画『息衝く』は、ずっと私が撮りたかった映画でした。
個人が個人以上のことを考えることが難しく、同時に「個」以上を考えることが制御しきれないエネルギーに向かっていく―20代を過ごした2000年代より10年以上、そうした二極に引き裂かれるようなバランスの実感のもとに生きてきた気がします。政局や世の流れ―もう少しで何かが変わりそうでありながら、しかし予期せぬ方向に変っていく。それはどこか、映画をつくりつづけてきた自分達の姿にも重なるものでした。みえない未来に向かい、小さくてもいい、これではないかと思える姿を形づくたりたい。そのはざまでいま生きる人間の姿を、映画になんとか記録できないか、その思いのもと、俳優・スタッフを広範囲から探すことから取り組んできました。
そうした思いの始点ともいうべき結実であった『へばの』と、問いを続行してきた『息衝く』とをいま、地元・弘前で最初に上映して頂けることを、心から嬉しく思います。

12月2日(土)の弘前市harappa映画館上映は、
初回10:30の上映後、主宰・三上雅通さんのご提案も頂き、地元・弘前でいま生活している30代の様々な職種の方々と、映画じたいからもむしろ離れて、青森で生活していることから鼎談できないかと思います。鼎談相手は、近日発表いたします。
14:30からは、『へばの』を8年ぶりに弘前で上映します。
16:30からは、『息衝く』をこの日最終上映し、harappaの主宰メンバーとこの映画について、徹底討論を交わさせて頂きたいと思います。

年の瀬ですが、どうかお越しください。
お待ちしております。

2017-08-27 10:49:49

『童貞。をプロデュース』2017上映中止、舞台挨拶動画アップロードに強い違和感を覚える。

テーマ:ブログ

『童貞。をプロデュース』上映中止、先日8/25の舞台挨拶動画アップロードに強い違和感を覚えます。非常に我慢できないことなので。

 

疑問点がいくつかあります。

あのシネマ・ロサで最初から舞台挨拶を回していたカメラ、最初からかなり作為的で、はっきり言って、物凄く気持ち悪い。喧嘩を売る側の仕込みだとさえ思えた。

で、ないにしても、名前を名乗っているひとが、名前を名乗っているひとに暴行を振るわれている映像を、「名前も顔も明らかにしていない人間」が撮影し、ネットに上げているのは相当な問題だと思います。卑怯です。彼は、映画でも同様のシーンがある、と反論していますが、ネット動画を観る人間は「その映画」をここでは観ることができません。判断しようがない。気持ち悪い、というのはその判断できない、という点でもあります。

それよりもまず、第一に、映り手当事者双方との「公開する」との同意を得ていない。

それが何より、双方言い分はあるにせよ、「公開する」の同意のもとに10年公開されてきた『童貞。をプロデュース』との決定的な違いでしょう。

即刻、取り下げるべきだと思います。

 

主な疑問点

1)『童貞。をプロデュース』の強制AV出演の件について。

これ真偽の判断が現時点でできません。果たして、8/25のシネマ・ロサでの暴行と、本当に同様の内容だったのか。撮り手と、映り手とのやりとりはなかったのか。加賀賢三さんは、「本来の自分が思っていない」台詞を渡され、言っているシーンもある、とblogで当時書いている。演出が随所にあったということです。というよりは、これがフィクション/ドキュメンタリーのはざかいにある作品、というのは当時から作品解説にあったことです。

というより、もう少し正直に言います。内実は、聴いた限りだが知っている。でもそれは言わない。制作陣が明らかにしない、と公開時に言っているから。

 

2)加賀賢三さんが、続編で親友の梅澤嘉朗さんを紹介し、その後、舞台挨拶に共に何度も出ていること。

撮影時に暴行され、作品の公表を望まなかった、と主張していますが、この活動との整合性が自分には分かりません。

 

 

 僕は正直、松江監督の「撮影時の自分と君の関係と、いまの自分と君の関係は違う」。  ここに尽きると思う。撮られる側が―撮影時。公開時。10年の上映の間、で自分の仕事への印象が揺れていくのはあり得べきことだし、そのとき目の前の人間にどう向き合うべきだったかが、年月と共に変っていくのはそうだと思う。それは撮る側だってそう。

 でもそれを「いじめられていた側は、10年間忘れられなかった」だの「撮影時に受けた暴力を、いまやっとやり返した」て誰もが食いつきたいような分かりやすい文脈にして、作品ごと抹消するのは全く違うよね。主演と監督が、仲が悪くなって付き合わなくなった、ていうんなら話はわかる。

 問題が生じて―そこに演出があったのか、同意があったのか、双方どういうやりとりをしたか、はもっと綿密に検証すべきであって、それをどういう場でやり、どう人に知らせていくかはせめて合意を取るのが、当たり前でしょ。どの場なら、それが正確に検証していけるか、ということも含めて。でもそれも、10年前に映画を上映した時点で、腹を決めている問題なのかもしれないけれど。

 

 現時点の自分の結論からいえば、10年間、主演2人をはじめ、様々な関係者が尽力して上映してきた経緯があって、そこはまず知ろうとしてから、考えるべきなんじゃないかと思います。

 それを、10年前の一本のブログと、先日の舞台挨拶の動画1本だけを拡散させて、分かりやすい「暴力と復讐、謝罪」の文脈に流し込もうとする。

その程度の想像力で満足するなら、映画なんか観なくていいでしょ。観るのも語るのももうやめた方がいい、と思います。

2015-09-23 02:01:02

2015年9月19日_安全保障関連法案 強行採決まで

テーマ:社会

2015年9月19日(土)未明に、違憲戦争法案が可決された。

色々反省しなければならないことはある。結局、軍拡がこれからの日本/世界安全保障にとって必要であるという与党側の議論と、軍拡を現状以上せず 外交等によって安全保障を考えるべき、という野党側/反対運動がわの議論は平行線に終わった。
単に結果論を考えるならば、これは分からないままだ。
 この両端の結節点が、本当にわからなかった。

 国会での議論をみても、与党 自民党側に議論をする気がない態度があった。「どうせ理解は得られない」「学者より、我々の方が考えている」は衆愚観そのものだった。今回の一連が茶番であると揶揄をするなら、そもそも茶番をしかけたのは、明らかに政権側だ。
 全部が茶番であるなら、我々にはどの茶番を支持するか、という話だけだ。

 素人考えでも、正直、安全保障て 最初は各論で考えることじゃないの、と思う。対アジア-中国、北朝鮮に関しては外交と現日米関係で対応を考えることであり、中国の方がこれだけの大人数日本で働いている現状を踏まえ中国とのやりとりを考えていくべきだと思う。
 中東の安全保障に関しては アメリカの、中東へのここ10年の対応は、明らかな否の部分を共有しなければならないはずであり、それなくしてイスラム国やテロへの対策は出来ない。日本は必要な距離を取るべきだ。必要最低限なら国連への関与か、あくまで人道支援でいくか。
 その情勢を見ての国の選ぶ、態度があるのではないか。
 それを全体的に、先制攻撃・武器輸出、そして自衛隊派兵までリミッターを外してしまう、この法案には反対しかない。

 しかし可決したなら可決したなりの方策を考えなければならない。
かつての自民党の重鎮・山崎拓が 政権が変われば、集団的自衛権の解釈は従来通りに戻るはずだと発言した。
 
 選択肢は
・可決してしまった法案を、どれだけしっかりしたものに牙抜きし、軌道修正するか。
・政権交代を目指し、従来通りに戻すか。
・違憲立法審査の連発を目指し、廃案にするか-
 しかし、日本には統治行為論(国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論)が根強いので、これにはハードルがある。

…ここまで考えたとき、やはり憲法の問題に戻ってしまう。
 この間、やはり、憲法9条という、戦後短期間で暫定で決められたものが矛盾をはらみながら動かせない状況にあるものについて考えざるを得なかった(日本は戦力を持たない。交戦権もまた認めない。しかし自衛隊はある。_そもそも戦力とは何か?)
 そして、これに対して統治行為論が、安易に 安倍などによって活用される状況がある。(憲法9条は天然記念物であるから、現実問題 行政は行政でやる。憲法の縛りを認めない)
 そして、長年 左派が、憲法についての国民投票/議論を禁じてきた歴史がある。
 9条と統治行為論との並立は、さすがにああこりゃマズいよな…と今更ながら考えざるを得なかった。議論の停滞以外、なにものでもないのだ。

 とうてい今後護憲派にはつけない…というのがいまの正直な実感になってしまったが、かといって現状では改憲側にも動けない。
 今回安倍晋三がやったこととは、日本にとって、改憲論さえ無効にしてしまうことではないか?と思うのだ。
実際、これだけルール無視になってしまうのであれば、日本人は改憲などについて議論がまず始められない。今回の国会議論同様、明らかに平行線で終わる。

 安倍晋三は、改憲議論を、歴史的に退行させた、大罪たる政権としてあったのか。まずはそこで記憶すべき政権なのか。
 それともあるいは、逆説的に改憲議論を切磋琢磨する存在としてあったのか。
憲法議論よりもなにも、どこかに献上させる結果を優先した。

 日本のいまの 憲法、法律では”軍人”は存在しない。
 そして自衛隊は、今後限りなく軍事的な役割を強いられることになる。
 自衛隊が駆けつけ警護などで誤って民間人を殺してしまえば、”殺人罪”に現行日本では捉えるしかないということ、裁判も用意されていない。

 「…現在、国会で繰り広げられている安保法制関連法案の議論、特に『存立危機事態』を巡る与野党の攻防が続いていますが、実は、極めて基本的な論点がひとつ抜け落ちている。それは、自衛隊は軍隊ではないため軍法会議が存在しないという点です。軍事機密の保持という理由から、本来、軍法会議の審理はどこの国でも非公開で行われている。つまり、軍法会議もない今の状況で、安倍政権が想定している米軍との連携を行うとなると、任務不履行が起きたときに対応できない。なぜなら、日本では自衛隊員の裁判も原則公開となっているため、共同で任務に当たっている米軍の機密に触れることになり、裁判が成り立たない可能性が出てくる。隊員が敵前逃亡したときの罰則規定もないようでは、軍の規律が徹底しているとは言い難く、混乱を極める紛争地に派遣されてもリスクが大きくなるだけ。やはり、先に憲法改正を行った上で、自衛隊を国軍化する必要があるのです」

安保国会終盤で再注目される三島由紀夫の「自衛隊二分論」とは?

 

そしてもうこういうロジックがもう用意されている。
 安倍晋三に敬遠されていた、石破茂からの祝辞。
 まあ、合憲だと言っているんでしょう。この人は徴兵制も憲法上の"苦役"には当たらない、と主張してますし。

 石破茂は、安倍真三ほど手つきがバレる器でもないだろうし、タイミング悪く政権につくのが本当に恐ろしい。

『一昨年自民党が党議決定し、総選挙において有権者に示した自民党の安全保障基本法案も、総理の私的諮問機関であった安全保障と防衛力に関する懇談会の報告書も、「憲法上、集団的自衛権は全面的に認められるが、その行使は法律によって厳しく制限される」との考えでしたが、今国会において政府は「集団的自衛権の行使はこの法案に示されたもの以上は現行憲法上認められず、これ以上の行使を可能とするためには憲法の改正が必要」との立場を明らかにしました。
 法的安定性と、憲法第9条に関する今日までの答弁との整合性を重視したものですが、一方において今回の安保法制によっても「米国は日本を防衛する義務を負う。日本は集団的自衛権の行使としての武力行使が出来ないので、国土を米国に対し基地として提供する義務を負い、これによって(非対称的)双務性を確保する」との日米の関係には何ら変更はありません。この議論は今後の課題です。
 法案成立後は憲法改正を目指す、というのが総理のお考えであり、もともと自民党は自主憲法の制定を党是の一つとして結党された政党です。
 私は日本国憲法は大日本帝国憲法の改正手続きに則って成立したものであると考えており、形式論としての無効論には立ちません。しかしその内容については改正すべきと考えます。』

『国連憲章上、何故わざわざ集団的自衛権が明記されたかは以前に論じたとおりですし、民主党の諸兄姉が「集団的自衛権は他国の戦争に巻き込まれ、他国と組んで侵略戦争を行う危険で邪悪な権利だ」と本気で思っておられるのなら、次期参議院選挙の公約に「民主党が政権を取ったら、国連において集団的自衛権の国連憲章からの削除を求めます」と掲げられればよいのです。』 

 『安全保障関連法案成立など』

2015-09-08 19:10:14

2015年8月30日について

テーマ:社会

 先週2015年8月30日(日)に、国会議事堂前で 政府のいう安全保障法案への反対デモが行われ、前後差で大雑把に10~15万人前後の人が参加した。

 これは、1960年の安全保障条約への反対デモ参加人数と匹敵する人数だという。
 その翌日に、かつて「しばき隊」などでレイシストへの抗議運動の前線に立ち、いまは袂を分かった清義明氏が『国会議事堂前の「敗北主義」 -最後に笑うものが最もよく笑う・・戦後左翼史のなかの市民ナショナリズム』をblog投稿した。

 非常に真摯な文章だと読んだ。この間読み砕いているものと咀嚼するのに時間がかかった。また、いまの社会運動がはらんでいる非常な問題についても、重要な指摘があるように思った。正直、この一連の“問題”についてまで意見を投げる時間までは自分には無いので、最後までこの点については触れるのを避けるつもりでいたが、もう時間もない。そろそろネットで文章を書いたりすることも出来なくなると思う、いままでどうしても単発投稿だったが、一度振り返ってまとめたいと思う。

 清氏の文章は長文だが、主張は序文で述べられる。おそらく、いまデモの主導になっている若い人、いや正直言えば僕らの世代、それ以上の世代に対してのことなのかもしれない。序文にはこうある。

 『この法案は可決されます。間違いありません。そして、このことは国会議事堂前に集まったすべての人は皆知っているはずです。この類のデモというのは基本的に議会制民主主義の中では最初から敗北しています。法案を提出した自民党が議席の絶対多数をもっているのですから当たり前です。そしてそれでもやるというのは「敗北主義」です。 
 ここでいう敗北主義とは、負けるとわかっていてもやらねばならないという態度のことです。なぜならばそれが次につながるからです。そうすると、この敗北主義というのは負け方が重要なことになります。いかにうまく負けるか、それが焦点です。
ここで負けても実は最後には勝っている・・・それを目指すのが敗北主義の目的です。議会制民主主義を肯定するならばそれは当たり前の態度です。ここで安保法案が成立しても、次の選挙で勝てばいいだけですから。よって負け方が次につながらないと如何様にもならない。ところが往々にして敗北主義なのに本気で戦って敗北してしまう人がいるのは政治の世界ではよくあることです。勝てるはずもない戦いに勝とうとすれば、それだけ傷も深くなる。もちろん動員のために、タテマエとして勝利を目標にするのはあるでしょう。だが、それをタテマエだとわからなくなってしまう人がいるのもよくあるパターンです。』

 ただ、最後まで勝つと思ってやらなければいけない、と感じる思いもある。

 違憲戦争法案の参議院採決は、9月16日(水)になされる。

 議会制民主主義の“数”の問題でいえば、現在 参議院の議員数のうち自民、公明、安倍晋三シンパと言われる野党の合計が149人【自民;114人+公明;20人+次世代;6人+元気;7+改革;2 =149人 / 242人】、全員出席したと仮定したら、法案賛成派と予想される議員は過半数越え。

【※前回衆議院の
可決した衆議院の議員数衆院の現有議席数は474人【自民;294人+公明;31人+日本維新の会+α…】(欠員1)であり、安保法案に賛成した自公や次世代、無所属の議員は327人とされる。過半数でいいところを、3分の2以上。
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参議院が採決をしない場合の60日ルールによる衆議院の再可決には、3分の2以上、つまり316人以上の「賛成」が必要。全議員が出席すると想定した場合、少なくとも1度目の衆院採決に「賛成」した議員から12人の「造反」が出れば安保法案は廃案となる。2005年の郵政国会の自民党造反者(37人)と比べると半数以下。決して実現不可能な話じゃない。【日刊ゲンダイ】
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 “数”でいえば、9/16-18の参議院採決で、公明・安倍シンパの野党からの造反が最低限必須、それでなくては自民党からも造反が出なければならない。創価学会の組織磐石さは、非常に厄介に切り離されて、公明党の遠山清彦を中心に一枚岩に残ってしまっている。
 それがこの間の世論の可視化で、どれだけ影響となっているか。確かに容易なことではない。ここまで無言である池田大作氏は、「武田信玄」状態なのか。

 ただ予断は許されない状況にある、と思う。

 僕はデモがあることは素晴らしいこと、効率でいえば「挨拶のようなもの」と表現されたこともあったが、確実に何かの変化につながっていくものと思う。
 「挨拶」ではあるが、あの大事な2014年東京都知事選の投票率が過去3番目の46,14%であり、期限前投票にどうしても行けなくて、当日残業終わりに投票所が閉まる5分前に全力で駆け込んで、投票所を出る5分後に勝負が決まっていた。分かってはいるが、正直、もうどうにでもなれ、勝手にしろ、と思ったものだ。
 衆議院議員選挙の投票率などは、小選挙区2012年、2014年と戦後最低だ。要は国民の半分が投票に行っていない。
 そして投票率が低いのは、ダントツに20代、30代である。

 政局が安定している国ならまだしも、これは本当に、絶望的なことだ。
「挨拶」なら「挨拶」から始めておけることがある。「権利の実行」がこれだけ、組織票を前に無気力であり、議論もなされずに過ぎ去っていくなら。

 デモは意思表示行為であるから、一人で行くよりは意思が共通する複数と参加した方がいいと考えるし、参加したもの全部そうしているわけではないがSNSやネットで個人報道するのは全うなことだと思う。君が代斉唱で、起立しなかった同級生に、あいつもか、と思えるように、映画関係者でもその態度を確認できるのは大事なことと思う。
 そしてデモ行為はうるさい。うるさくする行為なのだから。植木鉢を人の頭上に落とすことは絶対に許されないが、毎週毎週、ネットに報道されるものを見ながら「うるせえな」「他に方法ねえのか」、いくら“友達”であっても、これも全うな反応なのだと思う。うるせえなと思って、確認するなり消せばいいと思う。
 このあたりの話は、きりがないのでもう止める。

 ひとつに触れておきたいのは、「デモ・アレルギー」も全うな反応としてあると思う。
清氏の発言に、こういったものが確かあった。昨年であったか、安倍晋三政策への反対デモで、「安倍しね」というコールをデモで連呼する場面があり、ひとりの女性がこんな声のために抗議をしているんじゃない、と声をあげ、これを周囲が議論で袋叩きにした、という光景があったという。それを見てこんなものに民意はついていかないだろう、と。僕は撮影準備 - 終了までは他のものにほとんど行かないので、この時期のデモは実際に目にしていない。
 しかし、いまのデモにはこういった声は全くない。無くなった、無くしたのか。しかしそれが、前線に立っている若い人たちの周囲との自省の時間によって浄化しているなら、それは本当に情けないことであると思う。

 しかし声をあげている現場で 攻撃的であり、全員が殺気だっている、というのもまた、“盲目”に基づく攻撃の目線であると思う。
 10万人ないし、12万人が全員そういった顔をしているわけでは、当然ない。
 黙って観ている人もいれば、座り込んでいる人もいる。
 

 なぜ「武力が安全保障上の抑止力」の序論で、議論が終わってしまわなければいけないのか。
 自衛隊員の人権保障について、議論は終わっているのか。
 そして何より、とうとう日本人は戦後の憲法自体について議論をすることなしに、いまの統治行為論で進んでいくのか。
 それは挫折以外のなにものでもないんじゃないだろうか

国会議事堂前の「敗北主義」 -最後に笑うものが最もよく笑う・・戦後左翼史のなかの市民ナショナリズム

2015-08-19 23:13:53

ふたつの保守

テーマ:生活

違憲戦争法案反対のデモの声は、たしかに中枢には聴こえないかもしれない。
 痛切に思う、本当に難しいのは、デモに行くことではなく、投票、議論する気力さえ殺がれている隣人と話すことだと。貧困…この疲弊した国では、政策批判のゼネストは起き得ない。
 そして二極の疲弊しきった、誰の内にもある保守が、議論がなされないままの状態を冷凍保存して、いつのまにか次に進む。
 それが一番怖いと思う。
 少しずつ、少しずつ、議論や声を具現化していこうとしていく意思は見えてきていると思うのに。

■武力による抑止力を信ずる「保守」も、憲法9条の「保守」も、同じく平和ボケ
■「貧困と孤立」の回避への議論が必要
【抜粋】-------------------------------------------------------------------------------------------------

…ハードパワー(爆弾や軍艦・武力)、ではなく ソフトパワー(その国の有する文化や政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、共感を得ることにより、国際社会からの信頼や、発言力を獲得し得る力) による安全保障という主張には、「平和ボケ」という批判が起きそうだ。筆者も別に、武力保持を全面否定しているわけではない。」
 しかし、現代の戦争は国家と国家がぶつかり合うというよりは、「テロとの戦い」である。米国との集団的自衛権に依存し、無関係の戦争に首を突っ込むのは、むしろテロのリスクを増す結果にならないか。
 安倍総理は「1つの国だけで安全を守れなくなってきている」と言うが、もともと安全とは1つの国だけでは守れないものではないか。だからこそ、外交中心のソフトパワーが大切なのだ。集団的自衛権を認めれば国を守れるのではなく、9条があるから平和なのでもなく、懸命にソフトパワーを磨く努力があってこそ平和を保つことができる。その意味では、「集団的自衛権を認めれば抑止力が高まる」という人も、「憲法9条を守れば戦争に行かなくていい」という人も、実はどちらも「平和ボケ」と言えよう。…

…やみくもに武力による抑止力を信じる「保守」と、やみくもに憲法9条を「保守」しようとするリベラルな人たちが、日本を弱くしていると筆者は感じている。日本の体裁ばかりを繕ったり、頑なに「戦争反対」と叫ぶだけの感情論ではなく、あの戦争を冷静に見つめ、学ぶ必要がある。

…一方、リベラルな人たちがどんなに国会議事堂の前でデモをしても、残念ながら無意味である。議事堂や議員会館で働いてみればわかるが、防音機能が優れているため、その声はちっとも中には聞こえていない。「戦争反対」なんて当たり前のことを主張していても意味がない。論ずるべきは、どうやって「貧困と孤立」を回避するかであり、建設的な議論に結びつけなければ、それこそ戦争で亡くなった人々の死が無駄になろう。

安保法制と安倍談話で考える、日本は「あの戦争」から学んでいるか?-松井雅博

http://diamond.jp/articles/-/76876
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